卒業しました。





本日無事に卒業式を終え、卒業証書・卒業証明書を頂いてきました。晴れて卒業です。実質もう高校生じゃありません。

「卒業しました」と書くことを目指してやってきたブログもこれで終了です。なにしろもう「通信制生徒の日常」にはなりませんからね。

今はこれからのことに神経を注がなければならないしこの卒業自体にさほど特別な感慨があるわけではありませんが、一応頑張ってやってきたことではあるので、相応な分は喜びたいと思います。これも一重に見守ってくれた周りの人のおかげです。九割以上は、精神的にずっと支えてくれ、時には直接的に勉強も教えてくれた彼女のおかげ。





卒業式の感想はというとほぼ「尿意」という言葉に尽きるのですが(エピローグになんてフレーズだ)思ったよりも緊張感があって感動的なシーンもありました(もちろん緊張感は尿意によるものとは別で。にしても適さないフレーズだ)。

こんな日ぐらい高校生活を振り返りたいなとか学校からの帰り道でも思っていたんですが、正直自分にとっての高校生活のイメージはポッカリと空いた穴のような感じで、全然「こんなことがあったな!あんなこともあったな!」と思い浮かんできません。

イメージの中で学校の活動は生活のサブ的なもののようです。高校時代にやった趣味のこととか苦しんだこととかのほうが懐かしいかな。

まぁあえて言うなら、入学したばかりのときのことよりもこの2008年度の最初の頃のことが懐かしく思えるかもしれません。

クソ暑い中頭ガンガンになりながら学校から歩いて帰ったこととか、ラウンジで微妙に居心地悪いながらも買って飲んだ缶コーヒーとか。

通信制高校を卒業するのが大変かどうかと聞かれれば、仕事してなければ普通に簡単なんじゃないかなぁ。その代わりこんなスカスカの思い出話をする程度の充実度しか得られないかもしれません。もちろん学校行事に参加したり部活動をしたり僕より積極的に活動している人はもっと充実しているでしょうけどね。

5年間通ったというのにホントに溢れ出てくるような思い出がない。これからじわじわくるのかな。




兎にも角にも「卒業しました」を書くというこのブログの目標は達成されました。

あとはオマケとしてこの記事の下に2・3個、学校のレポートで書いた作文の類なんかをアップしようかなと思ってます。

今後どっかでまたブログはやろうと思ってますが、それをここで告知するかはわかりません。

それではみなさんこんなひでーブログにお付き合い下さり誠にありがとうございました。



             2009.3.22 零太

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 『前を向いて後ろへ』


 「私は、他人の考えに文句を言う人間が理解出来ない。それぞれが違う考えを持っていることは当たり前であって、認められるべき自由だ。他人の考えを否定したり文句を言ったりする人間はおかしい」このような言葉を聞いて、何か少し変だと思われないだろうか。一見筋の通った客観的な意見を述べているようにも見えるが、主張の内容を冷静に見ると、他人の考えに文句を言う人の考えに文句を言っている。これは自己矛盾というやつではないのか。こんな指摘は揚げ足取りに過ぎず言いたいことはわかるからそれでいいではないかと言われるかもしれないが、本人がこの点に気付いていないとしたら少し怖い。誰でも言ってしまいそうな台詞である。


 最近そのような、客観的に論理を捉えることの大事さを感じさせられることが多い。自分なりに一生懸命主張をしているつもりでも、傍から見れば自分がその主張をしていること自体がおかしかったりする。冒頭に続いて「おまえがやったんじゃないと言うならその証拠を見せてみろ」なんて言葉はどうだろう。よく聞くような台詞だが、これは難しい言葉で言うと“挙証責任の転嫁”というものらしい。やった証拠があるならともかく、やっていない証拠がないだけでは本当は何の根拠にもならない。本来自分が証拠を出して主張しなければいけないところを相手に証拠を出せとは、まさに責任の転嫁である。「おまえは泥棒をやっていない証拠がないから泥棒だ」などと言われてはたまったものではない。この理不尽さも、客観的な視点の欠如が招いているものなのではないだろうか。少し冷静に考えてみればこうしたおかしさは目に留まるのだが、聞きなじみのある表現だし自分も日常このような言い方を使ってしまいそうなところが恐ろしい。


