気づいて、受け容れること=モニタリングの効果 | ジョン・コルトレーン John Coltrane

気づいて、受け容れること=モニタリングの効果


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コルトレーン、ヘロインを断つ 目次


信仰と渇望のモニタリング〈7〉


コルトレーン、ヘロインを断つ その24



それは抑圧すると昂じる


しかし感情を抑えようとすると逆に昂じる、ということはみんな経験的に知ってるでしょ。笑ってはいけない状況で、笑いを抑えようとすると余計おかしくなってきてどうにも止まらなくなってしまうという、という経験は誰にもあるはず。笑いの元、原因はそれほど面白いことではないのに、抑えようすることが逆におかしさを煽ってしまう。無論、泣くまい、怒るまい、と感情を抑制して功を奏する場合もあるが、仮に一時抑制できても、それは感情の根本的な解決にはなっておらず、わだかまりとして残り続け、今度はそれが別の状況に転移して一挙に爆発してしまう、ということもないではない。



似たようなことは、しつこくつきまとって離れないような記憶についても当て嵌まる。例えばジョン・コルトレーンの『至上の愛』や『ファースト・メディテーションズ』といった宗教的な作品が持つ特有の癒しの効果について考えているとしよう。それらは確かに抹香臭くてあんまり粋じゃないが、気の効いたスタンダードのバラードでは決してほぐすことのできないような質のストレスに有効で……とか何とか屁理屈を捏ねていると、テレビを見ていて刷り込まれた唾棄すべきコマーシャル・ソングがいつしか頭の中でリフレーンし始め、そいつはまるで厳かな礼拝の最中に根本敬の画風で描かれた斜視のリアクション芸人がふるちんで乱入した悪夢みたいで、「怪しからん!」と追い払おうとするのだが、一人追い払うとふるちんは二人に増え、その二人を追い払おうとすると今度はふるちんが四人に増えて、追い払えば追い払うほどふにゃちんのふるちんは増えてゆく、そうなるともう必死になってなって増殖するふるちん野郎を追い払おうとするのだが、それら包茎のふるちんはますます増え続けて神妙にかしこまっているはずのおれの頭の中を跳梁跋扈し、だから最早 "Love" やら "Serenity" の神聖な響きは跡形も無く消え失せてしまっている有様で、一体おれは何をやってんだ、という散々な目に遭うことがある(ないか)。



感情の場合と同じで、嫌悪する望まぬ記憶は(或いは一般に記憶は)、抑圧しようとすると逆にリバウンドして頻繁に想起される。このことはハーバード大学の心理学者ダニエル・ワグナーが行なった実験によって示されている(*)。このつきまとう記憶にどう対処すればいいかは感情の処理とほぼ一緒で、抑圧せずに落ち着いて向き合うことでその執拗さを緩和できる。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の様なヘヴィーな場合でも同様だ。トラウマとなった出来事の記憶から逃げずに、心理的に安全な状況でそれ繰り返し追体験する暴露法(エクスポージャー法)によって症状は激減する。
(*)ダニエル・L・シャクター『なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか』p.219



だから感情にせよ記憶にせよ、ふるちんを嫌悪して(つまり判断・解釈して)抑圧しようとせず、逆にあるがままに認め、それと適切な距離をとることで事態は好転する。間をあけることはフォーカシングを開始するための不可欠な前提だが、フォーカシングを先に進めるまでもなく、間を作ること自体にも効果があるケースがあるようだ。『フォーカシングの理論と実際』(p.150-157)にはフェルトセンスを深めるのが危険で困難な精神病において、フェルトセンスをイメージで隔離することによって快方に向かった例が紹介されている。またこのステップは後により重視されるようになり、この段階自体で既に快い解放感が得られることもあるらしい(同p.221-222)。つまり、適切な距離を保ってモニタリングすること自体にある種の効果がある場合がある、ということだ。



感情は一旦昂じてしまうと後戻りが効かない。脳内に放出された情動系の神経伝達物質やホルモンの効果は徐々にゆっくりと消えてゆく。それは決して即座に解消されることはない(*)。また情動はサブリミナルな状態で刺激を受けた時ほどその影響は強くなる(**)。従って、感情のより良いコントロールは、それが昂じる前に、初発の段階で的確に察知することによって可能となる。感情にすっかり呑み込まれてしまう前にまずそれに気づき、一呼吸入れてとりあえず受け入れ、間を取ること、感情からの脱同一化が大切なわけだ。でもこれって、なにやら依存症の渇望に対しても有効そうじゃないか。同様の処置が渇望への対処に効果があるのではないか。
(*)茂木健一郎『脳の中の小さな神々』p.208-209
(**)ジョセフ・ルドゥー 『エモーショナル・ブレイン』p.73。とすれば、スピノザの『エチカ』第5部定理5の(岩波文庫、下p.105-106)、諸原因によって規定された必然的なものとして表象されたものよりも、恣意的であると単純に表彰されたものの方が感情に対する影響はより大きい、ということに、感情の対象が意識に表象されない場合もまた同様である、或いはそれ以上に影響は大きい、と付け加えることができるかもしれない。スピノザの『エチカ』については「平安の祈り」と共に後に触れる。


