昔なやみを語り合う会に出席したことがあった。
これまで感動を受けた人物について語ってくださいと言われた。
その時
京都洛星高校の先生が蟻の街のマリアのことを話されたのが今も心に残っている。
「私が学生時代、、上智大学の学生だったんですが
当時蟻の街のマリア北原怜子さんの話題でもちきりになり一生忘れられないほど影響を受けました、、」と語っておられた。

蟻の街のマリアが話題になったのは私が小学生の時だったけどプロテスタントの教会でも話題になってた。


蟻の街のマリア北原怜子(さとこ)さんのことを思い出すと私は消えたくなる。自分が恥ずかしい。
ゼノ修道士のこともアウシュビッツで殉教したコルベ神父のことも。こんな偉い人たちがいて、一方自分は死後ろくでもないとこへ堕ちるにきまっている。

北原怜子さんは大学教授の家のお嬢さんに生まれながら隅田川畔のバタヤ集落に身を投じた、カトリックの女性。
情熱的なまでに奉仕活動をして、結核をわずらって28歳の若さで亡くなってしまった。

私が小学生のころです。蟻の街のマリア、蟻の街のマリアって大評判になり1958年映画にもなりました。美輪(当時は丸山)明宏さんが出てました。

第二次世界大戦で家を焼かれて財産を無くし、路頭に迷った人々が、東京墨田区の「蟻の街」に住みだし、バタヤをしながら暮らしていた。

こういった生活を余儀なくされる人々は、当時日本全国に居て、日本が復興していく中でも、取り残されていった。その中でも、蟻の街は、際立って規模が大きかった。

あのころ、自らも長崎で被爆しながら、

日本全国を回って戦災孤児をたすけていたポーランド人の「ゼノ神父」から蟻の街の話を聞いた北原怜子さんは

、ゼノ神父と一緒に、蟻の街の救援活動に身を投じて、時には子供たちに勉強を教え、時には一緒にゴミ拾いに行き、寝食を共にした。

ゼノ神父はアウシュビッツで殉教したコルベ神父と長崎で一緒に活動してた人です。ゼノ神父は北原怜子さんが住んでた近く浅草のバタヤ集落で活動しててサンタクロースのような神父様がいると近くの人が呼んでくれたのです。それ以来北原怜子さんはゼノ神父と共に蟻の町に通うようになりました。

自分の生涯で一番感銘を受けた人は誰ですか?と聞かれたとき「蟻の街のマリア」ってこたえる人多いんです。
あるいは蟻の街のゼノ神父も。「カワイソ コドモいませんか?カワイソ ボーヤいませんか?」と言って日本全国の孤児をたずね歩いたゼノさんを絶賛する日本人多いんです。


世界的にはアウシュビッツで殉教したコルベ神父って答える人も。
この「蟻の街」は、浅草・言問橋のあたり、墨田公園にあった。


長崎で伝道中のマクシミリアノ・コルベ神父、中央と左から二番目ゼノ

長崎で伝道中のマクシミリアノ・コルベ神父、中央と左から二番目ゼノ神父。
終戦後上野駅周辺の孤児に手をさしのべるゼノ神父

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アウシュビッツで殉教したマリア・コルベ、神父
[諸国民の中の正義の人]と呼ばれる人たちがいる。ナチスドイツのホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人がポーランドに5941人居てマクシミリアノ・コルベ神父もその一人。


宗教心ゼロの家庭で育ったので神の教えと程遠い人生を歩んできたが。1950年代、蟻の町のマリア北原怜子さんのことが話題になり玲子さんを導いたポーランド人のゼノ神父のことが話題になり、ゼノ神父と共に
長崎に来日したコルベ神父のこと。
彼がアウシュビッツで餓死刑になったことが話題になった。

超俗物の私にはこの世にこんな偉大な人達が居ることが理解できないんだが。

アウシュビッツ展に行ってみたらアンネ・フランクさんの写真と一緒にコルベ神父の等身大の写真も展示してあった。

早乙女勝元さん著の「アウシュビッツのコルベ神父」という本を買ってきた。

​​コルベ神父の若い頃ときたら。すごい美男でアラン・ドロン顔負けである。目をらんらんと輝かせ神がかりの顔をしている。この人が芸能界目指さないで何でまた?
コルベ神父は長崎で布教したあと1936年ポーランドへ戻ったが教会の地下堂にナチスに追われるポーランド人やユダヤ人を千人もかくまった罪で1941年5月アウシュビッツに送られた。

収容所では一人脱走者が出ると無作為に10人選ばれて餓死室に送られる。ある男が餓死刑に選ばれた時
「私には妻子がいる。何故死なないといけないのか」と泣き叫んだ。コルベ神父はその時
「私はカトリック神父で独身です。私には失うものが何もありません」身代わりを申し出た。
コルベ神父と9人は餓死室に送られたが何故か2週間たっても4人が死ななかった。
餓死者は通常、飢えと渇きで錯乱状態になるのにコルベと9人はならなかった。祈りをささげ賛美歌を歌って地下牢が聖堂のようであったと言う。
4人は気味悪がられ,最後は薬物注射で殺された。

コルベ神父は20世紀の殉教者の列に加えられた。今、肉体労働者、ジャーナリスト、囚人、薬物中毒者の守護聖人になっている。