 このように、少し気を抜くと自己中心的で偏った、理不尽な言動をしてしまいかねないところは誰しもあるだろう。本人としては真っ直ぐ前に進んでいるつもりでも、周りから見れば前を向いて後ろへ進んでいるような、そんな滑稽な姿なのかもしれない。重要なのは客観性であり、矛盾や破綻を招かない論理だ。自分の視界からの情報だけを頼りにすると、自分が前に進んでいるのか景色が後ろに下がっているのかはわからない。しっかり前に進むために、多角的な確認を欠かさず、謙虚な姿勢を心がけたいものである。


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国語のレポートの小論文を書きなさいという設問で書いたもの。ほぼ生まれて初めての小論文。

これを書くちょっと前から論理的思考や論文というものに興味を持っていたし受験用の現代文の勉強で小論文の書き方みたいのも見たりしていたので、書くこと自体は楽しくやれました。ただ字数をオーバーしてしまい、実際に提出したのはこれより短いバージョン。また後から手も加えています。


一応気に入ってはいるんですが、しかしねぇ、どうなんでしょうかね。

「物事の筋道を客観的に確認せよ」と主張はあるとして、まぁ学校に提出するものだからそうしたっていうのもあるんですが言ってることが一般論というか当たり前すぎますし、書いている当人は「前を向いて後ろへ」という表現で破綻した論理の滑稽さを表現することに酔っており、そういう姿勢は論理の文章としては好ましくないんでしょうね。堅い文章のフリをしたエッセイなんじゃないか。これ小論文と言えるんでしょうか?(レポートが通ってはいるから全く成立してないわけじゃないんだろうけど)

ちなみに内容はこのブログに書いていたものだったりします。何を書こうかと困ったのでブログに書いてあったものを改めてまとめたんです。

 『良いことをするのが恥ずかしい?』



 家族で食卓を囲っていると突然母が言った。
 「今日、街で献血カーを見て、時間はあったしやってもよかったんだけど、やったことがないから何か上手くいかなかったら恥ずかしいやらなにやらで結局やれなかった」
 誰かのためと行動を起こす、ましてや献血なんてお金に代えられない価値があるのだから、それを考えただけでも立派というもの。それなのに「恥ずかしい」とは面白い。母自身も自分の気持ちが何かおかしいと引っかかっていたのでついつい話してしまったのだろう。


 その話題は程なく終わったが、私としては妙に共感するところがあって、食事が終わってからもしばらく考えていた。血筋なのかどうなのかは知らないが考えてみれば私の過去にも「人のためだけど恥ずかしくて」行動を踏みとどまったことが何度もあるように思う。
 例えば電車の座席。
 私はまだ10代で疲れている時や長距離の移動でなければ電車内で座れないことなどはどうってことない。しかし、生まれてこの方お年寄りに席を譲ったことは一度もないのだ。
 社交的な性格でないのもあるが、「お譲りしましょうか」と言ったものの「それには及びません」と言われた時のことを考えると「好意を売っておいて失敗したやつ」となんとなく自分が恥ずかしくなる気がしてしまう。おまけに、席を譲るというのは「立っているのも辛そうに見えます」という意思表示のようで何か失礼な気がしてしまうのだ。だからある程度混んでいる時は譲る必要がないように最初から立っているという何か不自然な状態だ。


 我ながら、そのような発想はやけにマイナス思考、消極的ではないか。たとえ断られたとしてもこちらは相手方を思いやっての行動なのだから悪いことではないはずだし、相手にしてもそれ自体は嫌ではないはずだ。
 しかし何故か、特に大衆の中で自分から好意を発揮するのは「出しゃばる」と感じてしまう自分がいる。出しゃばっておいて、もしかしたらお門違いの好意なのではと考えるとついつい行動を踏みとどまってしまうのだ。


