Francのほんの少しを創造的に生きよう!

Francのほんの少しを創造的に生きよう!

自分が「いいな」と思えたことは,他のみんなにとってもそう思えることが少なくないな?・・・ということをちょっと頭に置いて(恐る恐る)足を踏み出してみたら,そこからたくさんのつながりや関わり,そして創造が生まれて,何かを協同して作っていこうってこともありますね。

MAJOR MUSIC / H♡PE All Cast ver.



リスナーがこの曲のメッセージを受け取り、
一人ひとりが能動的な意志を持ったときに
「H♡PE」は真の希望の歌となる--。

                H♡PE PROJECT

「CDの購入が,被災地への募金になります…。」


「こんなに明確なメッセージはないだろう!?」
世界中のこの込み上げる「想い」が
乾くことがないように!




「ミキちゃんのスピーチ」
首相官邸前抗議行動
SASPL‐特定秘密保護法反対する学生有志 主催
2014年12月9日首相官邸前

Amebaでブログを始めよう!
金曜日の夜中,腹部に激痛が走り始め
途中からは寝ることもできないまま朝を迎えました。

そして,何とか痛みをこらえながら出勤し,
教室での子どもたちへの健康観察後,近くの支所へ。
この日は,夏受けられなかった健康診断があったのですね。

その後,「ちょっと,お腹が痛いから,ごめんね。」と
座りながらも授業を行い,少し早めに帰らせてもらいました。
(今から思えば,この時に,専門医に診てもらえれば
まだよかったのです。ところが,)

痛かったのは,ちょうど胃の部分でしたので,
帰り道,ドラッグストアに寄り,
「ガスター10」を購入し,それを服用し済ませました。

一晩寝ると若干よくなっていたので,
約月一で通っている主治医(精神内科医)のところへ行く
ちょうど予約日になっていたので,
一緒にお腹の具合も診てもらいました。

いろいろと触診してもらいながら
「これは風邪からくる腸の病気かもしれないね。」と言われ,
とんぷく薬を含め胃腸炎の薬を服用してもらいました。

これで2日間,静養に努めれば回復するだろう,
きっと,クラスでも,お腹の痛みで何日か休んでいた子もいたから,
それがうつったんだろうね,くらいに思って
ゴロゴロと横になっていました。

ところが…,
土曜の夜から容体はさらに悪化,
お腹の痛みは,もう腸が引きちぎられそうなものになっていました。
床に転がり,何か変な汗がやたらと出てくる中,
どうにもこうにも,
うめき声を上げなければいられないほどのものになりました。
いよいよこれは,
自分で救急のお世話にならなければいけないのかなと。

そんなことを何度も考え,何度も考え
それでも,何とかこの痛みさえ乗り越えられればと思いながら,
耐えていたのです。
(これが,本当によくなかったのです。)

こういった状態で,土・日を過ごし,
月曜日も休みをもらって何とか回復を待ちました。
もう,体を横にしたり,起こしたりするのも大変な状況なのに。

そして,火曜日,
多少,起きることはできるようになっていたので,
もう,これ以上は職場にも迷惑はかけられないと思い,出勤しました。

口に入れるものは,ほとんどもどしていたので,
もうこの時点で,私の人相は,目や頬は落ちくぼみ,
ほとんど別人のようになっていました。

マスクで隠していたのに,顔を見た同僚からは口々に
「顔色悪いですよ」と言われるほど,その変化は明らかだったのですね。
そして,中休みに飲んだ栄養剤をトイレでもどしている私を見て,
校長が「点滴を打ってもらったら?」と言うので,
そうだ,ここで回復を図るには,「点滴だ!」の一心で,
その後,それでも,図工でススキの絵の描き方を教えつつ
「みんな,ごめんね。がんばってね。」と言いながら早退し,
消化器科に向かったのです。

