コルトレーン初期の楽歴とレコーディング | ジョン・コルトレーン John Coltrane

コルトレーン初期の楽歴とレコーディング

コルトレーン、ヘロインを断つ その31


……ボスティック並に練習した結果、コルトレーンの音楽的能力はどの程度まで向上し、その成果は音楽的キャリアにどのようにまたどこまで影響したか。


まず、無事にプロのミュージシャンになることができた(ハァー(゚Д゚ )?1)。18歳で初仕事だから、決して早くはないが遅いとは言えない。まあ、順当なんじゃないか。ともかく、R&B系に片寄りがちだったとはいえ、キング・コラックスやエディ・クリーンヘッド・ヴィンソンといったそれなりに名のあるミュージシャンのバンドでも雇われた(ハァー(゚Д゚ )?2)。

そして1949年には遂にかねてから憧れていたビバップの領袖の一人ディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに加わることができたし、レコーディングにも参加できた。 Things to Come や他のガレスピー・ビッグ・バンドのレパートリーでリード・アルトのパートを閲すれば、1949年当時(22-23歳)のコルトレーンの技量を実感できるだろうとルイス・ポーターは指摘している(ふむふむ)(*)。実際、あの怒濤の急速調 Thing to Come にはそれなりの技術が必要とされるに違いない(……でもなぁ(@Д@;) 3)。さらに、オフィシャルなレコーディングでソロを取ることもできた。1949年11月7日、ピアニストでヴォーカリストのビリー・ヴァレンタインとのセッションでの3曲と、1951年3月1日、ディジー・ガレスピー・セクステットでの We Love to Boogie の1曲だ(ハァー(゚Д゚ )?4)(**)。
(ハァー(゚Д゚ )?1)そらそうだろ。
(ハァー(゚Д゚ )?2)なにもボスティック並にやらなくてももぐり込めんじゃねー?。
(*)Porter, p.81
(でもなぁ(@Д@;)3)次節で言及。
(ハァー(゚Д゚ )?4)そんだけかよ。
(**)その他、1950年1月9日、ガレスピー・ビッグ・バンドのコルトレーンが参加したセッションで、Coast to Coast の最初のテナー・ソロ(1コーラス)と、Ooo-La-La のテナー・ソロはコルトレーンだという説がある。ノルウェー人の研究者ヤン・エーヴェンスムーの指摘。Porter, p.83-84。



(でもなぁ(@ ̄Д ̄@;)3):ガレスピー・ビッグ・バンドでのコルトレーンの役どころはあくまでリード・アルトであって、通常は譜面通りの演奏に終始し、時たまごく僅かなソロ・スペースが与えられるだけだった。アルトのソロ・パートはコルトレーンのすぐ後に加入したジミー・ヒースに任された。つまり、ガレスピーはそう判断したということだ。



(ハァー(゚Д゚ )?4):40年代後半から続くニューヨーク・ジャズ・シーンの不振による経営難からガレスピーは1950年にバンドをコンボに縮小した。コルトレーンとヒースは引き続き同バンドに留まったが、恐らくポール・ゴンザルベスやジェシー・パウエルより彼らのほうが遥かに安く済んだためだろう(*)。有能な先輩達は去ってしまったし、コルトレーンがテナーにスウィッチしたので同一楽器による競合もなくなり、ガレスピーのコンボでは晴れてソロを取る機会に恵まれることになる。がしかし、だ。やがてヘロイン使用がガレスピーにばれてヒースが馘にされ、コルトレーンはバンドで唯一人のホーン奏者になるのだが、オフィシャルなレコーディングでコルトレーンのソロがフィーチャーされたのは We Love to Boogie 一曲のみ、しかもそれはR&B系のボーカル・ナンバーだった。ソロといっても僅か18小節(2/3+1コーラス)のボーカルのつまみたいなやつで、この曲の目的を汲んでだろう、コルトレーンにしてはわりかしキャッチーで分りやすいフレーズに終始しているし、ガレスピーもコアなビバッパーの自分をかなり抑えている。
(*)ゴンザルベスはデューク・エリントンの所へ栄転し、パウエルはジャズより遥かに稼げるR&Bへと転身した。



