この雑記は、学校教育で優秀だと評価される生徒のことや、学校において、なんの教科を、本来、学ぶべきものなのか、周りの知り合いの意見なども参考にして、知己(自分)なりに考察し、書き出したものです。
意見がありましたら、コメント、もしくは、メッセージで、気になった記載部分を言ってください。



:道徳



なにをもって、優秀な子、優秀ではない子、それらを判断するのでしょうか?

テストで良い点数をとれるから?
教科の成績が良いから?

否…違います。

”ひととして大切なもの”…それは、道理や人徳を学ぶ【道徳】の教科に含まれているとおもいます。

それは、「おもいやり」や「慈悲深さ」…「優しさ」…とでも表したほうが良いかな…?

また、学校のような、いわゆる【集団生活】を義務づけているのは、実に様々な数々の生徒達のいる学校において、ケンカや揉め事などの対人トラブルや、おともだち同士の友情などを通じ、たくさんのひととの接し方を、もっともっと学んでほしいからなんです。

それは、国語・算数・理科・社会といった教科の成績のなかには、含まれていません。
生活において、ひととの接し方を学び、それを重要項目として、善い事(ひとを結果的に幸せにしたりするもの)・悪い事(ひとを結果的に不幸にしたりするもの)の区別をしっかり審判したりして、先人として教えるべきが、先生であるんだとおもいます。

教科の学習を教えるのが先生というわけではありません。

なんていうか、教科だけ学びたいんなら、引き込もって通信教育みたいなカタチでもいくらでもできるだろ?って話ですよね。

教科の成績がいくら優秀であっても、ひととの接し方、道理や人徳を含んだ【道徳】、おもいやりや慈悲深さなどの優しさを、しっかり認識して身につけてなければ、どうあってもひととして優秀であるとは、とても言えるものでもないとおもいます。

まず、最初は…
「嫌だとおもうことは、他のひとにもしない」
「喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、自分で感じたこの嬉しい気持ちや悲しい気持ちは、他のひとも、同じ生き物だから、同じ気持ちがあるということ」
「痛い、苦しい、自分で感じたこの感じも、他のひとも、みんな同じ生き物として、この感じがあるということ」
…こういった基礎みたいなことをいくつか認識して、そこから、どんどん応用していくと、道理や人徳っていうのも、多分、なんとなく覚えていけるものなんじゃないかとおもいます。

いくら成績が優秀であろうと、道徳なき悪い遣われ方をしてしまっては、世間的に、ただの薄汚い邪魔くさい人間に成り下がってしまうんですよ。

まずは、どの教科の成績よりも、絶対に【道徳】が優秀なひとなのかどうかを、評価してあげてください。

どんなに成績が良かろうと悪かろうと、頭が良かろうと悪かろうと、そんなものは、ひとまず、どうでも良いことなんです。
まず、第一に、ひととしての心を、なにより大切にしてください。



:価値観



ひとには、それぞれ違う感性や性格があり、スキなことやキライなことなども、ひとによって様々です。

いろんなひとと接することで、ひとそれぞれの価値観の違いというものは、しっかり認識しなくちゃいけないものだとおもいます。

例えば、自分は平気でも、他のひとにとってはイヤなことであったり、他のひとがスキなことでも、自分にとってはダメなことであったりすることも、必然的に出てきます。

価値観の違いがあっても、うまくひとと接することができるようにするためには、【話し合い】をまず覚えるべきだとおもいます。

そして、【取り決め】をして、自分にとってや他のひとにとって、良い事とダメな事の区別を、お互いにしっかり認識して、ひとと接するうえで、まず、決め事は、予め、しておくべきことだとおもいます。

そして、時に、どうしても良い事やダメな事、お互いに合わないときは、【妥協】すること、【譲る】こと、これらの必要性も、しっかりしておかなくてはならないことだとおもいます。

妥協や譲る気持ちなくしては、ただ我が儘やごう慢な態度をとることを認識してしまい、ひとの価値観を、独りよがりな自分の価値観で押し潰し消し去るようなことになり、ひとに迷惑がられてしまうこともいっぱい出てきてしまうんじゃないでしょうか?

いろんなひとと接する中で、感性や性格とか、みんな違うものなんだということをしっかりと覚えて、ひとの感性や性格を尊重することの大切さも、覚えておきましょう。



:性



男女の性についてです。
エロいことも含みます。
これは、ヨーロッパのほうなどでは、幼い頃から、けっこう学習させてるそうですが、なぜか、身近では、世間的に、とてもタブーなことにされてしまってます。

表沙汰にしないで隠したがるっていうか、否定的に扱うっていうか…。

あと、生物的に必然的というように出てきてしまう、女性は、【男性の性欲についての認識】と、男性は、【女性の生理などの認識】とか、重要なこととして、こういった異性のことを、すぐにでも教えておかなくてはならないとおもいます。

世間的にタブーにしてるがために、間違った認識で、沸き上がった性欲でエロいことを覚えてしまったとすると、恐ろしいのが、男性の性欲を抑えきれないがために起こりうる性犯罪や、やみくもに性行為をしてしまったことによる性病などです。

女性が、もっと男性の暴発すると恐ろしい性欲のことについての認識があるなら、事前に、そういう性欲の処理などできたり、きちんと教えられるようであれば、男性が、女性に対して、暴発した性欲をむき出しにして、性行為の対象としてしか女性を認識できなくなるような事態は、減るんじゃないかとおもいます。

