ある時期から、知己(自分)は、祖父母の亡くなったことの中で、「自立」という名目で、世界に放り出されることになりました。
「もう家族のことは心配しなくて良いから、金銭や責任や生活などを全てあなた自身で管理しながら、あなた自身でやりたかった生き方をしていきなさい」と、そんな感じに、まずは最初に、この狭くて自分だけしか居ないような時間な空間の中で生活を組み立てたりしていくことになりました。
そんな中で、「親や愛情って何だったんだろう?」って、なんか眠る日にうなされるようなことが出てきたり、悩みを抱えるようになった感じがします。
【もしも、結婚とか家庭生活において子どもが生まれて、その子をまたひとりの人間として成長させていく環境をつくるだとか、シアワセを築いていく環境をつくるだとか、そういうことに悩むことも出てくるんでしょうから。】

雑記の内容に、なにか意観や感想や指摘や批判などあった場合には、なんか心あるようなコメントしてくれると少し参考にもなったら助かるので、よろしくお願いします。



・No.83 ギャラクシー・クィーン



なんか愛着を持つようにカードケースに入れて、実際にペンダントにして、知己(自分)が遊びやイベントなどのお出かけする際に「おかぁさん」と称して身につけたりしてます。

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「『異次元エスパー・ロビン』や『奥平風也』とか『No.83 ギャラクシー・クィーン』とかで意味を調べるなり遊戯王ZEXALの第7話・第8話を調べるなり視聴するなりしてみれば?(一応、アニメDVDなどの引用・宣伝してる感あるけど)」って言うくらいで、あえて深くは書きません。
【子役タレントの立場における家庭や環境や心理や精神などの教育や人権の事情について】も書きたいところだけど、それも深くは書かないことにしますです。
多分、「バビル2世」とか、こゝで書くこともないです。

知己(自分)は、このカードケースに入れてペンダント状にしたこのナンバーズカードを「御守り」とも読んでいますが、特になにか神様が御利益をくれるといわれがあるものでもなく、かつてのデュエルターミナル端末から出てきたカードを、暗示みたいにおもい込んで所持しているだけだとおもいます。

わけあって、ハンドルネーム上で名前という意味要素を棄てる意志表示として、『匿名希望』というプライバシー問題の都合での名称隠匿をおもわせる名前に変更したかったんですが、よく人権を剥奪されたような存在を「番号呼び」したりする風潮にあらかって、83番の番号を個人的に決めさせてもらいました。



・ホントに「好き」という親や愛情の心



なんだか、世間の話などで、【望まれないで生まれてきた子】の話とかよく注意深く社会を観察すると、そういう現状がよくあるみたいです。
ひとりになるかふたりになるか、それ以上の人数になるのかはわかりませんけど、【子どもという個体や性格もある個性の人間と10年も20年も何十年も向き合うことになる親子関係であり血縁関係になる】、そんな父親や母親のひとは、どんな責任や覚悟があってのことだったんだろう?
【本来、あるべき理想の家庭であるのなら、そういう責任や覚悟は、もちろん存在するはず】なんだとおもいます。

そして、子どもという人間に対して、なにを望んだり求めているんでしょうか?
子どもという人間が、どんな感性や性格や気持ちなどを持つようになって、人間としてあるべき人権や責任を抱きながら確立されていくのでしょうか?
知己(自分)もそうですし、誰もが、子どもという人間であった時間を生きたことでしょうし、それが良いものなのか悪いものなのかは決められたものではないけど、なんらかの親子環境や血縁関係は刻まれているんでしょうね。

そして、人間として、考える力を持ったり、悩む力を持ったり、疑問を抱いたりする力も持ったり、そういう個々それぞれの性格などの個性を持った生命が、いろんな人生を築いていくことになるんだとおもいます。

親や愛情の心って、そんな子どもにどんな心で示せば良いものなんだろう?