"We Love to Boogie" に先立つビリー・ヴァレンタインとのセッションにしても、コルトレーンの死後何十年も経ってからディスク・ジョッキーでリイシュー・プロデューサーのフィル・シャープによって発掘されたもので、それまでそこでテナーを吹いているのがコルトレーンであるとはほとんど認知されておらず、全く人知れず埋もれていた代物だ。それは決してコルトレーンの名を広く知らしめるようなセッションではなかった。おれは入手できず未聴だが、多分演奏内容もその程度のものなんだろう(と決め付けちゃっていいのかしら?)。



何だか変だ。何だかおかしい。


練習が命、だがそれは一体何のための練習だったのか。



確かに練習の甲斐あってジャズ・シーンの中枢に何とかもぐり込むことはできた。しかし決して華々しい楽歴を展開できたわけではなかった。華々しいどころか、かなりお寒い感じだ。マイルス・デイヴィス・クインテット加入以前のソロは We Love Boogie(*)の他に、"The Last Giant" というコンピレーションで同じくガレスピー・コンボでのライヴ Good Groove(**)と、ジョニー・ホッジスとの Thru for the Night(***)が聴ける。サンプルが3つしかないから軽々な判断は差し控えるべきところだとはいえども、親友のジミー・ヒースやベニー・ゴルソンの同時期のレコーディングに耳を傾けてみると、50年代前半から半ばまでのコルトレーンの技量がどの程度のものであったのか、大まかな所はつかむことができる。ヒースは1953年のマイルス及びJ.J.ジョンソンとの二つのセッション(****)、ゴルソンは1953年のタッド・ダメロンとのセッション(*****)を聴いてみる(つーかそれしか持ってない)。
(*)1951, 3/1、ディジー・ガレスピー・セクステットによるデトロイトでのスタジオ録音。
(**)1951, 1/13、バードランドにおけるディジー・ガレスピー・セクステットでのソロ。ラジオのエアチェックによるライヴ。
(***)1954, 6、ロサンジェルスでのライヴ。不埒なオーディエンス[偉い! でかした!]による隠し録りのプライヴェート・テープ。
(****)"Miles Davis Vol.1", "Miles Davis Vol.2", "The Eminent Jay Jay Johnson Vol.1", "The Eminent Jay Jay Johnson Vol.2" に分散収録。いずれも Blue Note。
(*****)"Clifford Brown Memorial" に収録。しかし実際はタッド・ダメロンが仕切ったセッション。




Miles Davis Vol.1
Miles Davis Vol.2
Cliford Brown Memorial
Miles Davis Vol.1, 2 Clifford Brown Memorial

ブルー・ノートのセッションは結構好調でいい音出してるマイルスと端正なテクニックのJ.J.ジョンソンに挟まれてちょっと聴き劣りしてしまうが、プレスティッジのセッションではさらに強力なテクの持ち主クリフォード・ブラウンが嫌でも耳につくものの、ヒースもなかなかの好演。ゴルソンはそのブラウン相手に Choose Now で健闘してます。マイルス・デイヴィス・クインテット加入以前のコルトレーンはコンピレーション、The Last Giant のCD1で5曲が聴ける(5曲しか聴けない)。
The Eminent J.J. Johnson Vol.1
The Eminent J.J. Johnson Vol.2
The Last Giant
The Eminent J.J.Johnson Vol.1, 2 The Last Giant



コルトレーンが1951年と1954年、ヒースとゴルソンは1953年の演奏だから年代もばらついていて比較の対象としての条件を十全に満たしているわけでは全然ないが、今おれが言おうとしていることを証拠立てるにはそのような大雑把な比較でも充分だ。つまり、50年代前半の時点で、彼らの中で他の二人に大きく水を開ける程テナーを操る技術に突出している者はいない、ということは限られたサンプルによってもよく分る。まあ、多少の差はあってもみんな似たり寄ったり、ドングリの背競べってところだ。コルトレーンの場合、1955,56年のマイルス・デイヴィス・クインテットその他での破綻の多い演奏を踏まえると、それ以前の演奏だからきっとボロボロに違いない、と高を括りたくなる所だが(失敬な!)、どれもそこそこの出来で、あからさまなミスはない。ゴルソンは Choose Now の二つのテイクがいい。ホーキンス系、特にドン・バイアスの影響が濃厚で、ダブル・タイムも滑らか。ヒースはマイルスとのセッションよりも、J.J.ジョンソンとの方がいいな。コルトレーンよりもずっとハンサムだ(顔じゃなくて演奏がだよ。顔もそうかもしれないけど)。レスター・ヤングのフレーズも清潔だし、総じて灰汁がないというか、押し付けがましくないというか、くどくなくって女好きしそうだ。



