日活京都撮影所での田崎浩一

 母の従兄弟に当たる田崎浩一は、佐賀県東多久郡出身の映画監督である。実家は戦前に、相知町で造り酒屋を営んでいたという。


 田崎は、日本大学を卒業した後、伯父が日活で役者をやっていた関係で、京都へ向かった。林長一郎(後の長谷川一夫)に見初められ、1933年に日活京都撮影所に助監督として入社。その林のデビュー作「稚児の剣法」(27年)を監督し、後に「座頭市物語」第一作(62年)のシナリオを書いた犬塚稔に師事した。ところが犬塚は、田崎を残して、永田雅一が創立した第一映画へ行ってしまった。


 犬塚稔は、2001年に、我々批評家が行っている日本映画批評家大賞で、ダイアモンド賞を受賞した。生誕100年という高齢でも、なお現役だったからだ。その時、「映画は陽炎の如く」という本を上梓しており、その本を一冊筆者にも献呈してくれた。田崎と犬塚の関係を知っていれば、あの時、もっと詳しく聞けたのにと悔やまれる。


 犬塚が日活を去った後、田崎は仕方がないので、辻吉朗の下で3年ほど働いた。しかし長老のもとでは、どうしても前から付いていた人が、一足先に監督になってしまう。


 田崎が映画監督としてデビューしたのは31歳の時。当時としては、決して早い方ではない。タイトルは「真如」(38年)。額田六福の原作を、自分で脚色している。フィルムが残っていないので、シナリオで判断するしかないが、時代劇の仇討ものである。


 敬愛する主人を討たれた実直な曾平太(沢村国太郎)は、主人の息子・源冶郎(原健作)と共に、仇討の旅を続ける。しかし追った相手はすでに病死していた。その妻・お節(常盤操子)は、息子・数馬(尾上菊太郎)に、相手に討たれてやることが、夫の罪業を清める手段だと諭す。


 沢村国太郎は、長門裕之と津川雅彦の父である。田崎は、この当時、沢村と連続して仕事をしている。「真如」で、純情可憐な庄屋の娘・お節を演じているのが深水藤子だ。



我々が2人を見られるのは、山中貞雄監督の快作「丹下左膳余話・百万両の壺」(35年)においてである。左膳(大河内伝次郎)の友人・柳生源三郎が沢村で、彼が通ってくる看板娘・お久が深水だ。山中は当時、日活京都に居て、田崎と同じ釜の飯を食べていた。


しかし田崎が監督になる寸前の37年、東宝の前身であるPCLに移籍する。山中と深水はその後も折に触れて会う機会があり、深水は山中を結婚の相手に決めていたという。山中は東京に去ったが、深水の仕事は順調で、日活京都の娘役を一手に引き受けていた。「真如」は、そんな沢村と深水がコンビを組んだ一作だった。


池袋の本屋で販売されていた「右門江戸姿」のポスター。「監督・田崎浩一」の名が読める。



 「東京国立美術館フィルムセンター」の7階展示室で、12月23日まで、「志村喬展」が催されている。名優の生誕110年を記念して企画されたイベントだ。入り口の辺りには、彼が出演した全作品のフィルモグラフィーが展示されている。


志村喬は、戦前から活躍した俳優だった。「姿三四郎」(43年)で黒澤明監督に請われて、東宝砧撮影所に来る前は、京都の日活太秦撮影所(後の大映太秦撮影所)で、時代劇に出演していた。マキノ雅弘監督によるミュージカル時代劇の傑作「鴛鴦歌合戦」(39年)では、数曲を歌い、達者な喉を披露している。


その当時の他の代表作としては、昭和15年の暮れに公開されたお正月映画「右門江戸姿」(40年)が挙げられるだろう。嵐寛寿郎の十八番シリーズ「右門捕物帖」の一本で、あばたの敬四郎役で出演。あわて者で虚勢を張るダメ与力を演じて大いに笑わせた。いわば三枚目の役どころだったのだ。この作品の監督名を、フィルモグラフィーで確認すれば、〝田崎浩一〟と記されている。


