きょうは晴天に恵まれ、日差しが心地よい。もっとも4時ごろ目が覚めてしまい、うつらうつらした影響か、頭の芯がぼんやりしている。


それでも明るい光を窓越しにうけて、バッハの平均律クラヴィーア曲集 第1巻の前半 ( 第12番 BWV857まで ) を聴いた。


第1巻、そして第2巻、色とりどりの作品は、ブックストックに収められた記念切手のような、鮮やかな意匠と、創る人のよろこびを感じさせる。


写真はスヴャトスラフ・リヒテルの、1970年クレスハイム宮録音。




私は、前半の曲では8番 変ホ短調、BWV853が好きだから、いちおう気をひきしめて聴いたつもりだ。それで自ずと比較せざるをえない演奏は、エドヴィン・フィッシャーの歴史的録音だった。




二つの録音のあいだには約40年の歳月が流れている。戦争もあった。時代の変化は劇的であり、人の意識もちがう。比較をして意味があるのか、自分にも分かっていない。


しかし私は、音楽家ではなく、歴史家でもなく、ピアノが弾けるわけでもない。素人の感想を述べるだけということで了解してほしいと思う。


さて BWV853 である。




リヒテル盤は、プレリュード、フーガと、ふたつに分け、フィッシャー盤は一つの曲という扱いになっている。ただ、それはピアニストの考えでない可能性もある為、いちおう問わぬことにして、リヒテルには強い表現意欲を感じさせられた。比喩的にいえば、教会から外へ、踏み出したような。




対してフィッシャー盤は、より信仰的な、いわば聖堂内の佇まいを感じさせる。どちらも現代の鍵盤で弾いているから、左手はバッハ時代のクラヴィーアでは考えにくい持続音をたもち、右手は音の深さをしめす。E.フィッシャーは、歴史的クラヴィーアへの親近性を、恐らくは残している。いっぽうS.リヒテルは、現代楽器による再現にマトを絞っているかも知れない。ただ、そうだとしても、芸術としての良しあしに関係ないし、優劣がつく問題ではないだろう。


第1巻、後半については、明日書ければ書きます。