男性も女性も、お互いに身体の違いも含み、異性の心情や特徴のことに、もっと、意識しなくてはいけないことだとおもいます。

あと、異性と性行為をするうえで、必ずしなくちゃいけないのが、性病の検査です。

性病についての検査は、エイズや肝炎、か、実にたくさんのものがありますが、お互いにすべての性病検査をし、また、その検査結果で安全であるという証明書を絶対に観せ合ってください。

また、検査結果が性病の項目に当てはまる部分があった場合は、性行為をすること自体を、絶対にやめてください。

ここ、最も重要です。

性病の感染症は、どこから移るのかもわからないし、誰が持っているのかもわからないし、また、産まれてくる赤チャンが、産まれながらに感染症を持ってしまうケースもあるようで、潜伏してた感染症が発症したら、命の保証は、ないようなものとおもったほうが良いでしょう。

性についての無知、ちょっとした出来心での、性病検査を怠った安易な性行為、こういった出来事ひとつで、苦しんで命をなくし人生を失うことになったり、感染症を蔓延させることになったり、結果的に、そういったことになります。

性は、生物学上、人間という種の子孫繁栄のため、必然的にあるべき性欲や生理の認識を、必ずしもなくてはならないものとして、きちんと向き合って教えるべきことです。

こんなにも最重要なことを、「エロいから」とか「いやらしい」とかでタブーにしてしまう世間一般は、もう、アフォすぎて狂ってるとしか言い様がないようにおもえますね。



:法律



日本国民として、国のルールを、ありとあらゆることくまなく教えることが重要なのは、言うまでもありませんね。

弁護士とかだけじゃなく、なんていうか、日本国民として、みんな社会生活するうえで知ってろよ。
保護者も学校の先生も、まだ子どもだろうと、こういう最も重要なことは、きちんとくまなく教え込めよ。
そうじゃないと、おもわぬ法律の落とし穴に引っかかり、刑罰で人生をダメにしてしまう事態にも、なりかねないですから…。



:好奇心



そもそも、なにが楽しくて生きるのか?
自分が自分として生きる目的を認識するのは、必要であるかとおもいます。
それで、生きる目的として、重要なののひとつが、知己(自分)は、【好奇心】だとおもいます。

好奇心は、いろんなものに興味を持ち、また、興味のあるものを、より高めていくためや、また、意欲を持ち、生きる活力とするのに、必要なものです。

社会的な流れとして、より新しいものや便利なものを造り出す源にもなっています。


好奇心を失った、マンネリ化してしまったひとは、意欲を失い、やがて、生きる意味や活力さえ失ってしまうとおもいます。

それか、ただ、作業ロボットのように、プログラムされた同じことの繰り返すだけの、なにか心をなくした人形のような日々をおくることになってしまうとおもいます。

好奇心は、子どもの頃、多分、みんな、すごく持っている心なんだとおもいます。
ところが、大人になるにつれ、興味が薄れ、好奇心は、なぜだか、忘れていき、なくなっていってしまう。
どんどん、数々のいろんなものが、意識の中でマンネリ化していってしまうからだとおもいます。

でも、好奇心は、いろんなひとに、忘れずに教えてください。

好奇心があって、そういう夢があったからこそ、新しい便利なものが生み出されていったりした時代の流れを、忘れないで教えてください。

時代は、また次から次へと、新しいものへ絶えず変化していったりします。
その時代の流れの世の中で生活するうえで、知恵のほかに好奇心をいつも抱いて、新しい便利なものを意欲を持って考えて造り出す能力は、大人へと成長していく中でも、忘れないで教えてほしいものだとおもいます。



:あとがき



世間的に、なにか学業自体におかしなところがあるんじゃないか?…とか、知己(自分)、いろいろと考えてました。

大人の年齢になってから、小学校の生徒の頃、担任の先生だったひとと、学校のことについてとか、昔の学校生活のことについてとか、そういった話を聴いたりしてました。

小学生の頃の担任だった先生も、知己(自分)のいた昔の頃と、なにかおかしいと感じたことは、少し、話してました。

昔は、あまりいなかったような心ないようなひとが、なぜだか、よく周りに観られるようになり、幼い頃、とっても良い子だったひとも、なんか、不良みたいな感じに変貌してしまってた姿を観て、なんだか悲しくなりました。

不良みたいな感じに変貌してしまったのは、知己(自分)の周りだけじゃなく、担任だった先生が話すには、小学校の生徒にも、なんだか、昔よりも、よく観られるようになったそうです。

なにかが狂ってる。

この雑記は、知己(自分)の個人的な主眼で、書いてますが、なんか、ひとが学習するうえで、重要なことが、なくなってしまっているんじゃないか?と、個人的におもってます。

心ないっていうか、考える力がないっていうかさ…。

「世間的にみんながそうやっているから当たり前」とか、そういう物差しでしか考えたりできないようなひとを、知己(自分)は、認めたくありません。

なにが善いのか悪いのか…?

そういった考察から、きちんとした理屈や哲学を観出して、善い結果を導き出せるものこそが、本来、当たり前のように学習されたりしてほしいんですよ。
そういうおもいがあって、この雑記は、書きました。

よく考えてみてください。

当たり前のように認識してるもの。
学習してきたもの。

…それは、本当に当たり前であって良いものなんですか?

普段、何気なく教えてるものは、本当に当たり前であって良いものなんですか?

2012/11/10