この雑記には、アニメ遊戯王ZEXALセカンド(一部ファースト含む)のネタバレ要素がたくさんありますので、遊戯王ZEXALをこれから観るひとなど、楽しみにしていてアニメの全貌を知りたくないひとは、このページを閉じるの推奨します。

遊戯王ZEXALは、思い返してみれば、ホントにいろんな面で深い内容のアニメだなとおもって、書き出したくなったものです。

この雑記は、いくつかの章ごとに、知己(自分)の考察に基づいた視点で、書いていきます。



・バリアンの刺客と洗脳の異変



遊戯王ZEXALセカンドにおいて、まず、最初に始まったのは、バリアンの刺客が隠れ潜みながら、ハートランドシティの住民を洗脳しては、遊馬クンたちにデュエルを仕掛けて来るという内容のものでした。
遊馬クンの学校生活の風景をメインとしながら、新しく転校生として登場した真月クンや、ファーストシーズンの回想シーン等で登場していた神代 凌牙(以下:シャーク)の妹、神代 理緒の生徒登場などの環境の変化と共に、ストーリーが進行していきます。
「よかれと思って」、真月クンが、いろいろと友達の和に加わろうとするけど、いつもドジで失敗してしまう様子を、遊馬クンが、どうやってその気持ちを汲み取っていくのかとか、学校の中でもワルの様子が消えて遊馬クンたちに少し打ち解けた雰囲気なところを観せるシャークや妹とのちょっとした口ゲンカなど、割と学校生活をメインとしたドタバタ有りの人間関係の構築や過ごし方などがテーマになっていた章だとおもいます。
真月クンを、遊馬クンは、諦めずに受け入れるような気持ちが、特に考えてほしい内容だったのかなと、そういう印象です。
主人公補整などのなんだかんだで、遊馬クンを中心とした視点で、何気ない日常会話などの多い学校がらみの部活動などの風景をみせたい感じが多かった印象で、あと、些細な言葉のニュアンスの読み取り方の違いによる誤解とかのトラブルなども多く、こういったコミュニケーションの様子を、視聴者に表したかったのかなとおもいました。



・バリアンの刺客とのデュエル



遊馬クンたちに、いろいろと洗脳した住民を差し向けていても負けさせることはできず、ついにバリアンの刺客自らが乗り出してきてデュエルを仕掛けてきた。
この時点で、真月クンが、実の正体を明かしたかのように「バリアン警察があって悪いバリアンを倒すためにバリアン世界からやってきた」などの事を、遊馬クンに打ち明けたり、各バリアンの刺客も、バリアルフォーゼにてバリアンに変身した姿を晒したりし始めました。

こゝで、なにか物事に戦うための意志の再確認や決意の話とか、友情によってもたらされるものとか、いろんな遊馬クンのひとや環境の繋がりの強さなどの表れを、すごく視聴者に観せたい章であったんだとおもいます。

ですが、そこにリアルな現実でもあり得る大きな罠を、視聴者がすさまじく唖然とするまでの極めて強烈すぎる衝撃の真実なインパクトで、やってくれちゃいましたね。
信頼があり、また、【裏切り】とはなんなのか、その結果、どんな悲惨なことが起こるのか、そこいらを重要メッセージとして表したかったのかもしれないとおもいます。
ひとが持つような僅かな悪意の部分である黒いシミの正体やダークゼアルについても、大きく触れられて、そこから遊馬クンがどう乗り越えていくのかゞ観物だったかとおもいました。

バリアンが遊馬クンたちの敵の組織である印象や、結局は裏切りによる悪意について、バリアンが完全に敵であるという印象を強く視聴者に観せておもわせるための要点があった印象です。



・遺跡の伝説とバリアンの記憶



次に、7つの遺跡にあるナンバーズカードの回収に向かう遊馬クンたちと、それを狙うバリアン勢力との争奪戦が始まりますね。
リアルに、どこぞの世界遺産や考古学みたいな物語も元ネタにしているかのように芸術風景のあるような遺跡へ、皇の鍵で起動させた飛行船で出発するようになりました。

