差別発言の「意図」を問うことの是非 | 石の上にも3年の未修者

差別発言の「意図」を問うことの是非

今回の件に関連して、twitter上で言及してくださった方が複数いらっしゃいます。

特に、私が7月17日に出した「再質問」について、議論していただいたり、アドバイスをいただいたりしたので、この点についてここで補足させていただきます。

 

まず、私は、「再質問」で以下の通り述べました。

>私は今回の先生のご発言の「内容」と「意図」を問題にしてここで議論しています。

>「受け取られ方」については問題にしていません。

>どのような発言でも相手によって受け取られ方は確かに様々でしょう。

>問題は、今回の先生のご発言の「内容」と「意図」です。

>発言の中身が問題となっているのですから、まずはその「内容」を検証すべきであり、「受け取られ方」はその次ではないでしょうか。

>私は、発言の内容と意図について知りたいのです。

>そのために、先生ご自身のご認識とご見解を伺っております。

 

この点につき、発言者の「意図」を争点とすることの是非について、議論がありました。


まず、@yhlee さんが

差別する「意図」を問題にすることは必要か、という問題を提起されました。

 

これに対し、@han_org さんは

「意図を争点にすると「ねじれ」で泥沼化しますね」と、筒井康隆の小説での問題を題材にした社会学の論文を提示されました。そして、「(前略)問われるべき「意図」とは、「われわれ」(講師と受講者)を同一化しようという目的のために、「彼ら」(中国人受刑者等)を見下しの対象として他者化しようとしたこと、です。」という見解が提示されました。

 

また、@GenYamaguchi さんは

意図を問題にすると水掛け論になる。人種差別撤廃委員会の意見では差別を「目的または効果」で判定することになっている、と教えてくださいました。

 

これに対して、@mahbo さんは

逆に意図を争点とすることで「ねじれ」を解消できる、という見解とともに、

「ことこれが差別問題なのかというと、やはりその意図が焦点ではないでしょうか」

と、やはり意図を問題とすべきであると主張されました。

 

以上が今回の件について今までに議論していただいたことの大まかな内容です。


私の考えは以下の通りです。

まず、私は発言者(検察官教員)の「意図」を問題にする必要はないと思っています。おそらく、当該教員は自分の差別性にあまりに無自覚すぎて、自分が差別表現をしている認識すらなしに今回の発言をしたのだろうと思います。だから、ここで今更「意図」を問いただすことに重要性は感じていません。

「そのような差別的「意図」を本人が意識していない以上は今回の発言は差別発言ではない」、ということができないことは明らかですし、発言者の「意図」はやはり問題にならないと私は思います。

 

それでは、なぜ私は、「再質問」において「発言の内容と意図について知りたい」と言ったのか。

それは、学内ネット上での「公開質問」という議論形式を取る上で、ある種の「戦略」を意識しているからです。

 

どのような「戦略」か、ご説明します。

まず発言者に差別的意図があったのかを問いました。この問いに対しては、「差別的な意図をもって行った発言だ」という答えは間違いなく出されません。仮に差別的な意図をもってなされた発言であったとしても、発言者が自らの差別的発想の存在を公の場で認めることは、こと大学教員や検察官としてはできないはずだからです。

そのことは質問者である私以上に、聴衆であった他の学生が一番わかっているはずです。

 

しかし、それと同時に、この件に関して沈黙を貫いている大勢の学生は、「今回の発言は、単にお調子者の検事がウケを狙いにいって中国人・イラン人を馬鹿にしたみたいにきこえる発言をしちゃっただけだろう」「差別的な意図などないだろう」「それならば大きな問題にする必要はないのではないか」という程度にしか思っていないようにも、私には思えます。

私が問題にしたいのは、まさにその点なのです。

 

今回の発言は、なぜ表面的には差別の「意図」をもっていないにもかかわらず、それが差別と「受け止められる」のか。

そのことを聴衆であり、「法曹倫理」の受講者である学生に対して問題提起したいのです。

 

つまり、私の「戦略」とは、発言者の「意図」を問い、これを否定させることで、差別的「意図」がなくても、差別表現が成立しうることを明らかにする。そして、今回の発言が差別表現となるのはなぜなのか、差別が成立する意識構造の存在を問題にする、ということなのです。

 

そして、このことを考える上で重要となる視座は、@han_org さんがおっしゃったように、中国人・イラン人の被疑者を見下しの対象として「他者」化している、我々の無自覚な差別性そのものだと思うのです。

 

このことは、私が最初の「質問」で以下のように書いたことそのものです。

長いですが、再掲します。

 

>「メイヨー」とか 「アッラー」が面白いのは、そうした言葉や態度が「他者」の発する、理解できないものであり、奇妙で滑稽なものに映るからです。そして、それを取り上げて、モノマネして、笑えるエピソードとして紹介して、聴衆が笑う。先生のご発言が学生の笑いをもって受け入れられたのは、こうした意識構造があってこそではないでしょうか。

 

私は今、このような差別的意識構造を指摘することなしに、仮に当該発言が撤回されたとしても、意味がないと考えています。ロースクール生の多くは経済的にも社会的にも恵まれた立場にいますが、そのことは、自らが差別「される」側ではなく、「する」側に立っている(もしくは、そのような立場と親和性が非常に高い)ということに無自覚となる危険を孕んでいることを私は今回の件を通して訴えたいのです。

 

長くなりましたが以上です。


この件につき、どなたでも、ご意見があればこちらのブログのコメント欄でも、あるいはtwitter上の私のアカウント(@yataragenki)にでもいただければうれしく思います。