この頃は,原因は何か?を究明する気持ちなどは,
とっくに何処かに失せてしまっていたのです。
そこを飛び越えて,とに角この体を少しでも回復させたいという,
藁にもすがる思いしかなかったのです。

しかし,急に行ってもすぐに受診できるわけではありません。
2時間以上待たされた後,レントゲン撮影と血液検査を受けたところ
腸閉塞を起こしているとのこと。
何にしても,もう腸の周辺が,炎症やら何やらで曇っていて
レントゲンでもよく見えない状態で,すぐに手術が必要だと言うのです。

そして,総合病院を紹介してもらい,すぐに連絡を取ってもらいました。
すると,ちょうど当直の先生が,手術が終わるから,
それが済めば診てもらえるということでした。

私は連絡を取ってくれた先生に握手を求め,
心からお礼を言い,自分で車のハンドルを握って直行しました。
到着が18時31分。
それが11月の10日,火曜日。
金曜日の発症から5日目になっていました。

病院では,増血剤を使ったCTの画像も撮りましたが,
それでも,「魚の骨らしきものが見つかった」
「これが悪さをしていたんだ」という話もありましたが,
実際のところは,やっぱり曇っていてよく見えなかったのです。
(それだけ,炎症が酷かったのです。)

そして,20時20分より手術開始。
そこで初めて,お腹を開いてみて
「虫垂炎」だということが分かりました。
それもかなり進行し,壊死に近い状態でした。
やはり,あの土日の激痛の時点が,最大の山だったのです。
そして,その後膿は臓器の周辺に飛び散り,
腸全体が大きく腫れ上がった状態にまで達していました。

それをできる限り全部?きれいにし,
腫れ上がった腹部を閉じるのも,切断面を縫い合わせると
はち切れそうなので,ちょうど靴紐のように
横に3本這わせるような形で縫い合わせました。

全部で3時間はかかったといいます。

そこからは,回復室に始まり,
入れ替わり立ち替わり,私に顔を見せる看護士も医師も
何もかも…,二言目には
「体を動かしてください」「起きて歩いてください」
と言うのです。

もう,5日間の絶食で,手術を受ける前から,
私の体力は底を突いていました。
しかも,まだ体を起こすのにも激痛が走る中でです。

これは,膿が飛び散った後,切って縫い合わせて
ということをしたので,
腸閉塞などの臓器の癒着が怖いからなのですね。

入院中は,腹部の炎症や腫れ,化膿を防ぐため
かなりきつめの抗生剤を毎日投与されましたが,
私の場合,そのリスクは高いのです。

そこからまたさらに5日間。
点滴だけの絶食生活が続き,
やっと「おもゆ」が頂けるようになり,
その後,3分→5分→7分,そして,全粥となって
15日後,退院となったのです。
考えてみると,本当に普通食は,退院する日の朝,
一食だけでした(笑)

ですから,体重はまだ10キロ近く減ったままでしょうか。
腸の機能も完全に回復したわけではなく,ふらふらなのです。
それでもこうやって,PCに向かい,
今回のこともふり返って文章にするところまでにはなりました。
そして,月曜日からの職場復帰を目指しています。
本当に,間に合うかな?また余計ながんばりなどによって
迷惑をかけてしまわないだろうか。
という不安はありますが,そこは,自分自身の感覚を信じて。


ということで,みなさん,
大変ご無沙汰しました。
死の淵?から帰って参りました(笑)

今回のことは本当に,私も病気への想像力が
足りていませんでした。
最終的に「盲腸」だと分かったのは,お腹を開いてからですし,
そこに結びつけることは全くできませんでした。
これからは,もっとセンシティブになって
予防に努めなければなりませんね。

想像力の土台にあるのは,
やはり,本物の知識であり経験だと思います。


そしてこれは,どんなことについても言えることですが,
我慢もほどほどにして,
人の助けを借りるというのは
本当に大事なことです。

それはまた,逆に助けを必要としている人に敏感になっていき
手を差し伸べられるようになる,ということでもあると思います。
それだけ,その中でこそ知り得る人の情というものもありました。