・親のコミュニケーション障害



親子関係の中で、残念なことに【親という立場のひとにコミュニケーション障害らしき言動が観られるケース】が、よくあるような感じもします。

コミュニケーション上で基礎の中の基礎としての、「相手の立場になって考える」という部分ですね。
そりゃ殴られたら痛いですし、感性を共感もしてもらえず否定されたりすることに嘆くことだって、人間、性格や個性それぞれあれど、【ある程度はあらゆる人間に共通した嫌がる感情を抱くものとか、喜ぶ感情を抱くものとか、そういった共通認識みたいなものはある】とおもいます。

ひとの痛みなどを共通認識として覚えることで、ある程度、コミュニケーション上で、ひとの嫌がることやひとの喜ぶことの認識は、通常はできるものだとおもってます。

ところが、親という親権者としての立場で、幼い子どもゆえに無知かつ弱者という関係で、【子どもの意志や人権などを無視して、自らが強者という立場を利用し、まるで弱い者いじめみたいに自分のエゴ(利己)意識を押しつけるごう慢な脅迫罪に価するような教育をしてしまう】とか、【子どもが無知ゆえに観抜く力もないのを利用し、あたかも自分の悪い部分を隠すように騙し行為をしたりと、まるで詐欺罪・偽証罪に価するような教育をしてしまう】とか、子どもに対して事実上の洗脳や虐待を加えてしまうケースなど、あまりにも狂人じみたコミュニケーションの家庭を形成してしまう問題など、深刻にコミュニケーション障害についてのことを考えたほうが良いような感じもいくらか気になってしまいます。

【自分がされて嫌なことは他人にはしない】などの、【幼稚園児にコミュニケーションとしてまず初歩の基礎の教えとして学ばせるような内容】を、【親という大人の年齢までの人生経験がありながら、事実上、まったく幼稚園児でさえ体得するような内容であれ欠落してしまっているクソガキな様子を、障害者(まぁ暴力にせよ洗脳にせよ虐待問題とか引き起こしていたり障害言動してるわけだから「特性」や「個性」など生ぬるい言葉で書くつもりないです)として呼ばずになんと呼べば良いのかわかりません】し、そういう【子どもを人権のある人間として扱う様子もなく、親の理想の押しつけで人形遊びみたいに仕立てる行為】を、【自分がされて嫌なことは他人にはしない】の名目の元で、【脅迫されるようなことや詐欺や偽証されるようなことを、なにを根拠に怨念を抱くこともないシアワセにおもって行っていたりしてるのか、まったく意味がわかりません。】

親は、なにを根拠に宣言するのかはわかりませんが、「自分にコミュニケーション障害などありません」と、あまりにもアホなことをぬかすんだとおもいますけど、本来、【事実上では精神病棟や特別療育の施設で当分の間は暮らし続けたほうが良いほど感情認識が欠落したコミュニケーション障害のクソガキである】のにも関わらず、自覚もなしに年齢だけのキャリアだけ主張しては、エゴ(利己)暴走や虐待言動に走られても、それは最悪を語るようなものでしかないような気がします。



・親の溺愛



知己(自分)は、「愛情ってなんなんだろう?」っていう疑問は、いろんな保護者の真心からの精神で、きちんと【魂や肌に刻み込むまでに教えようとしてくれたひと】は、居てくれました。
しかし、時にそれは、あまりにも過剰すぎるほど暴走じみたことで表現されることもありました。

とにかく愛情を注ごう愛情を注ごうと、そればっかりに溺れてしまうほどの溺愛っぷりで、おじぃチャンやおばぁチャンから【父母と子】ではなく、【祖父母と孫】というカタチで実感していくような生活や記憶が、知己(自分)には印象が深く遺されてる感じがします。

そもそも昭和の大日本帝国戦争の時代における徴兵学校の義務教育の感覚を、実子に対してスパルタも度が過ぎるようなレベル(現代の社会事情なら普通に虐待案件)で、教育に叩き込みまくるような祖父母が、【どうして祖父母の実子から生まれた子という孫が相手になると、鬼の次元に入るようなスパルタ教育の態度が、こうも人格が変わってしまい溺愛教育の態度になってしまうのか、違和感が凄まじすぎます。】

