オタクが何か、とかオタクはどう考えているかとか
そういうものとポストモダンとを重ねて考えられたり、考えたりする行為や論壇に最近、飽きてきた。

「アンジェリーク」は、女オタク向けとして、同人誌ジャンルでは最初からいる人達にとっては15年になる。同じコーエーのネオロマンスゲームで「遙かなる時空の中で」が今年10周年。
女性向けは4年、早ければ2年で廃れるという、それこそファッションやモードの世界のようなものだと思う。
 けれど、売れてもらわなくては生活に困るという商業系の同人誌をやっていなければ、本当に好きなものを10年、20年と変わらず好きでいても、何の問題も無いのだとも思う。
 ぶっちゃけた話。もし仮に今、同人誌委託書店経由で売れる本を作って下さいというものであるなら、そしてそれこそが自分のやりたい事だと迷わず思っているなら、WJ系か? ヘタリアか?
などと、例えば、委託書店の査定やランキングを気にしてから売れ筋のものを、というようになるだろう。
 当然、資本も必要になる。何より多少、出世とお金が好きでないと難しい。
 しかしそれはもはや、流通経路の違う商業誌であって、
 たとえいつか昔に毛嫌いしたオトナの世界とは違う世界にいるとしても、心から望んだ事でも、好きでもなく、単に流行ってて稼げるからという目的の上でしか描かないのなら、「思いを伝えたくて描く」よりも、「売れるかどうか」をメインに据えないとおかしい。
 ましてや、誰かと会話したり友人を作ったりなんていう行為は、競争の中ではスッパリと捨てなくてはならないかもしれない。
 不特定多数に見せたいだけならネットだけでも活動は可能だ。だからこそ、目的の違いを抱えたまま、誰かのやり方や価値観に容易く口出しはできないのだ。

それ以上に、私は「オタク」について論じるものには疑問を持ちはじめている。私はそんなに賢くはないし、ただ単にここ10年は熱心に乙女ジャンルで描き、イベントに出て、いろんな読者さんと話した。それだけだけれど。
そして、読者さんと話す事や、ファン同士仲良くやっていく道を探す事こそ、私がかつての商業誌時代にはできなかった、1番大事な事だと思った。
オタク批判云々は別として、コミュニティとはそういうものだと思う。

 イベントでは小さな本を作り、読まれるのか読まれないのかはわからないけれど、自分の近況を書いたペーパーを配っているサークルがある。朝から椅子に座って、売れたのが5冊以内であっても、或は時に、不運の配置で、隣に有名サークルが配置されてしまい「どーしてそんな本が売れるのかね、どこがいいっていうのかね、へっ、どうせウチのは」などと卑屈になりながらも
 それでも、好きでいるのと、描くのとをやめてしまったら、いったい何があるのだろう、やっと見つけた居場所なのに…という、そういうサークルの描き手がいるのではないだろうか。

 もちろん、論者達が言うように、無機質で中身は無くても、テーマなんか無くて18禁、絵柄が今風というだけで売れるものもあるだろう。けれど、(このさい規制の話は置いといて)そういうものを簡単に批判してしまえるほど、現実は簡単にはできていない。1つの本には、たとえどんな人が、どんな世代が出していようと、出すに至ったエネルギーは多少ある。8ページしか無い鉛筆描きのコピー本を、朝大慌てでホチキス製本している、その姿の裏には、100以上の語り尽くせない物語や事情がある。
  
 狭い世界で申し訳ないが、乙女ゲーム/ネオロマンスのジャンルだけを見た場合、元ゲームの内容が質的に高いものであったおかげで、全てのサークルがポストモダン的なものにはなっていないと思う。表現力と表現方法については様々であるけれど、好きでなければ本を出そうとは思わない。結局好きだから出すのだと思う。

 所詮、CDで囁かれる愛の言葉など、商品にすぎないではないかと言う人もいるだろう。しかし、そんな事は最初からわかっている。わかった上で、鑑賞し、更に理想を抱く。
 ネオロマンスの声優さんのイベントがあんなにも盛り上がるのは、声優さんというミディアムを通して、私達はその向こうに存在している(はずの)本物の守護聖や、八葉を見ているからなのだと思う。
「私、囁きの時は目閉じてるんだよ。声優さんにはちょっと失礼かも?だけどね」と言った隣の女性の呟きは、本物だと思った。私達は別に、ネオロマンスに現実逃避のための逃げ場を、ただ求めただけではないと思う。
 どちらかといえば、明日を生きるための活力として、ゲームの中の文学的なテキストを読み、二次創作をやってきたのではないだろうか。もちろん、逃避のみの人も、それはそれでいてもいい「居場所」として。もし、それが甘えであり、単なる癒しと消費にすぎないのだ、などと言われてしまうのなら。
家庭愛も、花を買って愛でる心も、美術館に行ったりライブに行ったりする行為も、全て「くだらない」とされてしまうではないだろうか。
くだらないものにしているのは、それをどこかでくだらないと感じている、「上から目線」の態度であると思う。少なくとも、私達はその消費行動をくだらないともつまらないとも、あるいは単なる逃避とも解釈はしていない。
 「好きだから、良い新作が出たら買いたいので、心待ちにしています」
 単に、それだけ。
それは、正当たる鑑賞者の態度だ。批判ではなく、正しい批評のあり方だと思う。(少なくとも、ボードレールの批評精神が批判されずにすむならば)

多くの本を買った。多くの、同人誌を読んだ。まるで生きてそこにいるかのような場合にしか、私達は萌えない。愛さない。
 これがわかっていないのは仕掛ける側と、私達はそんなくだらないものでしかない、エサに釣られるだけのカモだと判断している企業の方ではないのだろうか。そんな態度で作られた愛の欠片も無いものが、生き残っていけるとは私には思えない。ごく1部の人間に、望んだ通り消費され、忘れられていくだろう。

1人1人はとても小さいが、くだらない十把一絡げ論よりは、ずっと様々だ。
線の数、絵の数、文章の数だけ、本はあり、「隣の有名サークルと同じ本」などどこにも無かった。
そうで無かったからこそ、その8枚のコピー本は、尊いのではなかっただろうか。
古い臭いコトバで言えば、それこそが愛であり、エネルギーなのだから。
誰か架空の腐女子を、代表者として立てられるほど単純なものではなかった、と思う。