白衣の天使といわれた頃とは違い
ユニフォーム姿もカラフルになった
看護士のみなさんの人柄もそれぞれにあり,
(最初は3人の若い看護士さんから体を拭いてもらったり…)
長い間入院されている患者のみなさんとお話をしたり,
なかなかできない経験もさせてもらいました。


みなさんもどうぞ,これから益々寒さも増す一方です。
お体の方,ご自愛くださいね。
決して,脅かすつもりはありませんが,
病は,突然やってきますので…。

もはや時代は,
派遣社員4割,残業代0,
正社員に過大な負担と責任がのしかかるという
一億総「いつ入院してもおかしくない」社会であり,
その入院費も大変なものになります。


病態生理

組織学的には粘膜層の軽度な炎症を示すものから、
虫垂壁全層の壊死を呈するものまである。

これら炎症の程度、範囲から本邦では、
1)カタル性虫垂炎 2)蜂窩織炎性虫垂炎(化膿性虫垂炎) 
3)壊疽性虫垂炎 4)穿孔性虫垂炎と分類することが多い。

多くの虫垂炎はカタル性から始まり、炎症が進むにつれて
蜂窩織炎性、壊疽性、そして穿孔性へと進展すると考えられる。

※なお穿孔とは,穴が空くということです。
mymed.jp/di/iym.html
腹膜炎/穿孔性虫垂炎



急性壊疽性穿孔性虫垂炎に対する腹腔鏡下虫垂切除術









『辺野古で政府に排除される人々。これが「本土から来た運動家」に見えますか。』
blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/e0d329cf5719dad9c3275db15e9d3953


「名護市辺野古の新基地建設に向け、防衛省・沖縄防衛局は29日早朝から、陸上部分の本体工事に着手した。
 普段、穏やかな笑みを絶やさない島袋文子さん(86)が、別人のような形相で警備員をにらみつけ、怒りの声を上げた。
 血の水をすすって沖縄戦を生きながらえ、本土とはまったく異なる米軍支配下の戦後を歩んできた86歳の老女を、日本政府は国家意思によって排除したのだ。」
10月30日 沖縄タイムス社説
[辺野古本体工事着手]自治破壊する暴挙だ 

辺野古のキャンプ・シュワプゲート前で抗議活動をする、島袋文子さん(右から二番目)と沖縄社会大衆党の糸数慶子参議院議員(左から二番目)ら。

警察官に混じって警備員も市民を排除する。彼らは、辺野古への基地移設関連の業務を担う建設会社などが契約した民間の警備会社の警備員。警察以上に暴力的だとして悪名高い。

「一生にひとつぐらい良いことをやろうと思っていますが、難しいです。
 私ができることは、基地建設を止めることぐらい。それができたら、今すぐにでも天国に行ってもいいです。思い残すことはありません。
 でも、この海を埋めるなら、海に入ってでも止めるよ」

島袋さんは警察官に抱えられて排除されても、
再び車両進入の阻止のために抗議行動を続けました。
「負けない方法 勝つまでずっと 諦めぬこと」
と記したピンク色のTシャツを着け…。

(以上,引用)



久辺三区への資金援助は,
議会で選ばれた人でも何でもない人へのものですね。
そういった人たちにお金をばらまくというのは,
行政法や自治体法をねじ曲げることになります。

つまり,安保の時には憲法をないがしろにされたように,
今の政府というのは,法を守らない政権なんだということ。
本来,国民を守るべき国のトップが,法を守らず,
自分の思い通りにこの国を動かそうとしている,
と断じていいと思います。


そしてこれも,前々から言っていることですが,
基地問題も原発も
危険なもの,汚染されたものを遠く離れた地に追いやり,
自分たちは安全な場所にいて,
経済活動や,電通の仕掛けた消費行動に勤しむ,
ぬくぬくと生活する。

