『軽いめまい』 金井美恵子 | 4ALLMOVIEBUFFS

『軽いめまい』 金井美恵子

『軽いめまい』 金井美恵子(講談社)

 句点がやっと現れたのは4ページ目で、それまでに句点は69個あって(1回しか数えていない)、とにかく最初の句点にたどり着いた時点で「軽いめまい」を覚えたのは言う間でもなく(むしろ、仰天したと言った方が正しい)、これは久しぶりに会った読書家の友人---その時は、彼女の旦那のカバンからこの本が現れて、彼も読んでいるのだなと分かった---からジャック・ケルアックのダラダラ感が好きならこの本もきっと気にいるだろうから読んでみて、と薦められた日から数えて5ヶ月目にしてやっと図書館でみつけたのだが、先ほども書いたように初めてやっと打たれた句点を目にした時は、これは心して読まなければいけない代物かと難しい気持ちになったりもしたが、真剣に読もうとすると余計に何の話をしているのか訳が分からなくなるし、もう一度前のページに戻って「なんだっけ?」なんてことをしているとますます苛々してくるので、二章目の「隣の女」からはご近所の誰かが私に取り留めのない話---正直、私には興味ない内容のことが多い---を延々と聞かせているんだと勝手に想定して聞き役に徹してみたら、急に読む速度がいつもの標準に戻ってリズムに乗って読めたのは良かったけれど、私も主婦(専業ではないにしても)だから思い当たる節もいくつかあって、決まり悪い思いがしたり、そうそう、こういう主婦っているんだよなーと改めて迷惑がってみたり、やっぱりいかにも主婦然としているのってたまらく嫌だなと自分のことは棚に上げて思ってみたりもした。

 既に皆様がお気づきのように、今、私は金井美恵子の書き方を真似てなるべく行けるところまで行ってしまおうと、句点を打たない試みの最中だが、単文で締まりの良い文章を書くことが尤もだと信じてきた私には至難の業で、上記パラグラフは無理矢理繋いだ印象が感じられる上、句点なしで3ページも4ページも続けるのは私にとって甚だあり得ない行為だったので、なんだか金井美恵子への冒涜のような気もしてきたが、今回ばかりは最後までこの手法を貫いてみようと決めたので、どうかおつき合い願いたい。

 物語というべき物語や事件というべき事件も起こらず、舞台はほぼマンションで展開され、自分の息子たちのことを「上の子」「下の子」と呼ぶ様---この呼び方はいかにも主婦用語、或いは世間話用語なので好きではないのだが、ご近所の方と話したり、夫妻のことは知っていても彼らの子供の名前を知らない場合や、それほど親しくないので未だ名前を覚えられないでいる場合に便利なので使ってしまう---は、奥ゆかしさだの曖昧さだのを大事にしてきた日本ならではの呼び方であって、他には「上の子」を「お兄ちゃん」だの「お姉ちゃん」だのと言ってみたりもして、確かに良く知らない人様の子供の話を聞いているこちらとしては話の流れを掴みやすいと言えばそうなのだが、最初に紹介してくれればその後は自らが子に授けた名前で話を進めてくれればいいのに、何度会っても「上の子」だの「下の子」だの言われると、いざその「上の子」に会った時に何と呼んで良いか分からないではないかと思ってしまって、「上の子くん」と陳腐な言葉が浮かんこともあったが、それじゃあんまりだから、咄嗟の印象で「お兄ちゃん?」などと苦し紛れに呼び掛けたりしたこともあって、主婦用語や世間話用語はできるだけ使わないようにしたいものだと常々考えていたことを思い出させられると同時に、この作者の凄いところは、極々身近に存在するもの全てをひとつも見逃さずに全て書き並べている点であって、その細かい作業はキッチリと徹底されていて、他のどんな主婦をテーマにした作品よりも群を抜いているのは誰もが認めるところだろうし、それらの詳細を読む行為にも「軽いめまい」を覚えずにはいられないので、「軽いめまい」を覚えるのは何も専業主婦たちだけではなく、これを読む全ての人々---蛇口から流れる勢いの良い水を見て放心するような、或いは職場でパソコンのモニターに映るある一点を見て放心するような---にとってきっと関心の持てるストーリー、つまり世間話であるのは確かであって、ダラダラ文章というだけでうんざりしないで、蛇口から流れる水に放心したことがあるのであれば、一度読んでみることをお薦めしたいその理由は、放心してしまう理由がみつかるからだとか、読めば明日から何かが変わるからだとか、そういうことではなくて、平凡であることが改めて分かるからであって、平凡なことが改めて分かるというのは現実が分かるということであって、今更現実を知ってどうすると思われるかもしれないが、現実というのは大抵が平凡なものだから、平凡な中に些細な楽しみや新たな発見があれば、人はそれなりに楽しくやっていけるんじゃないか---主人公の主婦はきっとこれからも「軽いめまい」を何度も何度も経験するには違いないが---と思うし(話は逸れるが、何かに没頭することや夢中になることも一種の放心じゃぁなかろうか)、ややもすれば、日々些細なことに一喜一憂して、一日の終わりには「素晴らしき哉、我が人生」などと心で呟いていられるくらい、のほほんとしていられるかもしれないからだ。