記録と想い

記録と想い

~記憶がないということ~

解離性健忘症(全生活史健忘症)になって



心が壊れる?ということ

今年は草むしりで諦めていたので、売れ残りのきゅうりの苗を見つけて植えてみたら今朝きゅうりの初収穫。動画の文字が切れてるのは、Instagram用のモノを使い回したらこうなって。



サラダと漬けものになりました。



二次発酵終了のつもり

ベースの本と焼き上がり

反対面


米対策として、食パンがまさか売り切れるようなときは・・・と考えていたのは

「お好み焼きくらい?」と思っていた。

春先にふとしたことから、『フライパンでもパンは作れます』という記事というかSNSの記事をみて、図書館で本を探して、更に参考になりそうな記事等を探して、やっと9月から試作に入った。

今回は5回目。少しわかってきたが、まだ全然の状態。そいでも

パンらしくなったのは、色々とうれしい。

最初お米を炊けなくて困ったときのように。その時は炊飯器を使うとやたらと電気代に反映して高くなるので、ガスに切り替えたとき。しばらくはまともなご飯は食べられなかった。諦めずに試行錯誤して、今は手持ちの道具に合わせて炊けるようになってる。

材料費とか色々考えることはあるけど、自力で出来ることが増えるのはきっと自分を助ける事になると思う。

 不動産屋の世界がどんなものかは知らない。自分が体験したことしか書けないけど、


今回は 有難いのと 驚くのと、とにかくなんとかしないといけないというのと、気持ちも何もかもとても状態の悪いなかでの その斜め上をいくような?・・という感じだったと思う。


その影響は今も続いてるし、そういう意味では落ち着くのはいつになるんだろう?・・という本音。


〇1つ言えてるのは、前の所の異常さからは抜け出せて、“その部分において”はいわゆる?普通になってる?のではないか?ということ。


 大事な要素だったし、前のところがどれだけ摩訶不思議な異常な普通じゃない狂った所だったのか?というのを本当に本当に本当に感じる。



さて、今お世話になってる相談支援事業所のKさんが紹介されて連絡して会うことになった不動産屋さんは 僕が言うのは変だけど、ちょっと変わってるなぁという第一印象。


あまり具体的に書く訳にはいかないけど、


 有難いのは、障害者でも“普通”に受け入れる度量の広さ。偏見がなく、勿論事前の僕の情報や話は聞いた上だろうけど、それでも身構えの無い、普通に?人として接してくれたこと。

※感覚的にわかるから※。うまく言葉では言い表せないと思う



 この物件に行く前に入院のあとから考えていた条件をKさんと相談しながら考えていた。

①もう集合住宅は2度と嫌だということ

②それなら戸建ということか?

③今の自治体の範囲内で妥協無く探すこと

④この地域は海のある所。離島でもなんでもとにかく集合住宅ではなく、通院がなんとかできるところなら なんとか探す。へんぴなところでももう集合住宅は嫌。

⑤時間はかかっても仕方ない。

⑥受け入れてくれる所(不動産屋でもなんでも)があるかどうか?それによって全く違ってくるだろう・・・

…など



細かくはさらにあるが、絶対条件としてはそうで、

その時はそれ位しか浮かばなかった。


とにかくじぶんにとってバタバタというのはこういうことなのだと。


今考えて、そんなこと言ってたら普通の人・健常な人はわからないが、僕の場合 更に難しくするだけなような事なんだと感じながら・・・


どこか引っ越したいというのは何年も前からあったが、急に突然に色々動き出して、準備のないまま


やってることは本当に顛末編の頃と同じ。


あの時と違うのは 相談支援事業所のKさんが居てくれているということの違いのみ。


連れていってもらったのは、Kさんともにちょっとびっくりする所だった。


どこから書けばよいのか?・・・

決まらなかった。どこの不動産屋ものらりくらりかわすだけで相手にする気は無かった。あの時と一緒。顛末変で書いたあの時と。


ある人が言った(当時の通所していた所の人間の言葉)「世の中こんなもんですよ・・」「そんなことしなくても  あはは・・」。


言うのは簡単である。無責任なんだから。


目の前のわからない“何もかも”のなにもわかろうとしない福祉のほとんどの人間は当時、本当にどういうつもりか?その影響はその後何年も続いていく。


 2021年から担当してくれたFさんから今の担当のKさんが力ずくの修正をしてくれた中で、

今の担当のKさんが どういう流れか?“あの”この地域の自治体のしょうがい福祉課のあるひとの紹介から、事態は急進展していく事になった。


 あまりにもバタバタで退院したばかりの敵だらけのアパートの天井の低い、物の置き場が無くなってきていた傾いた床の、壁から聞こえる怒鳴り叫ぶ声・2階からのドスドスとした足音。大家の態度・・・・・


