ご存知な方もおられるかもしれません。
1ヶ月前の9月7日に、実の父が永眠しました。
この一ヶ月間は、何もする気にならず、なんとなく日々が過ぎていった気がします。
少しずつですが、ココロの整理をすべく記事にまとめてみようかと思いアップしました。
父との思い出は、36年生きてきたなかで色々ありますが、やはり事業を起こしてからのものが多い気がします。
15年間働いた会社を脱サラして、LED事業をしたいたと言ったとき 「大丈夫なのか?」と心配してくれた事を思い出します。
開店して初めて客さんが来てくれたときは、自分の事かのように物陰から嬉しそうに見ていてくれました。
BIRDfactoryは、父の経営する自動車整備工場の一角を間借りして店舗を構えています。
なので、同じ工場内で父は車整備の仕事をして、僕は車にLEDの取り付けをしている事が良くありました。
ときにはお互いを手伝う事もしばしば有り少し違う形ではあったものの、一緒に仕事をしているような気がして嬉しかった事を思い出します。
店舗開店から半年ほどたったある日に、突然父の病気が発覚しました。
「肺線癌」という病で、状況は末期であるため、手術は出来ず抗がん剤治療しか出来ないと解りました。
父は、吐き気や脱毛と戦いながらも、あまりキツイなど言わず、常に仕事の事をいつも気にしていて、病院のベッドの上からも電話でお客さんに連絡をとったり、仕事の支持をしたりという状態で頑張っていました。
薬の効きは当初とても良くて、退院して自宅へ帰って来る事があり、工場で仕事をこなすというその姿を見ていると、このまま良くなってくれればと心から願っていました。
体調の良いときは、一緒にご飯を食べにいったり、父の馴染みの居酒屋にいってカラオケを歌った事もありました。
初めて父の歌う徳永英明のレイニーブルーを聞き、その甘い声に驚いたことが昨日の事かのように思い出します。
生前、父が好きだった「レイニーブルー」
少しでも親孝行をしたいと思い、身を固めることを決意し報告した時は嬉しそうだったのと同時に、ホッとした表情をしていました。
今年の5月に行った披露宴では、沢山の友人知人に出席してもらったたおかげで、父もとても楽しい時間を過ごしパワーを貰ったと思います。
楽しい宴も終わり一人、二人と親戚が帰っていく姿をみていると、あまり感情を出さない父が淋しいねぇと呟いていたことが今でも忘れられませんん。
披露宴が終わった頃から、少しずつ病状が悪化していって、入院する期間が長くなって行きました。
少しずつですが、覚悟をせねばと思っていたのもこの頃からかもしれません。
最終的には脳への転移が見つかり、最後まで治療をすべく頑張りましたが、苦しみのなか息を引き取りました。
今日でその日から1ヶ月が経ちました。
父が旅立ち、悲しみのなかで決意した事があります。
父の築いてきた大切なお客様、そして祖父の代から守ってきた工場を僕は守っていこうと思います。
自動車工場の経営は簡単に出来るものではありませんし、二足の草鞋を履く事はとても難しいと思います。
しかし、45年間父の守ってきた 「萩原車両整備販売工場」 がここにあります。
祖父の代から数えると60年以上続いた、工場です。
父が大切にしていたお客様や工場を継承して行くことが、今できる親孝行になるのでは?と考えています。
この場をお借りしまして、皆様にお願いがあります。
どんなことでもかまいません。オイル交換やタイヤの空気圧点検でも構いません。
車で事で、相談に乗れる事があれば是非とも宜しくおねがいします。
いつの日にか、父を越せるように頑張りますので、どうか宜しくおねがいします。