付記:この症状や問題となる感情から間をあけること、それに気づいて斥けずに取り敢えず受け入れることは、多少のニュアンスを変えながらも、アーノルド・ミンデルのプロセス志向心理学やロン・クルツのハコミセラピー等、いくつかの心理療法では治療を有効に進めるための前提となっている。また認知行動療法においても、患者のメタ認知に介入してその能力を援護・促進し、自動思考(考え癖)や、自動化した悪しき行動パターンに気づき、立ち止まってそれに身を任せないように導くことが、よりスムーズに不適正な認知内容を書き換えることを可能にする。


付記:詰まるところ、それっていわゆる客観化する能力ってことか? 「客観化」の意味を広くとればそれでもいいのかもしれない。しかし「客観化」には個別性を捨象し、一般化して見るニュアンスがあり、心理療法における気づきや脱同一化にはややそぐわないような気がする。人はよく冷静になってもっと客観的に自分の悩みなり感情なりを見つめてみよ、と言う。そして例えば、自分と他人の感情を比較することをアドヴァイスしたりする。自分よりもっと悲しんでいる、もっと悩んでいる人はいくらでもいるだろう、だから自分の悩みなど何ほどのものでもない、ってなわけだ。しかしこれが子供だましなサル知恵(おさるさんごめんなさい)であるのは明白で、「この自分」の「この悩み」は一般化してその程度・量を測って比較したところで決して解消されないし、根本的な解決にはならない。それは程度ではなくて、感情の個別的な「この」質が問題だからだ。人間の情動的体験とは一人一人全て異なるものであり、それらはそれぞれに異なる仕方でしか変容しない(*)。恐らく良いセラピー、成功する心理療法では、例外なくかかるクライエントの個別性・単独性を尊重し、それに触れているってことなんだろう。
(*)スピノザ『エチカ』岩波文庫(上)p.231-232/アラン『スピノザに倣いて』p.95-96



マインドフルネス&アクセプタンス


そして事実、渇望のモニタリングが認知行動療法による依存症の治療に適用されているケースがあるらしい。最早どうやって見つけ出したのか忘れちまったが、多分「依存症 渇望 メタ認知」あたりのキーワードで検索したんだと思う。それは埼玉メンタル・カウンセリング協会 のホームページで、『マインドフルネス&アクセプタンス―認知行動療法の新次元―』(ブレーン出版)という本がかなり詳細に紹介されており、その概要に触れることができる。


このマインドフルネス心理療法が認知行動療法のメインストリームから出てきたものか、それともあくまで傍流に位置するものなのか、また仏教の心身をコントロールするメソッドの影響があるようなので、なんとなくトランスパーソナル系の匂いがしないでもないが、その辺の影響関係はどうなっているのか、全くおれにはわからない。それはともかく、この療法の一番の特徴は、認知内容の修正よりも、メタ認知、つまり認知の仕方を重視し、それを変化させることで問題の改善を図る、という点で、そのためにマインドフルネス(注意深さ、留意すること)とアクセプタンス(受け容れること)というキー概念を基にした様々な方略が使用される。先に見てきたフォーカシング的な内省から、おおよそそれがどんなものかは想像つくでしょ。思考にせよ、感情にせよ、症状にせよ、それに特定の仕方で注意を払って気づき、判断や解釈を下さずに取り敢えず受け容れる、というのが基本で、無論、依存症の渇望もその対象となる。



依存症への適用は「第12章 マインドフルネス再発予防法」で扱われている(*)。ワシントン大学依存行動研究センターで実施された実験的プログラムでヴィパッサナー瞑想を用いたこの療法により、依存の再発予防に効果があったことが報告されている。ヴィパッサナー瞑想というその語感がかなり怪しげだが、インドの古い瞑想法の一つで、仏陀によって再発見され、東南アジアのテラヴァーダ(上座部)仏教において脈々と受け継がれてきた由緒あるものだし、身体の動きや思考・感情の流れに気づき、あるがままにモニターする、という至ってシンプルなメソッドだ。但し奥は深そうだが(**)。それを渇望にも適用したわけだ。
(*)「第12章 アルコール/薬物使用障害の治療法としてのヴィパッサナー瞑想」
(**)ヴィパッサナー瞑想については日本テーラワーダ仏教協会ヴィパッサナー瞑想 を参照せよ。


