チュニジア、そしてエジプト。
それから去年のジュリアン・アサンジ
フェスイブック、ツイッター、ウィキリークス。
そういうものを見ていると要するに、今世の中は…

(自分のような、専門家でないただの「賎業」主婦からでも)わかる。
人類が、印刷技術を手にして以来の、伝達の変動期だという事だ。

古く、ギリシャ・ローマ神話にあるアレゴリーから
「伝達」に関して読み解いてみる。
すると、ヘルメスと、イリスが現れる。

ヘルメスとはご存知、マーキュリー。マーキュリーというと今カップヌードルのCMで…
違う。それはクイーンのフレディ・マーキュリー(この名も随分意図的だ)

そうでなくて、ヘルメスは、伝達の神、技術の神。
一説によると、人類に言葉を教えてやったのはこの人らしい。
商売のカミサマでもあるので、西洋ではどういうわけか、あれほどギリシャを異教と排除しながらも
プロテスタントの間では生き残っている。
それが証拠に、アメリカの軍医のマークに、ヘルメスの持つカドゥケウスが使われている。

さてそのカドゥケウスを持つ者が、もう1人いる。イリスという女神。
この人の伝達方式というのは、口でなかなか説明しづらい。
だけど、日本人でおまけに女性ならば、あるいはニュータイプならば、言わずともなんとなくわかっていただけるかもしれない。
理論でわからせる、というものではないからだ。

イリスに関しては、あまり西欧ではあがめる人がいない。必要性の問題だったのかもしれない。
例えば、戦場では「なんとなくそこらへんに、に敵が2、3人いるみたいな~ってかんじでした」
では困る。「どこよ。それ見たのいつよ? てか何人いたのよ、どうすりゃいいんだ」
でないと死ぬ。確実に死ぬ。
あと、女神はマリアで充分だから。マリアはイブの転生とする見方もあったし
(汎神論ではないくせにヘレニズムを捨てきれず)他にもいっぱいいるからかも?

ではどうして、イリスはカドゥケウスをもう一本持ちえているのか?

カドゥケウスは、アポロンの杖だ。だとしたら、それは動かない真実につながっているはず。
もしかしたら、イリスの杖とは命のリレーにもつながる心情の伝達の事かもしれない。

ヘルメス=情報、とするならば
今日の状況は、まさに「ヘルメス信仰」に近い。
つまり、ヘルメス・トリスメギストス。
インテリが好きそうなもんだ。知恵だの情報を金に変えていく人達。

そういう人達によってもたらされる、たくさんの情報を
機械の頭になれない私達は、なかなか全て処理する事はできない。
完全に合理的に割り切る事などできない。
それが出来るようになったら、もう動物じゃないから、子孫なんか絶えてしまう。
(工場で生産すれば別だけど)
情報を処理できないけど、しなくちゃならないので「単純化」が起こる。

マンツーマンやケースバイケースの対応では処理できないから
何でも十把一絡げの判断をする。特種な例などいちゃ困る。判断できない事は無かったことにする。
全てを0と1とで分けていく。頭が全て、判断と分類というデータ処理に使われるようになると、どうなるか。

結果、そうして誕生するのは、想像力の麻痺だ。
愛も思いやりもそれに当たる。
そうすると、「本能」と「情報」だけになってしまう。
考えも愛もすでに無いが、「寂しさ」は本能にあたるので、やたらに繋がりを求める事は残る。

怖いのはここからだ。
過剰な情報ストレスによって時間的余裕と想像力を失った頭は
「一個の機械」と言っていい。その機械は、自ら深く考える事をしなくなる。
苦しむ事は全て悪になり、悪と排除という数式だけ残る。
しかし、人は結局完全な「機械」にはなれないから、孤独感、つながりへの渇望は消えない。

その空虚な個体がバラバラに点在する所に
…もしも、電流のような感情をガン、と流したらどうなるだろう?
一方向を向いてしまうのではないだろうか?

実際この方法は、歴史上で何度も試されている。
革命家も、テロリストも、いかにマインドコントロールするかくらいは知っている。

アサンジがやりたかったのは、庶民に対して真実をただ知れという事じゃないと思う。
ただ知って、ただ付和雷同する事なく
知った分の自分の考えを持て、けして、不正に対して泣き寝入りしないよう
我々は自分の頭で考えるべきで、そのチャンスは今ここにあると
そう言いたかったのだと思う。
それは、先の尖閣の動画流出問題にしてもそうだと思うのだ。
ジャーナリストの役目は、一方向の情報や、一方向の価値観で洗脳する事ではないし
ましてや、どこかの政党の犬のような真似をする事ではないと思う。

(余談だけどここらのテーマ、「遙か5」の福地ルートで描かないかなと期待している。
幕末~明治のジャーナリストの代表としてはどうなのかなと…)

ウィキリークスと、フェイスブックが同時期というのは
何かこう悲劇でもあり、ドタバタ喜劇でもあり
考えさせられる事は多いなと思う。
判断しても、考えても、つながりを求めてしまう連帯性への希求
そして一方に連帯性と理解されるという安心感との中にある、独自性への希求
松尾芭蕉が詠んだ句にあったなあ、こんなの。

私は、虹の女神イリスの持つカドゥケウスがどこにあるのか、とても良く知っている。
例えばあれは、「母親」が持っている。
言葉なんて喋る事のできない者と対話した者
言葉では伝える事のできない、全ての愛を持った事のある者

男が作った男の脳に従う事を強制される社会は
ヘルメスの杖一本で動いているようなものだ。
しかし、西洋はもうずっと、それこそ活版印刷発達くらいの時期からその事について考えて来た。本当は何が必要なのか。
まずその杖を持ったならば、考えなくてはならない。
考えでは足らない。「熟考」すべきなのだろう。


もし、そんな大きな戦いではなくて、もっと個人的な世界での戦いに目を向けるとするならば
まず、日本人であるなら、あればあるほど
誰かの生き方に対して、安易なダメ出しをしない事は必要だと思う。
(○○ってのはダメだと差別的な事を簡単に言う人の知性を疑う)

私はけして、イリスのカドゥケウスのみで動く社会を支持するとは言わない。
ただ、イリスの伝達を、非合理なものとして排除すればするほど…
そこにある幸福というものは、一部の傲慢な権威者か、それに追従するだけの能無し
にすぎないんじゃないかと思っている。

我々はおそらく未だに
2本の杖を上手く使えないただの猿、なのだろう。
猿とは言わせたくないならば
思考も愛も捨てる事なく、隣人を見捨てたり嘲笑したりするような事をしない事だ。