田崎監督と志村の二人は、「右門江戸姿」の他にも、「出世の氏神」(39年)、「豪傑誕生」(同年)、「関東剣豪陣」(41年)という計4作で、この頃、連続してコンビを組んでいる。この田崎浩一という監督が、私の母の従兄弟であった。より詳しく言えば、母の父の長姉の息子である。


田崎浩一は、終戦直後に39歳の若さで病死している。もちろん私は会ったこともない。しかし妻のゑつ夫人が、まだ太秦に住んでいた。自分の親戚に映画監督がいると聞いて、私は「ぜひ撮影所を見学したい」と頼み込んで、高校一年の最後の春休みに、一人旅を敢行した。


田崎家は〝大映通り〟と呼ばれる道路の真ん中あたりにあった。大映撮影所(現在は太秦中学校)のすぐそばである。私はゑつ夫人のことを、〝京都のおばちゃん〟と呼んでいた。生まれて初めての撮影所体験ができたのは、陽気で面倒見のいい、このおばちゃんのおかげである。


そのおばちゃんも、15年前に他界した。ところが、最近、おばちゃんの遺族から、小荷物が送られて来たのだ。「家を改造するので整理していたら、田崎浩一の遺品が出て来た」という。「自分たちが持っているより、映画関係者の雄ちゃんが持っていた方がええやろ」ともいう。小荷物を開けてみると、自作のスチール写真と、彼がシナリオを書き、実際に使用していた古ぼけた撮影台本が出て来た。自筆の書き込みもある。


その遺品のおかげで、田崎浩一のイメージが途端に具体性を帯びてきた。それまで遠い過去の人と思っていた人間像が、一気に浮かび上がってきたのである。




  わが映画の師匠である故・熊井啓監督から、こんな相談を受けた。「今、『自由への道』という杉原千畝(ちうね)を主人公にしたシナリオを書いている。映画の音楽を担当させる、いい作曲家はいないか?」

 

 

杉原千畝とは、第2次大戦が始まった頃、6000人のユダヤ人の命を救ったリトアニアの日本領事のことである。彼はナチスから迫害されていたユダヤ人を国外逃亡させるために、危険をも顧みず、日本への渡航ビザを発行した。「シンドラーのリスト」(94年)で描かれたオスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。

 


  「バルトークの民族音楽などを使いたいんだ」と、熊井監督は言う。バルトークとは、アメリカに逃れたハンガリー出身のユダヤ人作曲家。私は、「池辺晋一郎さんがいいですよ。どんな音楽でも器用にこなします」と推薦した。「主役は誰がいいと思うか?」とも聞かれた。「世界配給を狙うなら、渡辺謙しかいないんじゃないですか?」。「やはり、そうだろうな」と、熊井監督の意見も同じだった。しかし、スケールの大きさからか、予算が集まらず、その企画は、いつの間にか立ち消えになった。

 

  

その幻の企画が、ついに実現した。タイトルは「杉原千畝」。演じるのは唐沢寿明。彼を支える妻・幸子には小雪が扮する。映画を完成させたのは、「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男」(11年)の制作チームだった。実話に基づく第2次大戦下の映画という点では同じだ。企画が立ちあがったのが2012年。終戦70周年の今年12月の公開に向けて、プロジェクトは一気に動き始めた。

 

 

問題は、どこで撮影するか?だった。数々のロケハンの末、ポーランドで行うことが決定。「シンドラーのリスト」を始めとした米映画の多くがロケされており、優秀なスタッフが揃っていたからだ。それら日本、ポーランド、ハリウッドの混声スタッフを率いたのは、チェリン・グラック監督。父が米人、母が日系米人で、「太平洋の奇跡」の助監督を務めた。英語、日本語はもちろん、仏語も堪能で、外国語の台詞が主体となるこの映画では、日本映画とは思えないほどのリアリティをもたらしている。

 

 

特徴的なのは、満州国で情報収集をする前半生の杉原の姿が描かれていること。しかしクライマックスは何と言っても後半。ユダヤ人のビザにスタンプを押すシーンは感動的だ。この映画は、特に官僚の人に見てほしい。「前例がない」、「組織が大事」と繰り返すのが彼等の常套句。しかし、本当に民衆のために何ができるのかを考え、実践した、こんな先輩がいたのだ!