このような沖縄や僻地に住む人々を
「自分たちの身代わりや犠牲にして」
見て見ぬ振りをするというこの国やこの国民の差別体質は,
まず,米国の核の傘に守られた日米関係から
着手しない限り解決できないもののはずです。

でなければ,彼らの,そこからの開放と
私たち自身の真の自立もあり得ない。

これは,日本が変われば,米国も変わる可能性がある
ということを含めています。

そこをきちんとやりましょう!
そこから,ちゃんと手をつけていきましょう!
ということが,この国の全てを同じ立場から考えていく,
ひいては,格差や差別を作らない!
というポリシーや考え方を示すということになるのではないか,
そういうスタンスで物事を考えていく人間ということに
なるのではないか?と思うわけです。

では,そういった考えを表明しているのは,誰か?
どの党のどの議員か?
日本会議云々の仕組みを解き明かすだけでなく,
それは誰か?を見て話をさらに聞き,
応援できるところは応援していくことができればいい,
そして,どんどんつながっていく
それが一番大切なことではないか?
と思うのです。

これは,ちなみに余談ですが,
民主党については,うちの市議会議員に至るまで
信用することができません。
11月の市議会だよりを見ると,まず,
マイナンバー制度実施の中止または延期を求める
国への意見書提出を求める陳情について,そろって×
送迎保育ステーション設置についての陳情書にもそろって×

これらのことについては,14日(土)の
第3回 議会報告会でくわしい考えを
聞いてきたいと思っています。

さて,そういった道理は,
ちょっと学べば誰もが分かることであるにもかかわらず,
目をつぶり同調していくのが
この国の政治家であり,ひいては
それを黙認してきた私たち国民なのですね。

異論を封じるワンカラーの国。
それに対して,米国が強いのは,ワシントンがどうでも
必ずそこにカウンターカルチャーがある,多様性があるから。
と姜尚中(カン・サンジュン)さんは言います。
www.kangsangjung.net
それに対して,韓国はもっと酷く,国定教科書を作り,
ベトナム戦を言うと,ネット上で威嚇してくるといった具合で,
東アジアの三つの国は,対立しているように見えるけれども
社会全体の中では,同調圧力が強いという
同じ特質をもった構造をしている,と言います。
一人一人が活躍できる社会とは
ほど遠いですね。

私は,そこにこそ,私たち一般の人々から
できることがあるように思うのです。
そこが,そここそが
様々なお互いの社会や国民にとっての
共通の問題点であり弱点
となっていることだからです。
そこの解決の糸口がつかめれば,
無益な紛争も犬の遠吠えのような威嚇も
無用のものになるでしょう。

倫理やモラルなき経済観のなれの果て,
ただの企業の食いものにされているだけ,
そして,その後に残るものは何なのか?
あのハロウィンの馬鹿騒ぎの後に残ったものは,
辺り一面に漂う公衆トイレのような汚臭と
ゴミの山だったようですね。
仮装の支度に使われた場所も
散々の有様だったとか。

そういった己の中にある,
様々なことでの空虚感を問い直せれば,
その国特有の新しい文化は
自ずと生まれ出てくるのではないでしょうか?

そこを説くという異論を放ちながら,
例えば,格差や差別を作らない!という
Identityを保つ生き方が続けられれば,
そこから,つながり合い,一緒に始めましょう,
という取り組みも出てくると思います。



「負けない方法 勝つまでずっと
 諦めぬこと」

ここで言う『勝つ』とは,
もっとつながり通じ合う,その先にあること
なのかなと思うのです。






耳の不自由な方がお互いの意思の疎通や
自分たちの表現活動に使われている手話。

とても,当たり前のことのように
日常生活の中で身に付けられてきていたのかと思っていたら,
いや,実際は決して,『そうではなかった』のですね。
(ちょっと長めになりますが…(´・ω・`))