こゝらへんから、視聴者に【バリアン=悪】という根底に疑問を投げかけるような謎かけも始まったような感じがします。

遺跡にまつわる伝説と、バリアンの各刺客が違和感や疑問に感じてしまう記憶についての話題に触れられていって、遊馬クンは、「バリアン世界を滅ぼすためにアストラル世界からやってきた使命」のアストラルと、所々で対立してしまうところが出てきます。

遊馬クンは、バリアンの刺客の過去話に触れることで、バリアンの刺客そのものに根元である悪の部分はないとおもい、段々と、敵対のバリアンに対して同情心や説得をするような姿勢になってきたり、アストラルの在り方にも疑問を持つようになりました。

遊戯王ZEXALファーストの部分でも触れられてましたけど、なにかの原因によってひとを憎むとか恨むとかの要素を抱いてしまったひとには、遊馬クンは絶対に敵視したりたゞ争ったりするばかりの関係を望まなかった意志が、この遺跡にまつわる物語の中でも、アストラルの使命に背いてまで表すようになっていますね。
遊馬クンの優しさの心がすごく表れていたような印象が強くなってきましたね。



・アストラル消失と人望の再確認


ナンバーズ96のブラックミストなどのデュエルなどを経過して、遊馬クンは、常にデュエル生活を共にしてきたアストラルやなどを大切な存在を失って、意気消失をしてしまうことになりました…。

そんな遊馬クンを、今度は、遊馬クンに影響されてきた様々な友達が、心を助けるためのフォローをしていくことや、トロン一家の三男坊のスリーなども表れては、遊馬クンの気持ちを復活させるべく、助け合いの気持ちが大きく表される流れになってきました。

スリーが遊馬クンの家に遊びに来て、遊戯王ZEXALファーストのときの風景とまるで違う、とっても遊馬クン家族ともフレンドリーな食事風景の様子を観せてくれました。
遊馬クンは、特にトロン一家に観返りを求めたことはなかったですけど、いざ、こういう一大事な問題に差しかゝったとき、自然と「恩返し」の気持ちがこゝに表れて、ホントに気持ちのあるひとからの友情や想い遣りを、再確認させてくれる気持ちの暖まるような一面も、大きく出てきていたとおもいます。


・アストラル世界とバリアン世界とカオスの在り方



遊馬クンはアストラル世界へ、シャーク(以下:ナッシュ)はナッシュとしてバリアン世界へ、それぞれ異世界に旅立っていきました。
こゝいらで、【アストラル世界が光ばかりの存在とした天国のようなプラスだけの世界】だとか、【バリアン世界が闇ばかりの存在とした地獄のようなマイナスだけの世界】だとか、そういう白黒とか陰陽思想の二元論のような物語に触れられていったような気がします。

アストラル世界は、実に天国のようなプラスだけの理想郷のような思想世界を追求されていました。
でも、ホントに、失敗のない理想郷が正しいのか?
失敗や痛みから学ぶ気持ちって、ひとへの認識って、ないものなのか?
地獄のような闇の要素が、世界中の思想において、全て必要ないと言えるのか?
遊馬クンは、光だけを追求する理想郷のランクアップに対しても、光の要素だけじゃない闇の要素や失敗や痛みの要素も大切なものなんだとバリアンの一部を立てようとしたこともあったし、光と闇とが交わった「カオス」の思想を、アストラル世界に訴えていた様子もあるような感じでしたね。
ナッシュもナッシュとしてのバリアンの存在を認識して、古代の戦争からの人々の闇の悲しみや嘆きの念を背負い、バリアン七皇のリーダーのナッシュとして立ち上がるようになりました。



・バリアンとの決戦



バリアンの悪の根元がドン・サウザンドの存在だと明らかになる最終決戦に向けて、バリアンは地上世界の征服に乗り出して来ることになりました。
遊馬クンや周りのひとたちは、これまでの友情や結束心を観せて、バリアンに立ち向かうことになりましたが、こゝで、希望さえ失うような絶望の惨劇の連続を体感することになり、いろんなひとたちの消滅や●亡するような真剣な戦いの出来事を眼の当たりにしながら、決意と悲しみを背負うことになりましたね。