 考えだすとそういった場面は自分に限らず結構あるのかもしれないとも思う。手を差し伸べることは出来るし、そうしたい気持ちもあるのに、何故か消極的になってしまう場面。

 何があるかわからない世の中、無闇に他人と関わりたくないというのはあるし、そもそも日本人には「自分が、自分が」と出て行かない“遠慮”の美徳のようなものも備わっているとは思う。しかし何も、好意からの行動まで遠慮する必要はないはず。


 もしかすると、都会でそれぞれ無関心にすれ違っているように見える人たちは見た目よりもっと「良い人」なのかもしれない。性善説ではないが困っている人を助けたい気持ちぐらいは誰しも自然と持てるものではないだろうか。それを、ちょっとの消極的な気持ちが歯止めとなって遠慮してはいないか。遠慮が遠慮を呼んではいないか。
 好意を心の中に踏みとどめているほんの少しの恥ずかしさや遠慮を取り払った時、世の中は一気に暖かくなれるのかもしれない。
 少なくともそんな可能性を秘めながら世界が回っていると思うとなんだか楽しく、自分だけでも積極的になってみようかと思えてくるのである。



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この日の授業 の課題で書いたエッセイ。 実際に提出したものにちょっと手を加えています。

頂いた評価は「誰もが考えることを深く掘り下げられている。最後のまとめで視点を大きく広げたのが素晴らしく、そこで読み手はなにか救われた気持ちになる」というものでした。

僕としてはあの先生の授業は思ったよりも楽しくて、以降エッセイが好きになりました。だから書いてて楽しかったですし、丁寧に読んで上記のような感想をもらえたことも嬉しかったです。

ただ皮肉なことに、ある人のエッセイを読んで自分が書いた「好意ならばそれ自体は悪くない」という意見は今あまり好きではないものとなっています。好意だろうが悪意だろうが受け手にとって影響は同じ。何をされたかに尽きるし嬉しくないものは好意だろうが悪意だろうが嬉しくない。それを「好意なんだから」と喜ぶことを強要されるような空気が存在するこに反発を覚える今日この頃。

別に完成度の高いエッセイではないんでしょうが、自分としてはそこそこ気に入っています。

昨日生まれて初めて自分の銀行口座を作ってきました。

そう、「ちゃんとした人間になろうキャンペーン」で何事もやっていかないと、銀行くらい使えるようにならないと……と。

んなもん高校生でもみんなできるわとかそういうことはもはやいいのです。“Never too late(遅すぎるということはない)”という格言があります。今の自分がどれだけダメでどれだけ出来ていないかは、「改善させるべきだ」という事実やそれを目指す行動に何ら影響を与えるものではありません。いいのです。


これも色んなことをできるようになって大人になるためのひとつのピースというかね。

とにかく踏み出していくんだ、ということです。

クレジットカード機能とかなんか便利そうなんで三菱東京UFJ銀行に行くことにして、事前にしっかり必要となる身分証の類を確認。後期の学費分の現金もしっかり落とさないように……

僕はためらいなく入り口で係の方に尋ねました。


零太『普通預金口座を開設したいのですけど』


係員『ご本人様で?』


零太『はい』


係員『ご本人様であることを確認する書類や印鑑はお持ちですか?』

















あああああああああああああ印鑑忘れたあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ











わざわざ電車賃払って出向いたというのに……

別にいちいち改行してオチにするほどの話でもないとかそういうことはいいのです。これもひとつの変なダンス であり、何かをしている限り何かを学べる。それを忘れないようにブログに記す……それでいいのです。いいのです。






通信制生徒の日常-UFJ時計

戦利品。撮り方下手でアレですけど、お洒落な時計です。

窓口に何気なく置いてあって、見たときからなんかいいなと思っていたんです。

一通り手続きした後に500円分のクーポン券?か時計か差し上げますと言われたので時計にしました。

そういえば彼女もこんなの持っていたなと思いながら。調べてみたらやはりexactly same(英語にする必要ない)なものを彼女も持っているよう。なんだか嬉しいな。