余録:聴覚に障害がある児童や生徒が通う「ろう学校」…
毎日新聞 2015年10月18日 00時09分
mainichi.jp/opinion/news/20151018k0000m070081000c.html
 聴覚に障害がある児童や生徒が通う「ろう学校」などの教育機関で、手話の使用はかつて禁じられていた。口話(こうわ)法という発声訓練法が、絶対視されていたためだ。「手話を使って先生に見つかった子どもが、廊下に立たされることも多かった」と全日本ろうあ連盟の久松三二(みつじ)事務局長は語る。

 教育現場で手話が評価され始めたのは1990年代、広がったのは2000年代とされる。ろう学校で手話を使うという、ごく普通に思える光景が実現するまで、道は平たんでなかった。

 現在、手話の教育を支え、普及させる態勢作りという課題に多くの自治体は向き合っている。鳥取県が2013年に制定した全国初の「手話言語条例」は手話を正面から「言語」として捉え、手話を使いやすい環境作りを県の責務として定めたことで注目された。

 鳥取県の試みがきっかけとなり、手話条例を独自に定めた自治体はすでに20を超している。群馬県が今年定めた条例は、聴覚障害を持つ子どもが乳幼児期から手話を学べるような教育環境の整備について踏み込んでいる。

 地方からは、手話の普及に必要な施策を総合的に進めるため「手話言語法」制定を求めるうねりも起きている。ろうあ連盟などの働きかけに応じて、全国地方議会の99.7%に達する1783の議会が法制化の意見書を採択した。残る5議会が加わる日も遠くはないようだ。

 「自治体の後押しは心強い。国の対応を促す大きな力となる」と久松事務局長。豊かな表現力を持つ言語として手話を支えることは、多様さと共生の精神の尊重につながる。地方は、そのけん引役にふさわしく思える。(以上,転載)


手話言語法の意見書が採択された地域:神奈川県
https://www.jfd.or.jp/info/misc/sgh/map/i-kanagawa.php
こちらを見ると,ここの自治体で国に意見書が出されたのも
まだ,昨年の6月のこと。

そして,
神奈川県手話言語条例という器は整ったけれども,
その中身がどうなるかは,まだ方針すら分からないのですね。

今後,手話言語普及協議会で議論されるということですが。
docile.way-nifty.com/nwes/2015/04/post-eb4a.html

さて,先週は,
甲状腺ガンの怖さ,国の無策ぶり,そして,保養の大切さについて
クラスの子どもたちに話をしたりお便りにしたりしていましたが,

今回は,この様子について少し知ってもらい
国語で「だれとでも関わり合えるように」と
「手や心で読む」を学習してきた子どもたちですから,
実際に,どんな問題や難しさがあるのか,
また,彼らの手で調べ,解決策のようなものが
考えられるようになるといいなと思います。


私は,初めの文の中にもありましたが,
「聴覚障害をもつ子どもが
乳幼児期から手話を学べるような
教育環境の整備に踏み込むこと」

が一つあるだろうと思います。

豊かで優れた言語能力は,言うまでもありませんが
一番身近にいる人とのくったくのない会話から育まれます。

今,クラスの子どもたちに
家庭での学習としてやってもらっていることの一つに
授業で進めている教材の『音読』というのがあります。
その『音読』は,実はそれだけでは終わらず,
その後に,その日子どもが読んだところから,
聞いてもらった親御さんなどから,言葉でも,文の内容でも,
物語文なら,登場人物の気持ちや情景等々を質問してもらい,
それに子どもたちが答えるという活動を
付け加えてもらっています。

