精神の政治学 Staatswissenschaft des Geistes  (連載第3回) | 薔薇十字制作室:Ameba出張所

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(3)精神(ガイスト)の政治学とは
精神(ガイスト)の政治学が導入されるのは、人間が観念の操り人形であることに反旗を翻した瞬間からである。いうまでもなく、精神(ガイスト)の政治学は、ヘーゲルの精神(ガイスト)の現象学に、権力装置批判の視点を導入し、内部から覆すという目論見ゆえの呼称である。観念はヴィールスのように、人間のインナーワールドに侵入し、増殖を繰り返し、やがては人間の全行動を支配するに至る(ウィリアム・S・バロウズのSF的視点)。この観念を析出し、社会システムのなかで人間をどのように配置しているかを明らかにし、反国家装置の立場から観念批判を企てるのが、精神(ガイスト)の政治学の役割である。
精神(ガイスト)の政治学は、権力の所在ではなく、権力がどのように機能しているか(それは『監獄の誕生』のフーコーの視点と基本的に同一である。)、欲望をいかにコード化しているか(それはドゥルーズ=ガタリやリオタールの立場と基本的に同一である。)、権力のエコノミーを明らかにしようとする。そのため精神(ガイスト)の政治学は、コギト=人間主体を学問の出発点とすることを拒否する。なぜなら、人間主体は権力の効果として形作られ、国家装置の中で機能しているという見逃すことのできない側面を有しているからである。
このような国家のイデオロギー装置(AIE)の側面に注目する視点は、ルイ・アルチュセールの『国家と国家のイデオロギー装置』(邦題:『国家とイデオロギー』福村出版、西川長夫訳)の延長線上にある考え方でもある。(アルチュセールは『マルクスのために』(人文書院・平凡社ライブラリー)および『資本論を読む(バリバールらとの共著)』(合同出版)(ちくま学芸文庫、今村仁司訳)によってマルクスの新しい読み方を導入した。その方法とは人間中心主義的な初期マルクスと『ドイツ・イデオロギー』以降の後期マルクスとの間に<認識論的切断>があるとして「構造」論的パースペクティヴを導入した点にある。ただし、アルチュセール自身は知の組み合わせイデオロギーとしての構造主義を否定していた。『資本論を読む』の頃のアルチュセールは、やや理論偏重に傾いており、『国家と国家のイデオロギー装置』は、その点に対する自己批判後の実践的な著作である。)
アルチュセールは、イデオロギーを(1)思想家などが自覚的・体系的に展開する理論的イデオロギーと、(2)日常の生活=実践と一体になっているために通常自覚されない実践的イデオロギー(イデオロギー一般)と大別し、実践的イデオロギーを「諸個人の現実的な存在[生活]諸条件にたいするかれらの想像的関係の[についての]《表象》である。」とし、現実を「歪曲」するものとして捉える。アルチュセールの実践的イデオロギーの定義には、構造主義的精神分析学者ジャック・ラカンの象徴界/想像界/現実界という図式と、主体の生成に関する《鏡像段階》理論が大きく影響を与えている。ところで、観念的・想像的表象であるイデオロギーについて「物質的存在をもっている」という指摘をしていることに注目せねばならない。ヒトは日常的実践において、様々な慣習や儀礼を行っているが、これらの慣習や儀礼をあたり前のこととして、何の疑問もなくスムーズに機能させるのが、実践的イデオロギーの役割なのである。
アルチュセールは、国家を国家権力と国家装置に分ける。そして国家装置を物質的・制度的抑圧装置と、国家のイデオロギー装置に分ける。国家の物質的・制度的抑圧装置とは、政府・議会・裁判所・軍隊・警察などを指し、法的に統一されていることが特徴である。それに対して、国家のイデオロギー装置は、宗教的装置(日本の例:靖国神社、護国神社)が・教育的装置・家族的装置・法律的装置・政治的装置・文化的装置等を示す。これらには一見何の統一性もないが、これらすべてが一体となり機能を果たすとき、国家の抑圧装置が滑らかに進行することになる。
アルチュセールは、国家のイデオロギー装置の社会的・政治的機能を、生産関係と社会的諸関係の再生産プロセスと、近代市民社会と国家との分離の再生産を円滑に進行させることにあるとした。すなわち、教会・学校・家族などを通じて、ヒトは近代資本制型人間になるべく、主体化=内面化=隷属化されるのである。(生産がモノをつくることであるのに対し、再生産は子供をつくることと教育することを意味する。例えばマルクス主義的フェミニストの上野千鶴子が、『資本制と家事労働』(海鳴社)で主に問題にするのは再生産の方である。)
アルチュセールが国家装置のイデオロギー機能面に光を当てたのは、非常に興味深いが、国家装置の本質を抑圧的と看做すマルクス主義的独断には、私は疑問を抱く。現代の消費社会は、欲望の抑圧ではなく、逆にフェティシズムによって人間の欲望を引き出し、利潤に結びつけるということが行われている。精神(ガイスト)の政治学を打ち立てるには、社会における欲望の抑圧ではなく、社会はいかに欲望を扇動し、社会システムとそれを支える人間主体の再生産のために、欲望の開発=利用=搾取が行われているかが、問わなければならない。
私が主張する精神(ガイスト)の政治学は、ナチズム・ファシズム・スターリン主義・帝国主義的植民地主義・民族主義的ウルトラナショナリズム・カルト宗教の排他的選民主義等の権力思想を対象化する批判理論の総体である。アルチュセールは、マルクス主義を弁証法=権力知の呪縛から解放するために、下部構造から上部構造への「重層的決定性」の理論や、マルクスへの影響関係で、ヘーゲルとは異なるエピクロス⇒スピノザのラインを強調したのだが、未だマルクス主義圏内の思想家であった人物であった。アルチュセールは、マルクス主義以外の思想を、冷静にイデオロギーに算入し、マルクス主義だけを特権視して、批判対象から除外するが、私はそのようなマルクス無誤謬主義とは無縁である。徹底した権力批判論=イデオロギー装置批判のためには、特別視する思想があってはならない。