“気持ちの余裕?”なんて そもそも普段から全く無いところに 12月に危ういところで命を拾って、入院して退院して。


 藁をもつかむ思いなんて言葉がふつうは使うような状況なんだろうけど


 その紹介された不動産屋と会うことになった日、

久しぶりに直接会う面談してくれているKさんと一緒に役場の前で 待った。


 不動産屋関連では驚くばかりが更に驚くことになる。



世の中は、僕のようなモノは受け入れない。そう。受け入れない。


顛末編・・・あの頃今読み返してもよく書いたものと 何日もどれだけのどれだけ時間かかって書いたものの よくわからないような・・・そんな中にあった2つばかりの不動産屋は 言葉ばかりは丁寧だと思ったとおりだけど、


たぶん作り話かなにかのお断りで物件は紹介出来ないとのことで。2011年からずっと、詳しくわからなくても肌で?感じるような?感覚がある。隠しもしないあからさまな物言い。でもなんでも・・・


『何も変わってはいない』『何も変わるつもりも無いのだろう』それは思いつつも、あの時から何かしら少しは世の中どうにか少しでも僅かでもなにか・・・と0ではない可能性を0でもないような蜘蛛の糸を・・・なにも無くても掴めるかもと思った自分がバカだった。



別にそこだけではない、ただ今今でのあの生き地獄のような場所から出られるのに、探しようが無い。


住んでる自治体の中には離島もある。考えつく可能性を考えながら、すぐにでも引っ越したくても、どうにもならない。引っ越しの許可は出た。でも実行に移せない。



僕のことと限ってと書いたほうがよいのか?少なくとも僕のような障害者はクズである。どれ程キレイゴトを並べても世の中は出来損ないのことは腹の中では邪魔者以下・いなければ良いのにというのが、本音なのである。


どれ程こっちがなにかをのぞんでも。


それでも全てではないのも知ってる。


圧倒的不特定多数は でも 



常にある『存在するべきではない』という想いと、『命は全うしてこそのものである』という中、なんとか命は全うしようとしてはいる。



では 受け入れてもらえないのに毎日の中、ひとりきりで、まず目の前の日常すら途方にくれている中で、そういう状況の誰もそばにいてサポートしても貰えない中、どうすればよいのか?(福祉の人は居てくれてる。でも月に1度の面談のみである)


いつからか途方に暮れる時間に更に新たな時間が重なっただけの多重の時間がのしかかる。

訳のわからない時。もう10年くらい前。ニ、三行の言葉を書いてブログにアップするのに半日以上かかっていた頃。それでもよくアップしたと思うころの


『顛末編』を読んで貰ってからなら 僅かばかりでも何かを感じて貰えるかもしれない事を


次から書くこと?内容なのだとおもいます。



最近!NHK Eテレで放送されてる『超多様性トークショー!なれそめ』という番組で扱われた《記憶を無くした彼女&初体験を楽しむ彼》の中で、冒頭の説明文?のなか、


字幕表示可能なら書いてあって。『乖離性健忘』について、初めて  初めて、『その頻度や症状は様々です・・・』という説明が入った。


  〇2011年からその前のことは一切わからず、どれだけの扱いをされてきているか?今も。


こういう所にスポットを当てた本気の番組をやる可能性は今のところ日本のテレビではNHK

僅かに可能性を持ってるのかもしれない。


記憶障害をネタ扱いしただけの民放のドラマ(書かれるようなことしかしてない)がはびこる中。


結局他人事。


震災でもなんでも


結局他人事でしかない現実。


テレビは諸刃の剣以上の、どこに真実があるの?という風にしか思えない ほとんど嘘でしょ?


それでも可能性を僅かな可能性をおもうから一応観てる状態。


だから一切のアプローチには応えない。だいたい応えられないのだけど。自分で自分を把握できてないから。


でもあらゆるマスメディア・テレビも民放関係には今後も全く応えることはないだろうと思う。今はどこにも。


パラレルワールドなら有るのかもしれないのか?


以前のねほりんぱほりんの時よりは ほんの僅かにまともな人がからんだのか?



