障がい…その中には、身体的な障がいと、知的・精神的な障がいと、大きく分けてこの2つに分けられているとおもいます。
この雑記も、医学的根拠に基づいて書いているわけじゃなく、知己(自分)の考察に基づいて書いているものなので、なにかおかしな点があるかもしれません。
なにかある場合、指摘や意見などで知らせてください。



・障がいとは?



障がいは、普通とは大きく違う、【個性】というものを持っているものだとおもってください。
あと、知己(自分)個人的にも、「障がい」という言葉は、差別や偏見のような意味で、大嫌いです。
特にひどいのは、【がい=害】の漢字の部分であり、障がい者は、なにが"害"になるんでしょうかね?

いわゆる民衆多数派の健常者の視点で、「普通じゃない」「社会風習から外れた存在」「社会に浸透できないはみ出し者」という差別で、"障がい"という、ひとを観下してヴァカにした言葉を世に造り出したというほかなりません。

障がい持ちのひとの視点からすれば、もう、「ひとをナメてんじゃねぇよ!(怒)」って話にもなりますよね。

知己(自分)は、障がいとは、【個性】であるとおもいます。

身体的に、腕や脚がないとか、知的・精神的に、知能の一部が欠けているとか、そういった部分が、非常に強い個性として表れているからなんだとおもいます。

この雑記では、以下の文は、"障がい"という言葉は、"個性"という言葉に置き換えて書いていきます。



・眼に観える個性と眼に観えない個性



ひとが持つ普通と違う強い個性。
その中には、周りのひとの眼で観える個性と、観えない個性と、分かれます。

眼に観える個性は、主に、身体的なほうに表れていて、腕がない、脚がない、身体の一部が欠けているとか、そういう感じのほうになります。
これらは、周りのひとの眼に観えるがゆえに、痛々しさやツラさ、不便さを周りのひとに認識されやすく、個性についての理解や配慮も比較的には得られやすい傾向にあるとおもいます。

眼に観えない個性は、主に、知的・精神的なほうに表れていて、脳の部分などに影響されているものです。
これらのものは、周りのひとから観る視点では、一観では、わからないものがいっぱいあります。
知己(自分)は、主に、眼に観えないこっちのほうを取り上げて、この雑記には、書きます。

医療学的にも、眼に観えないこっちのほうが深刻化されています。
認識や判別も、とてもとても難しいものがたくさんあって、個性として受け入れて、みんなと調和することも、とても難しいことも多いんです。

認識や判別が難しいゆえに、誤解されることもたくさんあり、他のひとから観れば、「だらしない」「怠けている」といった風に認識されて、こっぴどく怒られたりすることもあるわけです。

たしかに、努力もろくにしないで怠けている可能性もあるでしょうけど、もし、知的・精神的に欠けている部分があるがゆえに、頑張っても成果が上げられないで気持ちが悔しくなってるひとに、さらにこっぴどく怒るなんていうことを、してしまってはいけません。

…それこそ、ショックを与えて、鬱などの精神病を誘発させたり、そういった事態にもなりかねないですから、その点、注意して気をつけておくべきだとおもいます。

まずは、そのひとの個性に、きちんと向き合ってほしいです。
そして、その個性を理解し、それを補ったり活かしたりすることを、きちんと理解があればとおもいます。



・個性は才能でもある



人間って、生活環境などに適応していく能力が、自然に備わっていて、そこでも、また、人種的な観点で観ても、いろんな個性が出てきますよね。
普通のひとと比べて、身体的に欠けている部分があるとか、知的・精神的に欠けている部分があるとかの個性がある場合も、その"欠けていて普通のひとと同じようなことをうまくできない"という生活環境に適応していったりする能力があるんです。

たくさんの努力も必要とされてきますが、特に、大きく欠けている部分を持ってる個性がある場合、環境に適応に生活していくために、●に物狂いに身につけていく能力というものがあったりもします。

例えば、視力のないひとは、気配で周りの物を感知する能力を身につけたり、そういった能力のことです。

また、知己(自分)のようなアスペルガー症候群は、ひとの気持ちの察知が苦手で、ひととのコミュニケーションでほかのひとと衝突するようなこともありますが、ひとによって、音感・記憶力・視力・嗅覚などに優れた能力を生まれながらにして持っている場合もあるみたいです。

なにか欠けている部分があるのかもしれませんが、個性は、活かし方によっては、才能にもなるわけなんです。
欠けている部分があろうとも、ある分野においては、ある意味、天才の素質があるのかもしれません。

ひとの個性に向き合ってみて、才能に眼を向けてみると、なにかものすごい超能力が、もしかしたら、あるのかもしれません。

すべてを"普通"という概念に当てはめないで、その"普通"ではない、特別な才能の素質に、もっと柔軟な考えで、視点を向けられたら、もしかしたら、ものすごい個性になるのかもしれないんですよ。