数字を表示してるところは透けてまして、気温も表示してくれるのがイイです。

Amazonで洋書を注文してみました。

クレジットカード持ってないし、代引きは手数料かかるから

コンビニ・ATM決済というやつにしてみた。

商品が確保できたら決済番号を載せたメール?が来るらしいけど、なかなか来ないなぁ。ちゃんと決済できるかしら。ハラハラ。

しかし携帯代とか年金とかコンビニで払い込めるのは気軽でいいね。

とはいえ自分の銀行口座を持っていないので、どこかで作ろうと思っています。イケメンの三浦君が宣伝してるしUFJでいこか? 払い込みとか引き落とすようにしたほうが長期的には手間かからないですよね。

洋書は単純に興味持ってて読みたいやつ。まぁ英語の勉強も兼ねられるかなぁというのも何パーセントかはありーので。

英語くらいものにしたいってのはありますよねぇ。今も受験勉強終わって暇なのでネットで英語の論文を電子辞書片手に読む日々です。

でも、実際本買って肝心なところが意味わかんなかったらどうしよう。

洋書の要所が読めない……プッ

え、大学生活にあたっての抱負は何かって?

そうですねぇ、やっぱりこんな時代だし、何らかの「実力」を身に付けたいなぁと思いますよね。

前にもこんな話書いた気がするけど、これまでの環境とか捨て去って身ひとつで道端に立たされたとして「じゃぁ私はこれをやって生きていきます」って強く言える何か。

エコノミクス的に見ても見なくても、自分の居場所を得るためには社会の……誰かの役に立てるということが前提でしょうからね。

歌手だったら歌うんだろうし、床屋さんだったら切るんだろうし、俺は……なんだろ?これから考えます。


ところで最近おいしいものを食べたんじゃないかって?

そうなんです。横浜のジョイナス地下に入ってるパレットってお店で彼女と一緒にオムライスを食べたんですけど、あれおいしかったなぁ。

食べ物とかに関して邪道を嫌ってるんで自分は物凄い王道なというかシンプルなやつを食べてすごいおいしかったのですが、彼女が食べてたよくわからんお洒落なやつもすごいおいしかった。

やっぱりお店で食べるオムライスはうまいな。それもこの前のは今まで食べた中で一番おいしかったです。

オカンの作るようなペラペラの薄い卵のやつも、もちろんおいしくないとは言いませんがあまりに薄くてほとんど単純にケチャップライス食べてる感じなんですよねぇ。オムライスのときになると卵をケチるくせに普段テーブルの上が淋しいと誤魔化すようにこっちが頼んでもいない「“他におかずないからとりあえず”のオムレツ」をしょっちゅう出してきて、それに卵使うんだったらオムライスのときに回してくれと思ったものです。まぁもう一緒に暮らしてないし文句言うのはやめよう。


そんなことより何気に初めての体験をしたんじゃないかって?

実はそうなんです。先日初めてミスタードーナツでドーナツを買いました。

もちろん幾度となく食べたことはあるのですが、ミスドといえば自分にとっては「たまに家族の誰かが買って来ると食べるもの」であって、物凄くうまいと思うしCMとかで見ると食べたくなることもありましたが、自分で買ったことは何気になかったのです。

で思ったんですけど、商品名を言うのが恥ずかしいですね。

僕のような冴えない男が荷物ぶら下げながら「エンゼルショコラ」とか言いたくない。

「オールドファッション」はむしろ「色々お洒落なのありますけど自分はシンプルなオールドファッションで……」的な感じが出せていいんですけど、「カスタード&ホイップ」も何故か少し恥ずかしい。

「ストロベリーホイップフレンチ」はなんか一生言えないような気がする。いや別にそんなに恥ずかしいことはないんですけど、相手も聞きたくないと思ってるんじゃないかと。気にしすぎか。

