変化

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新緑の坂道。
つい半月前は桜並木だったのに、今はもう青々と。

この自然界の変化の大きさに比べて、
人間の変化や成長がなんと小さいことか。

今日も午前中は劇団青年座研究所での授業。
いっぱいいっぱい盛り込んでしまったけど、
みんな楽しそうについてきてくれたから、
本当にありがたい。


若い子たちの瞬発力や、向上心はすごい。
ただ、きっと忘れるのも早い。
それは取り込む情報が多すぎるから。


だから、それをきちんと整理して、
自分の中にストックできるか。
しかも、それは取り出したいときに、
すぐ取り出せるようにしておかなければならない。


という情報処理能力が、大切。




かく言う僕も、
例えばいま生徒さんたちに教えている口腔内の息の当て方で母音の響きを生み出す方法は、僕が中学生の時に音楽の授業で教わった方法をアレンジしたもの。


こんなことを中学生に教えてくれていた音楽の宮澤先生もすごいなぁ、と思うが、それを今でも覚えていて、活用している僕の情報保管能力も大したものだ、と自画自賛したくなる。


青々と繁る草花や木々の葉は、
このあと黄朱色に色づいて、やがては枯れ落ち、
冬の間は次の開花の準備を始める。


古来からの記憶を脈々と引き継ぎ、
当たり前のように変化を繰り返していく。


人はその中でどのように生き、
何を想えば良いのか。
そして、何を蓄えていくべきなのか。


飽和した情報や感覚の中から、
自らの知性と良識で選びとり、
きちんと我が物として取り込む能力を、
これからも育んでいきたい。

…と思った春の朝だった。
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自分が歌っていて、または指導をしていて、
つくづく「自分」というものは、「面白い」と感じる。

自分も含めて、人は意外なほどに「自分に無関心」だ。


声を出している自分が、
「いま何を行っているか?」
「どこへ向かおうとしているのか?」
ということについて、自ら意識しない限り理解できない。


自分が何をしていて、何をしようとしているのか理解していないと、それを封じようとする力が働く。

無意識下の自分、本能のままの自分は、
意識下の自分よりよっぽど経験値が高く、また自分を知り尽くしている。
だから、意識下の自分より遥かに優れていて、自然であり、無駄なことは一切しない。



ところが、そのことを意識しない自分は、邪魔をする。
「変化を望まない」「安定を求める」
「無意識下の自分を信じることができず、封じ込めようとする。または支配下に置こうとする」


【歌を歌う】という行為は、実は脳の命令で完全に支配できるものではない。声帯の振動や横隔膜の動きは、手足を動かすのと同レベルで語れるわけがないのだ。


では、どうするのか。
無意識下に行っている行為を意識すること。
そして、それを支配するのではなく、その助言的、模範的な行為に見習い模倣すること。またはその誘導に従って意識的に行動すること。


本能の赴くままに動く思考と行動を、しっかりと見渡しながら自然な流れを保つこと。


それこそが「無意識下に行う行為を、把握しコントロールする」ことになる。



緊張などで息が乱れている自分に気づければ、それを否定するのどはなく、なぜそのようになっているのか、体は何を求め、何をしようとしているのかを見つめればいい。決して自分を貶める為に動く自分はいない。正しいことを行っている自分にどれだけ耳を傾けることができるか、それが全てだ。



とは言え、僕の人生はどこへ向かっているのか?
これは無意識下で自分が望んだ人生なのか?
それとも無意識下の自分に反して、意識下の自分が不自然な選択をし続けてきた結果なのか?

いずれにせよ過去は過去。

今この瞬間に自分が何をしようとしているのか?
どこへ向かおうとしているのか?
きちんと耳を傾けられる自分でいよう。


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数学の「公式」が嫌いだった

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高校の数学は、公式の暗記ばかりで、
肝心の「考える、想像する、実感する」という、数学の醍醐味が感じられなくて嫌いだった。


入試対策ばかりで、
「こういう問題の時は、この公式を使えば解ける」
という授業。

あとはひたすら宿題で出されていた練習問題の解を黒板に書き写す作業。全くもってつまらなかった。


そういう授業を無視して僕がやっていたのは、そのただツールとして教えられた公式の証明。
その公式の中身と構造を、自分で証明して、実感を得ないと自分のものとして使えない、という、面倒くさい性格だった。



今はそれが発声メソッドや音楽哲学、演技論に置き換えられている。
鼻腔共鳴というのは、物理学的にどう説明できるものなのか?
腹式呼吸というのは、生理学的にどういうものなのか?
その芝居は、心理学的にどういうプロセスを要するのか?

など。
「イメージ」や専門理論的な技法や用法が、一体どのような説明で証明できるのか?
それをどのように実感として体感してもらえるのか?


とにかくありとあらゆることを、自分のボキャブラリーで、相手の体験として説明ができるメソッドを開発しない限り、それを「ツール」として与えてはいけない、と思っている。



そう。


相変わらず、面倒くさい人間なのだ。





胸郭を広げて、
腹式呼吸で、
軟口蓋を上げて、
息を回して、
鼻腔共鳴を使って、
支えられた声を出して、、、



絶対にこんなレッスンはしたくない。



ほんと、面倒くさいのだ。



そんな面倒くさいけど、確実に理解できて、体感できて、技術として持ち帰れるレッスンを、体験してみたい人は、どうぞご連絡ください。


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昨年春に上野で、
フラッシュモブ「第九」を行って以来、
活動を1年間休んでいた
「第九」ミリオーネンプロジェクト
事務局メンバーが久しぶりに集結しました。

一区切りであった結成5年目を終え、6年目ということで、いろいろ思うところがありますが、また皆様と一緒に音楽が出来たら嬉しいです。




少し僕も動いてみますので、ぜひこれからも応援してください。





2015年の第九フラッシュモブ
※東京都合唱連盟主催の「野外コンサート」内で催しました





「第九」のフラッシュモブを通して、きちんとしたメッセージを届けることを理想として、毎回熱い練習を重ねて催しています。





ベートーヴェンの遺志を引き継いで、ミリオーネンmillionen(幾百万)の人々が心を繋ぐことができますように。






ところで、東京のど真ん中にゴジラが…

MFS「こうもり」オケ合わせ

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お昼からMFS 「こうもり」ハイライトのオケ合わせ。


場所は本番会場の1つ、
世田谷区富士中学校の体育館でした。


体育館独特の響き…
慣れてないから難しい。


4回通しという荒業をやりましたが、
さすがにヘトヘト…。
ハードでした。


さて、夜は別の稽古…と思って移動。
移動…移動…い、ん?
茅場町に向かって、霞ヶ関付近で気づきました。
「今日は稽古じゃなくて、池袋でレッスン」


慌てて方向転換して池袋に向かいました。
危なかった…。
無事、レッスンにも間に合い、21:30までレッスンしました。


うっかりミスには気をつけよう。