そうやって人を介して,言葉のやり取りを通じて
その文章の内容の理解を進めたり,
情感を深めたりしてもらおうと考えています。

そういった会話が,
実に多様な人たちとの間で行われるといいなと思うのです。

今の子どもたちは,
(大変申し訳ありませんが)
普通に機能を備えているお子さんでも,
普通にしゃべるのは無理です。
ましてや,公の場面ともなれば…。
なのです。

それくらい,言語環境が希薄だということ。
核家族やゲーム,多人数で遊ばないといった,
言葉を使わなくても済むような生活をしているからですね。

しかし,思考は,誰しも言語を使ってこそ行えるのです。
音声言語は,さらに,情感を豊かにしますね。

それを,聴覚障害をもつ子どもが
乳幼児期から手話を通して育めるようになることは
とても大切なことだと思います。

そして,二つ目は,
「豊かな表現力を持つ言語として手話を支えることは、
多様さと共生の精神の尊重につながる。
地方は、そのけん引役にふさわしく思える。」

ということ。

その地方でこそ,
独自の共に学び育つ文化圏や教育圏を
築けばいいのだと思います。

それが,その地域に於ける投資であり,
本当の共生に向けた未来社会への礎になりますね。

実は,先週(その後,体調を崩しましたがw),
ギターをもって,クラスの子どもたちと
近くの介護老人ホームを訪問し,
歌やダンスを披露させていただきました。

夏休みから,こちらから話をもちかけ
計画していたことですが,
最後は,一人一人,お年寄りがいらっしゃるところへ入って
握手をしたり,言葉を交わさせてもらったり…。

手や足や目も不自由になってしまっている方や,
言葉もうまく出せない方もいらっしゃったようですが,
「みんな,涙を流して喜んでいたよ。」
「『上手だったよ,よくがんばったね』『ありがとう』と
言ってもらえてうれしかった。」と話してくれました。
「人と関わり合うというのは大切だと思いました。」
という感想も。

ダンスの最後のところ


施設のみなさんと


そして,もう一つ。
私が願う幸福感のある社会に向けて考えているのが,
まだ元気なお年寄りが,介護の必要になったお年寄りをみて,
最後は看取り看取られていく,という
人の余命も循環させていく社会です。
自分が,この世に産まれてきた役割を
最後まで果たして人生を閉じるということですね。

今日だったかな,NHKで
「いるだけボランティア」という
若者が被災者の仮設に三ヶ月ほど滞在して
そこに居るみなさんと,日常の中で声を掛け合い行き来して,
ちょっと手を貸す,ご飯をよばれるというだけで,
もう,家族のような交流と心情的な支えが
生まれていく様子が映し出されていました。

人の手が必要だからこそ,
そこに関わる人の役割が出てくる。
それがお金だけではない,自分もいずれそうなることを想い,
とことん共存していこうとする,
そういう考え方が広がっていくことが,
新しい価値をもった人々,つまりは,
新しい社会を作っていくことになると思います。



実は,今の仕事を終えて,次に,
私がやっていきたいことが,それなのですね。

地元の人たちと,少しずつでも
そういったことを進めていく記事が
書けるようになるといいなと思っています。





介護施設と幼稚園をひとつに…
高齢化社会に向けた海外の取組み

fundo.jp/31058
ここで紹介するのは,
400人ほどの高齢者の方々がお住まいのシアトルの介護施設。
同じ敷地に幼稚園も併設されており,
双方がさまざまな時間を共有しています。

肉体的な衰退や精神的な孤独を感じていたという介護施設在住の方。
生きる活力を与えてくれたこの取組みに対する感謝を述べている最中,
涙があふれます。



Present Perfect Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=6K3H2VqQKcc
手と手を重ね合わせるところ,
とっても
素敵ですね。

どうして,おばあちゃんの手に,
自分の小さな手をもっていくのでしょう?
そこに,このことの全ての本質が隠されているように思います。

それは,国や民族,宗教の間だって
実は,とてもシンプルなことで,
余計な警戒心を取り除き,
もっともっと私たちは,生きやすく
思っている以上に,
人生を全うしやすく
できるのではないか?

と思えるほどです。