ただ気になる点が二つある。一つは曲のテンポだ。コルトレーンのサンプルにはアップ・テンポ或いは急速調の曲がない。Good Groove はダブル・タイムを決めてもいいテンポだがコルトレーンはどういうわけかやっていない。ヒースもゴルソンも速い曲を時に難渋しながらもそこそここなしているんだけど。アップ・テンポでコルトレーンはどんなソロを取ったのだろう。55,56年はいくつかアップ・テンポにてこずっていたソロもあったから、もしかしたらミスっているんじゃないかと勘繰られてならない。とすると、技術的にはヒースやゴルソンのほうがやや、ほんのちょっとだけ上か? とも憶測してしまう。



二つ目はセッションのコンセプトに関して。スタジオ録音の場合に限定してみると、ヒースもゴルソンも正統なモダン・ジャズのセッションだが、コルトレーンの二つのセッションはどちらもモダン・ジャズの主流からは離れたヴォーカル物だ。加えてヒースの場合は先の二つのセッション以外もハワード・マギーとケニー・ドーハムとの共演だった(未聴だからホントは何とも言えないが、きっとちゃんとしたジャズでしょ? 耳にしたことある人教えてください)(*)。これを楽歴上の有意な差と見なすことが出来るかどうかは分らぬが、まあ、事実ではある。ちなみにホッジスとのスタジオでのレコーディングではコルトレーンのソロは全くフィーチャーされなかった。仮にソロを取っていたとしても、モダン・ジャズのメインストリームかどうかという規準でいくと、スウィングのコンセプトということでけちが付くところだ。
(*)ただヒースの場合、どのセッションも兄貴のパーシー・ヒースが絡んでいるからそのつながりで呼ばれた、ということもあるかもしれない。だがそれだけか? J.J.ジョンソンとのセッションを聴けば、ヒースの起用にはそれなりに理由があるのを得心できると思う。



もっとも、コルトレーンの残されたレコーディングがモダン・ジャズの前線から明らかに外れたセッションであったのは、諸般の事情から致し方の無いことではあった、とも言える。折から朝鮮戦争が勃発し、前大戦から兵站基地だったロサンジェルスを中心に西海岸が経済的に潤い、それを背景にウェスト・コースト・ジャズが隆盛を極めていた(*)。その煽りを食ってニューヨークのシーンはさらに低迷を深めたから、ジャズマンの誰もが自ら望むストレイト・アヘッドな演奏で稼ぐことができたわけではなかったからだ(**)。
(*)油井正一『ジャズの歴史物語』p.238
(**)クリフォード・ブラウンだって1952年の初レコーディングはジャズではなかった。



しかし、当時のコルトレーンにはまだ、そうした逆境を乗り越えて彼が望んだであろうようなレコーディングの機会を得るための実力はなかった。常日頃行なっていたボスティック並の練習はそれに見合ったテクニックをもたらさなかった、或いはソロで即興することには充分に生かされていなかった。ロリンズやスティットのように自己名義のセッションが持てる程のテクニックを獲得するには至らず、一枚看板を張るには今少し力不足のヒースやゴルソンと肩を並べるのが精々だった(*)。とすると、ボスティック並の練習はその質が問われることになる。ボスティック並だったのはあくまで単に練習時間・練習量であって、その質と強度はかなり異なるものだったのではないか。得られた成果から類推すれば、それはほとんどボスティック並とは見なせぬ代物だったのではないか、と勘繰らざるを得ない。 (つづく)
(*)但し、アール・ウォーレンやオットー・ハードウィック等、有能なリード・マンは必ずしも有能なソロイストであるとは限らない、という例があるように、根を詰めた練習はコルトレーンが有能なセクション・マンたることには有効だったのかもしれない。コルトレーンが優れたリード・アルトだったという証言については、Porter, p.79参照。






◆ジョン・コルトレーンに関連してその他


『ジョン・コルトレーン 『至上の愛』の真実』 / 『コルトレーンを聴け!』



◆ジョン・コルトレーン・サイト


Trane's Works 55, 56 / ジョン・コルトレーン年譜




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