そして、まだ幼子でなにが良いのか悪いのかとか正しいのか不正なのかも認知できる知能もなく、時に身の危険な言動を発してしまったり、危なっかしいのはわかりますけど、それでも【やることなすこと「こ~しなさい」「あ~しなさい」突っかゝって来たりするわ、「交通事故の被害にでもあったら可愛い孫が大変だからつき添い以外で一切の外出禁止にする」】とか、【本人がそれで自由奔放に言動できなくて窮屈にウザったく感じたりもしたり、お節介も度が過ぎます。】
それでも、身の危険の安否を気遣う様子は、確かな愛情のような実感や記憶としてとても認識できているとおもったりもします。
コミュニケーション上、トラブルを引き起こしやすい子を、【なにかトラブルあれば学校側に事情をすぐに伺いに行ってくれたこと】や、【「しつけ」ということで、ケンカトラブルでもあれば、トラブル相手と事情を聴いたうえで審判してもらい、謝罪して一緒に謝ったりすること】もたくさんありました。
溺愛にせよ、【どこぞの屁理屈しまくりで学校側に脅迫態度で押しつけたりモンスターペアレント自己中症候群のような言動をして、学校内における子どもの立場にいじめ差別環境を強行してつくろうとするなど、あまりにもアホすぎる言動をすることもなく】、【「感じる」とか「謝る」とか「感謝」っていうコミュニケーション上でとっても大切なことを実感で教えようとしてくれたり】、【親としても愛情としても「責任って何なのかな?」っていう認識をとことん伝えようとしてくれた点】は、後々、将来として理不尽な苦労のないように感謝とか責任とかのコミュニケーション義務教育な意味での学習も含み、たしかな愛情の認識になるような感じもします。



・遠慮なくケンカもできる関係



親と子の愛情とか以前に、【コミュニケーションとして当然のことで、意志や感情の食い違いがぶつかり合い、ケンカになることもありますけど、ひと同士で解り合うプロセスとして、とても大切なこと】だとおもってます。
子どもの人間としての人権や個性そのものに対して尊重したうえでの【関心がある】んだとすれば、子どもの意志や感情に対して時に【ムキになる様子】が、必然として出てくるものだとおもってますし、【時に議論・討論したり、時にじゃれ合ったり】、そういう【遠慮というものがなく近親な親切の感じがあるかのように、ありのまんまの素直な気持ちを話したり表現できるストレス性の邪気もない無邪気な環境】っていうのが、【本来の家庭内のシアワセである気休めの空間】であるならば、存在するものだとおもうんです。



・あとがき



この雑記は、知己(自分)自身が子どもの年齢を過ごした時代を、「もし自分が親という立場だったら」という客観視点でおもいふけったりして書いたものです。
あと、親子というカタチにせよ、恋愛や親友というカタチにせよ、ホントに【自分にとって可愛いひとやそのひとに対する礼儀(マナー)って何なんだろうな?】ともおもって書いたものです。
それと、金銭という確かな確信でもない架空のシアワセを夢に観たりして躍起になり、【子どもの人権や意志をまるまる無視して無知な幼児のプライバシー関係に触れる写真情報や出演情報を児童ポルノみたいに経歴にも遺るようなやり方で世間にばら撒いたり】とか、そういう実質偽証の親権者や保護者を、多分、半場、そいつの血を観たくなるくらいにぶち●したくなるような感情衝動でも、この記事を書き遺したくなりました。

また、世代の移り変わりと共に、親はやがて寿命に近づいていったり、また、寿命を感じて命を託すようなカタチにしても、子どもになにか生きているうえでの役割を譲るものでも、時間や空間の流れを認識していくものだとも、あらゆる寿命ある生物として必然にあるものだとおもうんです。

まぁ、この読み物が、どこかの誰かの生活参考のひとつのレポート資料として役に立つようなことがあれば、嬉しくおもいます。

2014.10.23