兵庫でカンディンスキーと青騎士展を見て、それから帰ってきたら岡本太郎のドラマ。

20世紀は、主義主張と共に、カリスマ的な天才が必要だった、らしい。
私はベンヤミンの「複製技術時代の芸術」は、ちまたでよく解釈される
コピーが増えると作品の持つ唯一性、アウラが失われるので、ありがたみがなくなる
よってパクリやコピーは駄目だ、というような受け取り方はしていない。
ベンヤミンは映画ファンだ。
だとしたら、アウラが失われるのが悪である、という読み方の方が、誤読なのではあるまいか。
彼は、複製技術が進めば、多くの人が作品世界を共有できるという楽しみ方、鑑賞の仕方が出てくるね、と示唆したんではないか。

とにかく、前衛芸術のようなものは一般的に理解されるか、というと
普通の人は「これは何の絵か」を考えるだろう。
絵画の見方を習った人達が、そのうんちくをたれながら、
「何が描かれているかではなく、内面的な発露を」というような事を言ったとしても
絵画はやはり、絵画である限り、多くの人はそこに「何の絵」かを求めてしまうのではないか。
結果、天才一個人の内的世界に入る努力をするよりは、
こちらがお客様な態度であっても、コンファータブルな美を提供してくれる、
いわゆる具象の美術に人の足は向いてしまう。
ろくな美術教育も無く、漫画文化ばかり氾濫する国でなら、なおさらだろう。

抽象、前衛には「天才」の概念が必要だった。
有名で天才の画家のありがたい作品を拝みに行く、それは唯一のものである
真似できない独自性、真似できない瞬時性、あるいは大きさ。
コラボレーションなんてとんでもない事で、
いかなる者も真似できない主体性を持って、いかに天才であるかをアピールする
そうしなければならなかったのではないか?
マスメディアを総動員してでも。

芸術のためである
本当にそうなのだろうか?
私にはその熱狂がどうしても、パラノイア的なものにすぎなく見える。
それは自分には才能が無いからなのだ、という結論が下されるわけだが
才能とは何なのか。天才とは何なのか。

島田紳介の番組で、芸能人の絵画をオークションしていた事があったけれど
果たしてマスコミなどを利用して演出する「仕掛け」をしなかった場合
萌え系の絵と、前衛芸術のどちらが、ニーズがあると思われるか。
単純に「ググって」みればわかるのではないか?
つまり、一般大衆にその価値を上げさせるために
「天才」は、彼がいかに天才であるか、その偏執とはいかにすごいものであるのかを演出しなくては、そもそも生きてすらいけなかったのではなかったのか。

あるいは大衆にありがちなスノビズムで
自分は、他の人よりかは、美術を知っており、他の人が理解できないようなものでも理解できるのだ
という一種の特権意識のようなものから
バカには見えない衣をありがたがったのだとしたら。

その彼は、神から与えられた才能で、特別な存在として、その才能を発揮した神にも近い存在
であるのか、それとも
他に生きる方法が無かったために、ともかくそうして生きるしかなかった、ただの人間
であるのか。

ベンヤミン言うところの、アウラ消失後の世界に住む私たちは
天才に対しての態度を変える必要があるかもしれない。
彼は、生きるのが下手な中でも特に不器用だった、親しい隣人である
そんなふうに。

狂気をヒーローのように演出する必要などどこにもない。
そうする事で、
例えばもしピカソがいるとすれば、彼と同居してたブラックが
隣人の隣人、として共有できるちょっと贅沢で知的な空間を広げてくれる。


カンディンスキーは天才だった。絶対音感ならぬ、絶対色感を持っていた。
しかし、青騎士のメンバーと愛人ミュンターと過ごした日々から読み取ろうとする、今回の兵庫県立美術館での展覧会では
孤高で特別なカリスマのみが重要なのではなく、むしろ彼を取り巻いた師や、教え子、仲間
そういう関係をリンクさせるバナーとして、美術があったのだと知る事ができた。