ああー、この前買って来てもらって食べておいしかったのはフロッキーシューってやつか。行ったときあったかなあれ。今度は買おう(←おいしさには勝てない)。


最近、出かけたりしてブログに書きたいなと思うこともちょくちょくあるのですが

家に帰ってみるとわざわざ書くほどでもないかなと思ったりで書くことが少ないです。

これまで書いてきたことの99%はその「わざわざ書くほどでもないかな」レベルで構成されており、それを言っちゃーおしまいよって話なのですが。





まぁひとつ。大学の入学式に備えて父上とスーツを買いに行ってきました。

スーツのことなど全然わからないので父に付き合ってもらえることはとっても有難かったのですが、どうも父とはお金を使うことに関する感覚が噛み合わないので戸惑ったりはありました。

金銭感覚が合わないっていう感じではないのですよね。金銭感覚って言葉はなんか単純に価格に対する評価っていうイメージなんですけど、父と合わないのは「こういうときは気にせず金使おうよ」なタイミングというか。

いつもいつもお金のことを気にして行動するのはつまらないと思うのは同感なので程度の問題に過ぎないのですが、そこで無闇に払う必要なくね?って思うことが多い。

あぁ、養ってくれている人への愚痴みたいになっても悪いのでスーツの話に軌道修正。


「そのうちリクルートスーツに使えるようなやつにできればなと思うんですけど……」とお店の人に言ったらすごく微妙な顔をされました。それはやっぱり別ですからねーという感じで。

個人的には入学式で飾りたい意識もない(みんなスーツを着るみたいだから用意しなきゃと思っただけ)のでむしろリクルートスーツを買って入学式で着れればいいぐらいなもんですが

なにしろわからないのでそういうもんなのか?とも思ったり、難しいなと感じたところで。一応浮かないものにしたいですからね。

結局何向けなのかはよくわからないままに買ったような気がして、そこはなんとなく後悔しているかもしれません。いや、見た感じ良いと思うの買ったから別にいいような気もするけれど。

買った後彼女にその話をしたら「絶対スーツをいくつも売りたいから(店員が)違うと言ってるだけ」って言われて、そういうもんなのかなぁ、高い買い物なのに失敗したのかなぁと微妙に凹んだ次第です。

入学式用に買うとしたら多分入学式でしか着ないからウン万円も出費するのはあまりにも馬鹿らしい。

最終的にはそこそこお手頃な値段のを買ったとは思いますが、うーん。なんか今になって凹むなぁ。

意味もなくスーツ着て出かけたりしようか。そういう行為帳尻を合わせることにもならないと思うので好きじゃないけど。



あー、うーん。いくつか書くことあると思ったから書き始めたのにスーツのこと書いてたら忘れてしまいました。

あ、そうだ、大学に受かるのっていいですねって話。

別に大学という箱自体にはそんなに魅力を感じていないというか、いまだに実感すらないし自分の大学について全然知りもしないんですが

通信制高校で、しかも5年も通っていたりすると何かと説明がめんどくさいから。

親戚と会っても「今いくつだっけ?大学?」みたいなこと挨拶代わりに聞かれて「いや、えぇ、19なんですけど、まだ高校で、あは、まぁ色々」みたいなぐだぐだとした返答を続けてきたけれども

「春から大学です」の一言が使えると全てが丸く収まる。「おめでとう」「ありがとうございます」これで場の空気も和やかになる。

で、それこそおじいちゃんおばあちゃんに近況を話すようなケースでもいちいち手間取ることなく安心させられて自分もラクだし相手も多分良い。

受かった時は単純に、こんなにいろんな人からお祝いしてもらえるのかぁと思いました。って言っても家族を除けば2、3人ですけど、自分は全然おめでたいことだと思っていなかったのに周りからは祝福してもらえてあぁ嬉しいことなんだって感じたというか。