『ありのまま』を普通にキチンと伝える所なんてどこもない。



2024年になったのだろうが、テレビも見ない。ラジオも聞かない。かろうじて許可が下りれば聞けるかもしれないウォークマンのみしか持って行かなかった(よくそれを気がつけた)から、早々の能登周辺の地震なども退院してテレビを見るまで全く知らなかった。(被災された地域の方にはおくやみと、復興へのお祈りをします。)




“自分の世界”はそれどころではなかった。


たしか、1月4日頃くらいから、少しずつ食べたときの味とか?自分は今起きてる?とか、トイレ行きたいとか、感じる?ようになり始めたと思う。


退院まで、部屋の電灯はほとんど普通に点けることは無かった。


スタッフとわかっていても、極力口をききたいとは思わなかった。


言ってる意味は判る分、定時のチェック(検温とか)の時以外は、部屋の中に人が入ることはないし、


自分が何をどうしたいとか、そういうのがわからなかった。


退院が確かに決まってあと数日というくらいに、少しスタッフの人と会話らしいのをしたように思うが、自分からということは無かったと思う。


有難かったのは、入院中の時期が部屋の向きのおかげで日の出が見られたこと位だろうか。


谷間のアパートの部屋では全くない窓からの様子が気持ちを少しでも立て直す助けになったと思う。



当時、今でもふと考えるのは、あの時はもっとずっとひっそり病院の部屋で過ごしたいということ。


それは退院後の流れがあまりにも怒濤の様に今に至っていて、本当の意味では落ち着いてはいないどころか、気持ちの地に足が着いていない感覚。



あの部屋を出られたというのはある意味では落ち着いてるところは確かにあって。把握実感できないまま今も。


入院中に年が明けて色々動きがある中で、引っ越せることが決まったらしい話を聞かされたのは退院の2日前で、現在相談している事業所の人と電話で話したり、外に出たとき?退院後の事でいやでも(この言葉が近い言葉と思う)考えざるをえない状況になっていく。



合計15日間位の日数だが、それでも随分配慮されての入院だったと思う。



退院の日には引っ越せることがハッキリしていたから、部屋に帰るのはものすごくストレスを感じたが、あとは福祉の人なりのどれくらい集中して時間を割いてくれるかによって変わるのだろうということくらいを考えて、部屋に戻ることになる。

 前の部屋はフローリングで実質的なリビングとしての 広さは5.5~6畳分くらいの広さしかなかった。


前の前の何もしない最低な福祉の人間にある事件のあと、『モノが多いのよ あはは・・』って言われたことがある。生活することの何もわからずに誰ひとり教えてくれることも無い中、どうしろっていうのか?・・・という中、僅かに自学?の中で必要ないもの(の判断も出来ない・出来なくても)はとにかく捨てていってもそれでも10年近く訳のわからない生活をしてればモノもどうしても増えてくる。


 最後はおそらく畳1枚分(布団を敷けるくらい)の床しか無くなってきていた。途方にくれる中で


『記録に残せば証拠になる』というようなアドバイスのもとで メモに残したものは今も残しているが、


とにかく聞こえよがし?なのか、明らかに隣との仕切りの壁を通して 怒鳴り散らす叫ぶ声が聞こえてくる。


~「ウルサイ! 迷惑! やかましい! フザケンナ!・・・等等・・~


当時上は2階の新しい人間のドスドスした歩く音というより天井が揺れ、つるすタイプの電灯が揺れ、普通の明るさも無くなっていた上に 


 こちらは物を置くのでも動かすのでも 歩くのでも、トイレを流すのでも風呂なんて湯船は張ることもなく4つの洗面器にお湯を出してそれで身体を洗うのみでしかないのに



『大家』は隣の言葉を丸々信用したらしく、~《風呂がウルサイ 洗濯がウルサイ》 ~なんなの?というようなありえない事で文句を言ってくる。8月以降数日おきに直接来る。


忘れることはない。これが世間の言葉として忘れてはいけない言葉。

➡《『あんた障害者だもんね ・いつでも居るよね・証拠が無いからね・・』》⬅


 それなら監視カメラでも外でも部屋の中でも取り付けてくれていいからしらべたらどうですか?と言えば、『そんな金のかかることできるか?あんたみたいの相手に・・』。



もうこの時点で『無理』だと思ったあの時。


隣と大家からなんにもしてないのに叫ばれ壁を叩くのか?蹴るのか?


おびえるばかりの中 おかしくなっていく体調。


 病院の個室の壁はどれだけ拭い去ろうとしても

床も天井も当然窓のある壁以外の三方全てが恐怖と脅威の存在でしかなく、


体育座り?というような膝を抱えて部屋のあちこちに電灯も点けず4日ほどは過ごすことになる。


食事も運んでもらい、でも部屋の中には入らずに出入り口の所でのやりとり。


僕が受けつけないのである。


みんな同じモノにしか見えず、そんなことは無いと思いつつも、気持ちの中は《『半狂乱》』な気持ちと ハリケーンか台風か嵐が渦巻いていた。


幾らか自分を自覚するようになるのは年が明けて4日位だったと・・・


僅かでも何かしら考えようと出来るようになったのはそれくらいだったと思う。


そこからは 少し前からの医療用のメモ帳に何かしら書き記していく