人の数だけ、目覚め・悟りへのたくさんの解釈があります。
「あなたにはできることは何もない。明け渡しなさい、全託しなさい、リラックスしてあるがままに留まりなさい。内側では無努力でいなさい。」と教わる一方で、「目覚めるためには強い情熱(意図)が必要です。外側では徹底的に努力してください、サットカルマが重要です。奉仕してください。」とも言われます。
一体、どちらが真実なのでしょうか?
ここで、エックハルト・トール氏が大変的を得たわかりやすい動画解説をしていますので、シェアさせていただきたいと思います。
ワンネスでも、私がギバーになった当初は、アウェイクニング・コースやバクティ・ヨガ・コースなどでも、「今ここで目覚めが与えられるように強く強く意図してお祈りしましょう。目覚めるのは今日しかありません。」と、徹底されていました。
私自身、「今ここで悟らせてください!絶対悟りを与えてください!与えてくださりありがとうございます!」と、悟りか死かほどの情熱をもって毎日のように願っていました。そうすると、ディバインはそのとおりの数々の圧倒的な悟りの体験を与えてくれたのです。
OMBが主流になった現在でも、この真理は変わらないはずです。しかし、ディバインのあまりにパワフルなエネルギーに頼りすぎて(依存しすぎて)、私たち自身の強い意図(=自覚)がやや薄れてきているようにも感じます。
真の悟りとは、人間と神との二人三脚によって実現されます。
人間の努力(=自力)と、神の恩寵(他力)の融合によって実現されるのです。
エックハルト・トール氏の言い方で説明すれば、「今ここ(=他力・真我)を努力(=自力)すること」なのでしょう。
チベットのゾクチェンの教えでも、「朝と晩に瞑想するだけでは全く足りない。24時間、深く瞑想しなさい。いついかなる時であっても、悟り(自己解脱)の境地(=リクパ)に留まっていなさい。」と教わります。
ゾクチェンの修行者は、「瞑想することなしに瞑想する」と良く言われます。それは、あえて瞑想の時間を確保するまでもなく、日常生活のすべてにおいて、毎瞬毎瞬気づきの状態であり続ける、ということです。
ラマナ・マハルシ流に言えば、「真我しか存在しない。この世のすべてが真我の多様な現れである。常に真我に留まっていなさい。」ということを徹底しているとも言えるでしょう。
前回の記事でも、バガヴァンは「目覚めのレベル50以上に行くためには、日常生活の中で教えを実践(=努力)する必要があります」と述べています。
悟りとは、どこは遠く離れたところにあるのではありません。日常生活そのもの中にあるのです。
仕事や学業の中に、家事や育児の中に、恋愛や結婚生活の中に、そして遊びの中に。
何をしていようとも、悟りの実践は可能なのです。
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