■「慰安婦強制動員」 アメリカ政府の文書が存在していた

<アンカー>
安倍首相のこのような発言(訳注:「強制性の証拠は無い」との1日の発言のこと。関連スレ参照)が偽りであることを示す文書が、アメリカで公開されました。安倍首相が今度はどんな反応を見せるか知りたいものです。金ジョンフン特派員がお伝えします。

<レポーター>
日本の敗亡直前の1945年4月、日本軍の手から脱走した朝鮮人女性23人が、米軍に引き渡されました。

アメリカ戦略諜報局(OSS)が彼女たちの身柄の引渡しを受けて作成した捕虜尋問報告書は、「23人の朝鮮人女性は、強制的ないし詐欺のよって慰安婦にされた」と記しており、19歳~30歳年齢帯だったとしています。

この報告書は米国立公文書館に機密扱いで保存されていましたが、5年前に機密解除され、韓国系の教授によって発見されました。

<インタビュー: Chang Taehan カリフォルニア大学リバーサイド校教授>
「安倍首相の主張に、公式かつ客観的に反論できる、とても重要な資料です。」

<リポーター>
報告書によると、この女性たちはシンガポールにあった日本の工場の労働者を募集するとの広告にだまされて、1943年7月に朝鮮を出たということです。Chang教授は、この文書の一部を4年前に公開しましたが、安倍首相の否定発言を受けて、このたび全文を公開しました。

<インタビュー: Chang Taehan 教授>
「アメリカ議会とコンタクトを取り、この文書を提出する予定です。」

<レポーター>
アメリカ政府の公式文書が議会に提出されれば、日本に対する慰安婦謝罪要求決議案の採択に相当の弾みがつくものと予想されます。

ロサンゼルスから、KBSニュース・金ジョンフンがお伝えしました。

▽ソース:KBSテレビ 3日夜9時のニュース(韓国語)(2007.03.03 21:42)
http://news.kbs.co.kr/article/world/200703/20070303/1310855.html

テレビのニュースなので、URLを参照しても、見れないのですが、一応。


それにしても、また自爆ですね。好きだなぁ、ほんとに。


>報告書によると、この女性たちはシンガポールにあった日本の工場の労働者を募集するとの広告にだまされて、1943年7月に朝鮮を出たということです。Chang教授は、この文書の一部を4年前に公開しましたが、安倍首相の否定発言を受けて、このたび全文を公開しました。

全文公開というと、これですか?

http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

日本語訳サイト

http://www.geocities.com/theaterapo689/


これはすごい。慰安婦の真実が白日の下にさらされてしまいました。

前書き
このレポートはビルマ、ミーチーナ陥落後1944年8月10日前後の、掃討作戦により捕らえられた、20人の韓国人「慰安婦」と、2人の日本民間人の取調べから得られた情報である。

このレポートは日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする。

慰安婦」とは、売春婦にすぎない。 もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。「慰安婦」と言う言葉は日本人特有のものである。他のレポートでは「慰安婦」とは日本陸軍 が戦う為に不可欠なものであり、どこでも見受けられると記されている。このレポートではしかし、日本人に募集され、ビルマにて彼らの陸軍に付属していた韓 国人「慰安婦」のみを扱うものである。日本人は1942年、ビルマに703名のこれらの女性(*1)を送ったと報告している。

*1(原文ではgilrs=主に少女を意味する言葉が使われているが、
    後に慰安婦の平均年齢25歳と書かれている為、女性と訳しました。)

募集:
1942年5月上旬、東南アジアの新しく勝ち得た属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的により、日本人代理業者は韓国に到着した。この 「奉仕」の本質は特定されず、病院の負傷患者の訪問、包帯を巻いたり、軍人を明るくする事に関連する物と考えられた。
この代理業者が動機として利用したものは大金、家族の借金の返済、簡単な仕事、新天地シンガポールで新しい人生を送れるなどである。この虚偽の説明に基づいて、多くの女性が海外勤務に志願し、何百円かの前金を受けた

これらの大部分の女性は無知で、教養が無かった。しかし、わずかながらだが以前から売春と関連があった者も居る。彼女らはサインした契約書により、家族の借金返済の為受けとった前金の金額により、6ヶ月から1年間、軍規と「舎監(*2)」に束縛された。

おおよそ、800名の女性がこのように集められ、彼女らは1942年、8月20日前後ラングーンに彼女らの舎監と降り立った。彼女らは8人から22人のグ ループで到着した。ここから彼女らはビルマの各地、大抵は近くに日本陸軍基地があるまあまあ大きな町へに分散していった。最終的に4つのグループがミー チーナにたどり着いた。彼らはキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤマであった。キョウエイの一家は「マルヤマクラブ」と呼ばれていた。が、彼女らが ミーチーナに到着した後、ミーチーナ駐屯地の司令官である
マルヤマ大佐と同じ名前の為変更された。
*2(ほぼポン引きと同義語)