こゝでも、遊馬クンは、どこまでもバリアン七皇を助けることはできないのか悩み考えながら、バリアンのみんながドン・サウザンドによって書き換えられた印象操作された記憶の存在などを知ったりしながら戦うことになりました。
真月クンの正体がとんでもないバリアンの悪行の根元のような存在なんだったとしても、そんな真月クンにさえ、「お前は学校生活のときに友達としていっしょに過ごしてきた真月なんだ!」と言い張って、どこまでもお人好しな遊馬クンに、【菩薩(ぼさつ)メンタル】や【歴代最高のデュエルカウンセラー】と視聴者層から称されるくらいの聖人としての意志の堅さに、なにか人間への希望を抱くような理想を感じさせてくれた印象を、知己(自分)個人的には、非常に強く感じました。

こゝで、遊馬クンは、過去や未来や世界の在り方さえも書き換えられる神の力『ヌメロンコード』を手にできることを説明されたんだけど、遊馬クンは、大切なメッセージと共にヌメロンコードの力を使うことを否定しました。

【ひとには、どんな完全な理想のカタチや能力よりも、成功や失敗などの悩みを乗り越えたり積み重ねていく努力の時間やその経緯の渦の中での喜怒哀楽の心や気持ちこそが大切なんだということ。】

【自然の摂理を絶対に壊してはならないこと。】

これらの、本来あるべきはずの人間関係や自然の在り方を、大事なことゝして発したかったものなんだとおもいました。



・「この扉を開くモノは、新たなる力を得る。しかしそのモノは代償として、【一番大事なモノ】を失う。」



最後、ナッシュとのアストラル世界とバリアン世界の存続を賭けたようなデュエルと、アストラルとのお互いの心念を賭けたようなデュエルと、2つのデュエルをすることになった遊馬クンの中で、遊戯王ZEXALファーストの第1話の冒頭で運命の扉に言われたメッセージをおもい出すことになりましたね。

一番大事なモノってなんなのか、それは、多分、いろんなひとを捉え方によって様々なんだとおもいますが、遊馬クンの語った「俺自身のことだったんだ…!」の言葉など、すごく気持ちに引っかゝります…。
【菩薩(ぼさつ)メンタル】や【歴代最高のデュエルカウンセラー】と視聴者層から称されるくらいの聖人としての意志の堅さで、いろんなひとを心から助けてきたような遊馬クンですが、【いつの間にか、デュエルで、泣いてばっかりで、本来、喜べたり楽しかったはずの気持ちや心からの笑顔を無くしていた】こと。

遊馬クンは、ホントにバカなほど真面目すぎるくらいに優しさがあったんだとおもいますが、その反面、いろんなひとの心理事情や暗闇の念を背負いすぎ、悩み込んでしまうようなひとになっていたようにおもいます。

ひとから、喜びや楽しみの概念が取り払われてしまうと、ゞういうことになるのかというと、知己(自分)は、遊馬クンのうつ病のような状態や観失ってしまった状態とかなにか本来あるべき純粋な心が崩壊してしまったような状態を伝えたかったようにおもえました。

また、そういう遊馬クンに、なにか取り戻してほしい意図で、あえて真剣な刃を向け合うようなシチュエーションのデュエルを持ちかけ訴えかけるアストラルの存在のことが、また、共同体のような親友として大切な存在なんだとおもわせるメッセージも含まれていたようにおもいます。



・あとがき



じわじわと染み込むような心理デュエルの放送終了、ありがとうございました。

子どもたちにも、なにかと素直な感性や感想とかを情熱がX(クロス)するかのように大きく伝えたかったメッセージなんかもすごく感じられた内容だとおもいました。

次回の放送は、遊戯王ARC-V(アークファイブ)に代わりましたね。

デュエルなどの実際ひとゝの遊びを喜びや楽しさで表現したいエンターテイメントデュエルのショーへの方向を観察しながら、遊戯王ZEXAL関連の感想雑記を、こゝに書き遺しておきたい気持ちです。

この感想雑記は、あくまで人間心理や心理感性などをメインとして書いていて、デュエル内容などの解説は、次元の裂け目やマクロコスモスの先に除外させた方向で書いていますから、それらの学習材料の資料や宣伝・広報にでもなれば幸いにおもいます。