浜崎あゆみ物語の終焉と始まり | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

M(A(ロゴ表記))DE IN JAPAN (CD+DVD+スマプラ)/浜崎あゆみ


いつからか、浜崎あゆみは『浜崎あゆみ』を演じるようになってしまってつまらなくなった。そんな声を聞く度に、歯がゆかった。なぜなら、それが浜崎あゆみの戦い方だと思ったし、そう言う人が忌み嫌うものと、浜崎あゆみもまた戦っているのにって思ったから。

素の自分と浜崎あゆみ、この二つの折り合いはつかないと彼女自身も昨年語っていたし、私は、良くも悪くも、浜崎あゆみのその戦い方が変わることはないと思っていた。

しかし、この『M(A)DE IN JAPAN』では、

“浜崎あゆみを演じる”

というのが感じられない。

だからといって、「素になった」とか「演じることをやめた」とか「素のあゆと浜崎あゆみがイコールになった」とかいうことではなくて、これまでと何か違う。

前作『A ONE』では、昔のファンと今のファンが出会えたことが素晴らしいと、“昔のファンを迎えにいく” とも書いたし、実際、昔のファンが戻ってきた話も聞いた。けれど、今回のアルバムはそれに蹴りを入れるような――。
(『A ONE』の記事: 「私はこうして浜崎あゆみに出会った」

「浜崎あゆみとエイベックスサウンド」で書いた通り、近年の浜崎あゆみの作品からは、エイベックスサウンドへの回帰も感じたし、宇多田ヒカルのカバーや『A BEST』の15周年盤など、現象としての「浜崎あゆみ」や世間が抱く「浜崎あゆみ」というものに向き合っているようにも感じた。

それが、今回のアルバム『M(A)DE IN JAPAN』では、インスト「tasky」の後、「FLOWER」「Mad World」と冒頭いきなり立て続けに “生ドラム” である。エイベックスサウンドへの回帰はどこへやら。

いやしかし、生音なのか打ち込みなのかではなく、エイベックスサウンドがどうしたとか、浜崎あゆみがどうしたとか、もはやそういうことではないのだ。


これまで、生音だろうが打ち込みだろうが、ロックだろうがバラードだろうが、常に「浜崎あゆみとして」とか、「浜崎あゆみであること」を第一優先にしてきた感がある。

けれど今回は、音もサウンドも、もしかしたらあゆのボーカルも、「浜崎あゆみブランド」を守ることを第一優先にしていない。

それが「浜崎あゆみを演じてる」と感じない理由かも知れない。

「浜崎あゆみというモンスターを抱えていけない」

そうあゆは言っていた。

自分が浜崎あゆみでなければ、できることがたくさんあるのに…。

例えば、ライブハウスでライブをすることだったり、被災地に赴くことだったり――。

かつて一座だったメンバーが(現在のメンバーもなんだけど)、細かく地方を周ったり、そこで人と触れ合ったりするのを聞いて、あゆはもどかしかったりふがいなかったりしたんじゃないかなぁと勝手に私は想像する。
その喜びを、浜崎あゆみ一座では実現できなかったこと。あゆ自身がちょうど海外での生活に何かを見出そうとしていた時期だったり、自分の気持ち的なものだったり、それと、やはり浜崎あゆみが動くとなるとっていうのがあってなかなか難しかったり。でも、何より浜崎あゆみがそれをやりたいのに…というジレンマ。
(そんな中、一座のメンバーの個々の活動は、あゆにとって光みたいなものだったと思うな~)

でも、知らない人もいるかも知れないが、浜崎あゆみは今、ライブハウスでライブしたり、各地でファンと触れ合ったり、被災地に行ったりしている。
(ま、本当は、ライブハウスとか、2003年にもやってるんだけどね)

なんだ。やれるじゃん。
自分が浜崎あゆみであるためにできない? そう決めつけていたのは誰なのか。

そんな発見が彼女の中にあったのかどうか。

確かに、浜崎あゆみは『浜崎あゆみ』というモンスターに苦しめられてきただろう。

しかし、それを作り出したのは誰なのか。

<アタシはアタシの為に叫ぶわ>

そう叫んだとき、彼女の中で何かが見えたのかも知れない。

“浜崎あゆみを作り出したのは私だ”

ならば、終わりにすることだってどうすることだって私にはできる。

そう思えたとき、

“浜崎あゆみだからできない”



“浜崎あゆみだからできる”

に変わっていったんじゃないだろうか。


『M(A)DE IN JAPAN』から伝わってくるのは、「浜崎あゆみであること」よりも「浜崎あゆみに何ができるか」というアティチュードだ。

「Mad World」が今までと違うのは、今までは「どう生きる」と問いかけるばかりだったのに対して、あゆの生き方も示されている点だと思う。具体的に何がどうとかではないけど、問いかけるばかりでなく、「私はこう生きる」というのが伝わってくる。それは、ミュージックビデオを見るとよりあきらかになる。

何よりあれは、浜崎あゆみの生きた証ではないか。そしてそれは、現在進行形なのである。「浜崎あゆみはこう生きる」という提示。

私はあれを見て、『浜崎あゆみ』を演じていると言われても、やっぱりあれはあゆの戦い方だったんだ!と胸が熱くなった。

だから、「Mirrorcle World」(2008年)より一歩進んでる。問いかけるばかりではない。示している。そしてやはり、問いかけてもいる。

ちょっと話がそれるけど、「Mad World」がすごいのは、一見、環境問題とか社会問題に触れた歌のように見えて、樹々や風と自分を対比させているようでいて、実は、本音を吐けないでいるなら、自分もまた、樹々や風と変わらないのではないかという視点だと思う。
かといって、本音を吐け!ということでは決してなくて、樹々ならば花を咲かせる、風ならばそよぐ、では自分なら?という、「生き方」の歌、樹々も風も自分も「生きる」とは?というような。
もちろん、これまでにない直接的な表現もあるし、環境問題や社会問題にアクセスしたとも言えるのだけど、これまでだってそれはあったと思うし、延長線上にあると思うんだよね。ま、でも、よりダイレクトになったのはあるね。