ひどい答案書いて三流大学に入っただけだし大変なのはこれからですけど、一応受かれてその事実があるとラクなんだなぁと思いました。



あとは、なんだろ。本を読みたいけどあんまり読めてません。体力を付けたいけどやはり体が常にどっか悪いタチのようで運動できておらずむしろ弱体化してます。

ちゃんとした人間になろうキャンペーンはほんと今後加速していかないと言い訳してるうちに闇に閉じ込められちゃうな。

一応受験が終わって、やることないし(←本当はやらなければならないことなら色々ある)、まぁあんまり好きな物買わないし自分へのご褒美的なものもあってもいいのかなと、昨日本を買いに行ってきました。

会計を勉強する本とか、統計解析の本とか、ゲーム理論の本とか、漫画とか。

古本じゃなく買うと高いね…好きなのが買えていいけど。数学をゼロからやれるような本とかプログラミングの本とかもちょっとほしかったのですけど、ちゃんと読みきれるかわからないしとりあえずやめました。

それにしてもケロロが売っててNHKへようこそが売ってないのは何故?

4軒中4軒でそうだったんですが。あぁ、読みたいなぁ。続き。

あと、漫画の並べ方が本屋によって違うことに今更気付きました、向かって左から右へ巻の値が大きくなっていくのと、逆と。左から右の並びが多いような気がしますが、あれの違いには何か意味があるんでしょうか。あれ、右からが多いんだっけ。

ちなみに自分が並べるときは左から右だったと思いますが、特に意識していなかったので逆もやっていたかもしれません。漫画だったら大体開きの向きは変わらないよね?

ま、そう体調も優れないことだし、おとなしくゲーム理論の本を読むか……

不安だったけど単位、ちゃんと必修を満たしていて特別活動という必要な活動の量も足りているらしい。先生に確認してもらいました。

何しろ通信制ってハンドブックにある説明とか表を見て自分でこれだけしないとな、と判断しているだけなんで、心許なかったのです。もちろん普通に授業に出ていればちょいちょい色んな説明は聞けるけれどもこっちから積極的にいかない限りは細かく確認してもらえることはないし。

先生にはお手数かけてしまったけれども、最後の最後くらいちょっと甘えてもいいのかなと思いました。

こういう環境の下で自己管理能力が身についたのかはよくわかりません。まぁ、別についてないと思います。並の高校生よりいろんなことをちゃんとやる能力に劣っていることは変わりない。


あとは、卒業式を迎えたらこのブログは終了にしたいと思います。

オマケのネタとして学校の授業で書いた作文とかひとつふたつ載せようかなと思っていますけど、誰が見ていて何があるかわからないので卒業証書をもらうまではやらないどきます。

大学、受かってました。


間違いかと思って見直しても合格通知書って書いてあるし、どうやら間違いではないらしい。

本気で落ちたと思っていたから(とはいえ心のどこかでは受かっているかもなんていうのも思いつつだけど)逆に戸惑ったというか、今体調も良くないのにこれから手続きとかして四月から学校に通わなきゃならないのかと思うとすごく大変に思えてテンションが低かったんですが(「あー……受かったのか……」っていう感じだった)

彼女にメールしたらとっても喜んでくれたので、自分も嬉しくなりました。


まぁ三流大学のマイナーな学部ですけど(んなこと言っちゃ失礼か)

それでも、大学に受かったというのは立派なことだと思いますよ。一般論として。

なんか今あんまり楽しい気分じゃないけど、気持ち切り替えて楽しいこと探して頑張っていこうという気にならないでもない。

「まだ本気出してないだけ、そのうち出せばいいんだよ」でグダグダしないでどっかで頑張らなきゃこんな世の中生きていけない。本気出すには、人生経験積むには良い機会。どっかで本気出すってお前、今出さなきゃ、という話。なんか変に熱くなってるみたいでおかしいな。


これで高校のほうをミスなくちゃんと卒業できればいいんですけどねぇ。なんか怖いんだけど。