しかしこのシンプルで一見単純だが、繊細微妙なスキルでもあるモニタリングには至って玄妙な効果がある。依存者の渇望に対する決まりきった反応パターン、嫌悪感を抱いたり、抑圧しようとしたり、といった反応を押し止め、渇望の誘因への自覚をもたらし、また渇望に結びついた心理的要因としての、満たされなさを薬物で補填しようとする傾向を解除し、より適正な他の行動への依存の代替を可能にする。ただ、「依存症について 瞑想法の効果のメカニズム」 でのその説明はやや歯切れが悪く、充分な説得力には欠けるが、おれの勝手な臆見で付け加えれば、感情の場合と同様で、渇望も嫌悪感を持って敵対的に表象したり、抑圧しようとすると、よからぬストレスホルモンなんかが放出されたりして脳内のケミカル・バランスを乱し、渇望が変にこじれたり昂じたりしてしまう、というようなことがあるのではないか。初期の段階で自分の渇望反応に気づくことの重要性はそこら辺にもあるような気がするし、渇望が意識或いはメタ認知のフォーカスから外れた状態ではまんまとそれに裏をかかれてしまったり、というようなこともありそうじゃないか。また或いは条件刺激が不明な故知れぬ渇望の場合も、逸早くそれに気づくことが、もしかしたら無意識のままでいた時に比べて、渇望の高まりをより低いレベルで抑えることをもたらしたりするということもあるかも知れない。

 


以上で漸く、渇望をモニタリングすることにも効果があることを確認できた。いまや12ステップ・プログラムのステップ1-3が、どういう受け止められた場合に効果があるかの一端が理解できる。依存に対する無力の承認と神にすべてを委ねることが、何よりまず、渇望に対する態度変更をもたらさなければならない。すべては神に委ねられた以上、依存者は渇望に対する判断を放棄し、それと闘って抑圧したり斥けたりしてはならなず、取り敢えず受け容れられねばならない。しかし無論それは渇望に身を任せることではない。支配されるがままになって翻弄されたりすることのない適切な距離の確保が必要だ。そしてできうれば、それを心静かに見つめることが望ましい。近藤恒夫には依存に対する意志の無力の承認後、渇望をモニタリングするようになるという変化が現れた。ステップ1-3を文字通りに解すると、ごく機械的にだが、渇望のモニタリングが導かれ得ることは既に述べたが、でもそりゃちょっと虫のいい屁理屈かもしれない。がしかし、渇望に対する態度変更のみにも、大きな効果があるのではないか。おまけにモニタリングしたら言うことなし、ってことなんじゃないかな。



信仰によって依存が克服されるケースも全く同様に説明されるだろう。神に全てを委ねたことで余計な意志の行使が解除され、渇望への態度変更が生じた場合に、それは有効である。信仰によって渇望が消失したとしばしば報告されるが、渇望が消失したというよりは、渇望への平穏な受容的態度がそれを昂じさせることなく、しのぎやすいものとした、というのが実体なのではないだろうか。


付記:少しだけ信仰の質に絡めてちょっと覚書。フロイトは宗教という集団神経症に罹ることによって個人神経症は治るが、それは神経症の根本的な治癒ではなく、歪んだ治り方である、と指摘した(*)。恐らく、様々な依存症の自助グループで宗教による依存の代替を避けるべきだとしているのは、同じような理由からだろう。依存へ向かわせる心理的傾向にせよ、渇望にせよ、依存それ自体にせよ、それは「この私」の「この気持ち」「この渇望」「この依存」であって、この個別性は、共同体の維持存続のために要請される道徳的規範や諸々の宗教儀礼への耽溺、いわば依存・渇望の一般化によっては解消されない。「この私」の「この渇望」に向き合いモニタリングするのに要請されるのは「この私」の個別性に対応した普遍性としての神でなければならないだろう。したがって、それは共同体の神ではない。自分が理解している限りでの神とはそのようなものでなければならないはずだ、と思う。ここらあたりは自助グループの質の分水嶺になってくる。同一化に基づく同情で結びついた集団だとまずい気がする。それは各人の個別性の尊重に基づく共感によって組織されなければならない、ように思われる。 (つづく)
(*)『集団心理学と自我の分析』人文書院、フロイト著作集6、p.251-252



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△おまけ▽


今回はこれをBGMにして書きました、或いは書きながら頭の中でずっと鳴ってました。


Junk Yard / The Birthday Party (1982)


Junk Yard

"The Prayers on Fire" ですっかり味をしめ、次作も聴いてみる。 もうすっかりニック・ケイヴの世界が完成されてる。こっちのが凄い!


バースデイ・パーティのサウンドって、例えば晩年のコルトレーンみたいなリアルなもの、というよりはあくまでもリアリティの世界なわけで、結構洗練されている。


ただその洗練は、ニック・ケイヴの声のリアルさを生かすために、様々なスキルがよりハードでより過激な効果を生む狙いにひたすらに投入されていることからくるわけで、こういう“洗練”ってのもあるという途方もない実例になっている。 (これもつづく)




Trane's Works 55, 56 / ジョン・コルトレーン年譜



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