・社会風習の大きな欠点



個性を大きく押し潰したり台無しにしてしまっている点として、一般的な社会風習による悪影響があるとおもいます。

普通じゃないとおかしい。みんなと同じことができないとおかしい。
歳上のひとや身親の言うことが絶対である。

こういった、凝り固まった社会風習が、せっかくの個性を、強制的に押し潰したり台無しにしてしまっているのです。

ひとりひとりの特別な個性を、無個性ともいえる多数派に当てはめるなんて、やってはいけないとおもいます。
人生経験豊富だったり、権力があるからといって、それにうぬぼれて、議論や説得することなく道徳的な理由や理論に反した理由で、それを弾圧してしまってはいけません。

個性についての理解と共に、こういった凝り固まった社会風習の欠点についても、よく考えていきましょう。

考える能力を養い、なにが良いのかどうか、その判断を、「普通じゃないから」「みんなと同じじゃないから」「そういう立場(権力者)じゃないから」といったうぬぼれのような概念を捨てて、個性を活かせる環境を築いていってほしいかぎりです。



・補う者



個性を持ってるひとは、優れた才能があるところもある反面、欠けている部分もあったりすることもあります。
その欠けている部分が、自分自身できちんと補うことができない場合もあります。

個性を活かすには、欠けている部分を補う存在、いわゆる"助手"が必要になることもあるわけです。

例えば、医者としても、医学知識の面では、ものすごく才能があっても、手先の震えとかがあり、手先を遣う手術のほうは、どうしてもできないなど、得意不得意の部分が、はっきりと出てきてしまう場合もあるんです。

ところが、医者は、医学的な考察判断と手術も両方できないとダメという社会風習があるために、才能を押し潰されてしまっていることもあるみたいなんですね。

個性を受け入れ、優れた部分は、より活かし、欠けている部分は補う、いろんなひとと助け合い協力していけるような世の中になれば、もしかしたら、個性も、きちんと才能と認められるようになれるんじゃないかとおもいます。



・自分の取扱説明書



個性への理解をみんなに伝えるためには、まず、自分がなんなのかを、自分で考えたり、みんなといっしょに考えたり、知る必要があるかとおもいます。

個性の中で、得意なこと、苦手なことを、より明確にするわけです。

いわゆる"自分史"というものを、深く考えて、みつけ出す必要があります。

これは、そのひとの個性が医学的にどういうものなのかを認知する、また、認知させることも重要なのですが、個性とか以前に、人間関係とか就職活動などの生活の面でも、すごく重要なことなので、よく覚えておくと良いです。

いろんな面で、ひとと関わるとき、考察に基づいて自分の取扱説明書をつくっておき、自分は、得意なことや苦手なことなど、どういう個性があるのかを、関わるひとに伝えられるようにしましょう。

また、ひとと深く関わるときは、そのひとが、取扱説明書をきちんと読んで、議論(話し合い)をしたり、はたまた、妥協できる部分を決める約束をしたり、お互い受け入れたり納得のできる関係のできるひとを、判断して関わると良いとおもいます。



・あとがき



なにかと差別や偏見がいっぱいある世の中。

そういった世の中において、個性を活かせないばかりか、世間が主張する普通という概念に押し潰されたりして、個性を台無しにされてしまっているような風常に、本来の自分を自ら押し潰し、たくさんストレスを抱えていきながら生活してるひとも、少なくないとおもいます。

また、知己(自分)も、アスペルガー症候群という強い個性を持っていて、福祉関係の施設の活動で、同じような個性を持つひと達とも関わりを持つことになり、そのひと達も、また、世の中で個性を認めてもらえないばかりか、差別され、いじめなどの対象にされてきた経緯などもあるみたいでした。

そのひと達は、道徳心の面では、ひとを陥れるような裏切りをキラい、丁寧に愛情や友情といったココロを大事にし、そういう意識をしっかりと持っていたり、悪いひとでは、ないとおもいます。

なのに、なぜ、まるで害があるみたいに観られなければならないのでしょうか?

なぜ、才能の可能性のある個性を押し潰されたりしなければならないのでしょうか?

いわゆる普通といわれている風習や常識を、当たり前のように認識してる方は、まず、その意識を根本的に観直してほしいです。

この記事では、"障がい"という単語を、あえて、"個性"と書いてますが、知己(自分)は、いつか、その、普通のひとより欠けている部分も、周囲に認知され、また、才能というものも、得意なことも苦手なことも、すべて"個人の持つ特徴や性格"…【個性】と呼ばれ、【障がい】という言葉を世間で●語(タブー)として認識され、そういって個性を受け入れられることを夢観て、この記事を書きました。

ホントに障害となる奴らは、道理や人徳を捨てた、非道かつ残虐で、調和や秩序を根本的にぶち壊すような悪魔のような人種であるほかならないんだから、身体や知能などに欠けている部分があったりするひとを「障がい」呼ばわりするのは、やめてほしいです。

2012/12/6