話を戻すと、「浜崎あゆみであること」よりも「浜崎あゆみに何ができるか」を重んじるということは、それで失うこともあるかも知れない。
「浜崎あゆみブランド」を失えば、以前のような魅力を失うのだろう。

しかし、終わりは始まりでもある。

ここからは「物語」よりも「作品」を語らなくてはいけないかも知れない。

これまでって、どうしても浜崎あゆみを語るときって、作品を語るつもりが、いつのまにか「浜崎あゆみ物語」を語ってしまっているところがあったと思う。
それも浜崎あゆみの魅力だし、それは切り離せるものではないし、切り離されたら終わりだとも思っているけれど、浜崎あゆみが歌っていたことを今もう一度、思い出したい。

浜崎あゆみを演じるあゆ。
浜崎あゆみであり続けるあゆ。
浜崎あゆみを背負い続けるあゆ。

そんなあゆに “同情” するのはもうやめにしたい。

悲劇のヒロイン? 生贄になるあゆ? 冗談じゃない!

最果タヒさんのこのブログを読んだとき、私はまっさきに浜崎あゆみのある曲の一節が浮かんだ。

未来永劫かわいそうではない。
http://tahi.hatenablog.com/entry/2016/02/20/210119

<いらないモノならその同情心>

これ、すごい歌詞だ。今さらながら。改めて。

そんなことを言いながら、私はこれからもまたあゆに “同情” してしまったりするのだろう。けれど、この気持ちは忘れずにいたいよ。

浜崎あゆみが「浜崎あゆみであること」よりも「浜崎あゆみに何ができるか」にシフトできたとするならば、それは、何より私は浜崎あゆみだし、「私がやれば浜崎あゆみになる」という自信を持てたからなんだと思う。

「そんなに辛いなら、浜崎あゆみなんか辞めちゃえばいいのに」

今日も、そんな声が聞こえてきそうだね。
それで本当に辞めてしまったのが椎名林檎で(彼女はその先に新しい椎名林檎を見つけたのだろう)、やり続けて、やり続けた先に、浜崎あゆみを見つけたのが浜崎あゆみなんだと思う。

浜崎あゆみは『浜崎あゆみ』を葬った。
それは、聴き手をも『浜崎あゆみ』から解放する。

『M(A)DE IN JAPAN』およびそのツアーを通して、私はこう宣言したい。

浜崎あゆみに勝った!


「BRILLANTE」(2011年)のときから気になっていた、ティミー作曲の曲が聴けて嬉しい! ミュージカル風とか味付け程度のミュージカルではなくて、ミュージカルをミュージカルの型のまま持ってくるのでもなくて、ミュージカルを通過してポップに昇華するようなティミーの曲がもっともっと聴きたい! こんな音楽、浜崎あゆみくらいしかやっていない気がする。(「Survivor」「You are the only one」

実は、私があゆのボーカルにクランベリーズ(ドロレス・オリオーダン)を感じた「Angel」(2014年)には、「BRILLANTE」からの流れを感じたのよね。

「TODAY」は、新しい作曲家、Shun Ueno さん。<一緒に笑い転げていられること>の<いられること>のメロディライン、新しい風が吹いている。

「FLOWER」の重低音。地の底からでも芽吹いてくる生命力。ベビ○タさんよりずっと前からやってるあゆさん・・・いや、なんでもありません。

そして、「Summer Love」。これ、なんなんすか?
これで EDM もトドメ刺されたよね~。や、知らんけど。

は? EDM?
本当の EDM はどうやるのか私が教えてやるよ!

みたいな。もう笑いが止まりません。

踊る阿呆に観る阿呆?

バキバキの EDM(なのかなんなのか知らないけど)なのに、祭囃子みたいな、なんなんすかこれ、楽しすぎる。EDM なんて言葉、もう忘れました。

それにしても、同じ “Summer” でも、「Summer diary」(2015年)とのえらい違いよ。

「Summer Love」の男らしさは一体これ何? 恋してる感じゼロなんですけど…。

歌詞も歌詞で、これなんなんですか。

<そうこの感じ Remember? ワクワクが止まらない>

<こんな肩でもよければ>

???

<Oh oh oh oh oh>

遂にあゆがゴ○ラになっちゃったよー!

こんな<夏の魔法>、海に行けなくても、花火大会に行けなくても、恋ができなくても、日焼けしちゃうよー!(いいのか?)

そんな「Summer Love」の後に、真打ち登場です。

globe のカバー「Many Classic Moments」

EDM? なんちゃらハウス?

僕らの小室哲哉が大昔からとっくのとうにやっとるんじゃー!

メイドインジャパーーーン!



ただ、ところどころで、あゆのボーカルが小さく感じたり、低音がやけに大きく感じたりした。私の再生環境にもよるのだろう。

前作『A ONE』では、「浜崎あゆみの圧倒的なボーカル」を際立たせていたのに対し、今作は「サウンド」を主張したのかも知れない。
それと、「FLOWER」のような曲って、音のバランスとかとても難しいのだろうなとも思う。

これは、ミックス(やマスタリング?)の問題だろうし、最近の再生環境の変化も関係しているのだと思う。

しかし、最後の曲、RedOne プロデュース&ミックスによる「Many Classic Moments」では、渾然一体となった迫力が迫って来た。

これは、浜崎あゆみの求める音が、次の段階に来たということだと思う。