でも、日本のマスコミが伝えていないブータンには国際的に大問題となった人権問題があるのです。
その人権問題を ”南部問題” と言われています。
まずは、なぜこの人権問題が発生したのかの背景についてです。
それはブータン周辺国の状況が関係しています。
■チベット
チベットは中国の属国だったということで、中国はチベットに侵攻し、1951年に中国支配下となりました。
ネパールとブータンの間に位置し、ネパールからの移民が75%以上占め、民主化をすすめたことで、ネパール系の勢力が増し、チベット系とネパール系の間で生じた混乱の収拾のため、1975年にインドが侵攻し、インドに併合され、インドシッキム州になった。
①インドとの関係を強化することで、インド対中国の形とした。
②ネパール系民族を追放する。(約人口比40%)
ここで、独立を維持するために、上記②のネパール系国民を追放、すなわち民族浄化(エスニック・クレンジング)を行い、国際問題となった南部問題が発生しました。
この南部問題の背景として、まずは民族構成がポイントです。
1)ドュクパ 人口比50% (2種類)
①ガロン(西部・中部) 人口比20%
・チベットから移住してきたブータン西部の住民
・母語はゾンカ語(中央チベット語の南部方言に分類され、現在の国語)
・チベット仏教のカギュ派ドゥク支派を信仰
※中部は母語はムタンカと呼ばれるゾンカ語の一種で
②ツァンラ(東部) 人口比30%
・ミャンマー・アッサム地方を出自とする東部の住民
・チベット仏教(主にニンマ派)を信仰
・ツァンラ語(シャチョップカ語)
※チベット・ミャンマー語派の中でもビルマ語系に近い
・南部に居住するネパール系住民
・ヒンドゥー教徒
・インド=アーリア系のネパール語
チベット系国民で構成されていたシッキム王国ではネパール系国民が75%以上に増えたことを発端にインドに併合されため、ブータンは増加傾向になる”40%のネパール系のローツァンパ”の排除を国家戦略としてすすめていきます。
では、4代国王ジグメ・センゲ・ワンチュクはどのようにネパール系国民の排除をしていったのでしょうか?
定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、南部在住のネパール系住民ローツァンパの多くが国籍を実質的に剥奪される
1991年 ネパール系ブータン人に対する、恣意的逮捕、レイプ、拷問が激しくなり、多くのローツァンパ国外脱出し、難民化
このようにネパール系ブータン人が難民化した一連を「南部問題」といいます。
1992年 ローツァンパに対する「自主的移住用紙」にサインさせられ国外追放
・難民者数のピークにいたる
・ブータン人口約60万人の5分の1にもあたる約12万人が難民化
・難民化によってネパール系の人口比は約40%から約20%に低下
・人口60万人(島根県や大田区の人口に相当)と小国ながらアジアで最大規模の難民者数
・出国し難民化した人々をブータン国籍を認めず、再入国認可せず。
・世界人権宣言でもうたわれている 「自分の国に帰る権利」をブータンは20年以上経過した今でも無視しつづけています。
1992年11月 難民問題についてのネパール・ブータン両政府の二国間協議を行うことで合意
この裏に隠された事実
・ブータン政府は難民とも認めず、外国の介入を拒否
・外国介入拒否することで、時間稼ぎ
・ネパールは難民受け入れを外交のカードにする
1993年11月 テク・ナット・リザル氏に終身刑の判決
1998年3月 ネパール政府はブータン難民問題を国連の人権会議にあげる
1999年10月 ネパール、国連総会でブータン難民問題をあげる
1999年12月 テク・ナット・リザル氏、他の40名の政治犯と共に釈放
2005年5月 国連難民高等弁務官・緒方貞子、ブータン・ネパール・インドを訪問し、インド政府は協力を表明
2005年5月 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民の検証作業の仲介
難民の検証作業において、ネパールは「家族単位で行う」、ブータン側は「個人単位で行う」で意見を合わず、UNHCRは仲介案を提示し、ネパールは受諾したが、ブータンは拒否
2000年11月 英国王室のアン王女がブータン難民キャンプを視察
2000年12月 米国国務副長官らがネパールおよびブータンを訪問し、難民問題解決を促した結果、ブータン政府は「検証の作業を世帯単位で行う」というネパール案を受諾
2002年7月 EUの調査団がブータン難民キャンプでの実地調査を行う
2003年9月 UNHCRの難民高等弁務官ルード・ルベルスは、執行委員会(ExCom)会議にて、UNHCRが立証プロセスから排除されていることに不快感を表明し、3つの方策を提案。
①ネパールが難民のネパール定住を許す姿勢であるので、UNHCRは自助努力を促すプロジェクトを進めつつ、難民キャンプ維持から徐々に撤退する。
②安全が保障されにくいケースについては第三国への再定住を進める。
③ブータンがUNHCRのブータン入国を拒否しており、帰還プロセスをモニタリングできないため、帰還を推し進めない。
→ルード・ルベルスは112000人難民に対するブータン受入拒否を承認したため、ブータンの民族浄化を支援していると非難される。
2003年12月 ブータン側のJVT(ネパール・ブータン合同立証チーム)の要員とブータン難民との間にこぜりあいが発生し、ブータン側はそれを口実に、JVT要員をブータン本国に引き上げ。
→これ以降、全てのブータンへの帰還に向けたプロセスが中断
アメリカの政策として難民受け入れ枠があり、中東(イラク・イラン・パレスチナなど)の難民を受け入れを少なくするため、ブータン難民を優先して受け入れ開始。
これに続き、カナダ、オーストラリアも受け入れ、約75000人が移住。
この移住数はUNHCRの最大規模です。
【各国の難民受入】
アメリカ:12363人(2010年)
※ブータンは受入数3位、1位はイラク18016人
カナダ:1874人(2011年)
オーストラリア:1001人(2011年)
ニュージーランド:117人(2011年)
オランダ:46人(2010年)
以上、ブータン難民は祖国を追われ、20年以上にも及ぶ避難生活を続いていますが、ブータンは今の難民を受け入れずにいます。
このようなアジア最大規模の難民数、ブータン政府の難民受入拒否、世界人権宣言の無視などといろいろブラックなことが多いのですが、なぜブータンは幸せの国として有名なのでしょうか。
日本の報道ではブータンのいい報道ばかりで、このようなブータンの人権問題についてほとんど触れていません。
難民の避難生活の費用や衣服などをNGOや日本をはじめとする外国からの支援があります。
また日本はブータンに多額の援助をしているのですから、それを外交カードとして難民問題と絡めてすすめてほしいと思います。
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■2015年ブータン旅行記の記事は次をクリックしてください。
http://ameblo.jp/la-luna-sarah/entry-11076468738.html
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