性格:
取調べでは、平均的韓国人「慰安婦」は約25歳、無教養、大人気なく、利己的であることを見せる。彼女は白人の基準からも、日本人の基準からも可愛くはない。彼女は自己中心的な傾向があり、自分の事を話すのが好きである。彼女の知らない人の前での態度は静かで、控えめだが、彼女は「男を手玉に取る方法を知っている。」(*3)
彼女は自分の「専門職」が好きでない事を申し立て、その事や、家族の事に付いて話したがらない。ミーチーナとレドゥーでの米国軍人から捕虜として受けた扱いにより、彼女は彼らの方が日本軍人よりも感情的だと感じている。
彼女は中国とインドの部隊を恐れている。

住居と仕事の状況:
ミーチーナで彼女らは大抵大きな2階建ての建物を宿舎として与えられ(大抵は校舎)、各女性に個別の部屋が割り当てられ、各々の女性は生活し、睡眠をとり、業務に勤めた。
ミーチーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無い為、舎監によって、準備されそして購入していた彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。この事は彼らのビルマ2年目では特にそうである。彼女らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。
ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。
優先システム:
彼女らの業務状態は陸軍規定の元にあり、過密地域では規則は厳格に実施された。
陸軍は過密地域では金額、優先順位、各種の部隊が過密して働いてる地域での計画が必要だと考えた。取調べによると、平均的なシステムは以下の通り。
1 兵士     10AM~5PM    1.50円   20~30分
2 NGO      5PM~9PM    3.00円   30~40分
3 将校      9PM~12PM   5.00円   30~40分
これらは中央ビルマでの平均金額である。将校は12円で一晩留まる事が許された。
ミーチーナではマルヤマ大佐が平均金額のほぼ半分まで金額を削減させた。

日程:

兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。
陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けずまま去らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士らを識別する為、建物に駐在した。
秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。
下記に記したものがナイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊がキョウエイで使用した日程である。

日曜    18師団、司令部、所属
月曜    機甲部隊
火曜    工兵
水曜    休日、毎週の健康診断
木曜    衛生兵
金曜    山岳砲兵部隊
土曜    輸送部隊

将校は週7日来る事が許されていた。
彼女らはこの日程でも過密極まりなく、その為、全ての客に構っていられないと文句を言い、それ故多くの兵隊に悪感情をもたらした。

兵士は建物を訪れ、支払いをし、左側に順番、右側に名前の書かれた約5センチ四方のボール紙のチケットを受け取る。
「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、個人が酷く酔っていた時等、頻繁に行使された。


給料と居住状況:

「舎監」は彼女達が契約した時に被った債務金額に次第で彼女らの総収入の50~60%を受け取る。これによると、月平均で女性は1500円を総収益をあげ、彼女は750円を「マスター」に返済する事になる。多くの「マスター」は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を困難なものにした。

1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。

この取調べでは彼女らの健康状態も良い事を示している。
彼女らはあらゆる種類の避妊用具を十分に支給され、しばしば、兵士自身も陸軍から支給された物を持って来る事があった。
彼女らは衛生の問題において客と自分の世話が出来る様、良く訓練されていた。
かかりつけの日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。この同じ手順が陸軍内部でも遂行された。が、興味深い事には兵士は彼が拘束された(*4)期間の間、給料を失う事は無かった。

*4(病気による隔離、拘束)

兵士の反応:

普通の日本軍人は慰安ハウスで見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。

全ての女性が彼女らの所へ来た将兵のうち、翌日前線へ向かう兵士と、酔った物が最悪であると同意した。しかし同様に、酷く酔った日本人兵士であっても、彼女らと機密や軍事問題を話題にする者が居ない事にも同意した。
しかし、女性の方から軍事問題を会話を始めても、将校又は下士官兵は話さず、むしろ「そのような女性らしくない話題について話す事を説教された。酔っ払ったマルヤマ大佐でさえ決してそのような問題について話す事は無かった。」


兵士はよく実家からの雑誌や、手紙や、新聞を受け取ることをいかに楽しみにしているか表現したと言う。彼らはまた、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅や木製の服(*5)であふれた慰安袋を受け取った事にも言及した。
口紅と服は女性の物であり、彼女達は何故実家の人達がそのような物を送るのか理解出来ないが、送り主は彼女自身か、現地の女かしか受け入れられなかったと憶測する。

*5(ありえないけど、wooden clothes=木製の服と書いてあります。
 

これは、全く言い逃れのできない話です。

アメリカ議会に提出されたら大変なことになります。

特に

>「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、

 

>1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。
 

>かかりつけの日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。

 

>普通の日本軍人は慰安ハウスで見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。

 

なんてひどい扱いでしょう。これはまさに性奴隷です。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれ?????