  それにしても、と思う。熊井啓が監督をしていたら、どんな「杉原千畝」を見せてくれていただろう?


老兄弟が着ているフィッシャーマンズセーター。温かそう。

 

 フィッシャーマンズセーターの価値は、実際に本物を着てみないと分からない。もともとアイルランドの漁師の仕事着だったもの。脱脂処理をしてない羊毛で編んであるので、重く厚い。最初は臭いがキツいが、水をはじく。つまり防寒だけでなく、防水処理も完璧なのだ。


  30年前に本場アイルランドに行った時、詩人の高橋睦郎さんから薦められたので買ってきた。どんな極寒の地でも、これ一枚を羽織るだけで温かいので、一度着ると止められない。ボロボロになっても、まだ補強して使っている。今年、アイルランドに留学した友人に、新品を頼んだのだが、ちゃんと買ってきてくれるのかしら。


 「ひつじ村の兄弟」は12月19日公開の映画。2人の兄弟が着ているフィッシャーマンズセーターを見ながら、始終そんなことを考えていた。しかし、このセーターを脱いだり着たりすることが、実はこの映画の伏線だったのだ(詳細はネタバレになるので言えないが…)。


映画の舞台は、同じ北極圏でも一字違いのアイスランド。辺境の村に、隣同士で住む弟グミー(シグルヅル・シゲルヨンソン)と兄キディー(テオドル・ユーリウソン)は、40年間、全く口を聞いたこともないほどの不仲だった。お互い羊の世話に生涯をかけているが、先祖代々受け継がれてきた優良種の羊を残そうと競っていた。ところが、キディーの羊がスクレイビー(BSE)に侵され、保健所は村の羊すべてを殺処分にしようとする。そこから兄弟の戦いと協力が始まった。


この映画は、今年の第68回カンヌ映画祭の「ある視点」部門で、グランプリを獲得した作品だ。黒沢清監督の「岸辺の旅」、河瀬直美監督の「あん」など、計19本の行く手を阻んだのが、この映画である。全く無名のアイスランド出身の監督が、長編わずか2本目で、世界最高峰の称号を手にしたわけだ。


その脚本、監督を担当したグリームル・ハゥコーナルソンの父は、環境庁の職員だという。「父が仕事で最も辛かったのは、感染症が流行した際、家畜を殺処分するかどうかを決める時だったそうです。そんな酪農に携わった父から、この映画の発想を得ました」と語る。


アイスランドは、人口25万人程度に対し、羊の数は100万頭という羊天国の国。冒頭、フワフワモワモワした可愛い羊たちの登場シーンを見れば、牧歌的な映画かと思う。ところが日本でも牛や豚に発生したBSE感染を扱ったサスペンス映画、あるいは酪農家たちの苦闘を描いたリアリズム映画に発展する。と思うや、最後にはシンプルな寓話性を帯びてくる。老兄弟の顔は、しだいに「聖書」に登場するノアやヨハネなど、伝説のヒーローのようにも見えてくる。


なるほど、北欧映画の真骨頂とは、まさにこれなのだ。つまりスウェーデンの巨匠・イングマル・ベルイマン監作品に通底するような伝説、神話の世界に浸ることが、未知の国と監督を味わう醍醐味なのだろう。


塩田町西岡家住宅で撮影中の東根作寿英(左)と一人おいて佐藤允(1995年撮影筆者)


 1995年8月29日。猛暑のなか、塩田町の西岡家住宅を訪れた。「人間の翼 最後のキャッチボール」(96年)のロケ現場を取材するためだ。



 飲み友達である神埼町出身の佐藤允が父親役、馬淵晴子が母親役、新人の東根作寿英が主人公の石丸進一を演じていた。撮影は家庭での食事シーンで、允さんは、「葉隠武士のような気持ちで、頑固親父を演じてますよ」と、和やかななかにも、厳しい気骨を見せていた。


実際の石丸家である「石丸理髪店」は、佐賀市水ケ江町片田江にあった。進一は大正11年、この家に生まれている。佐賀商業では野球部のエースとして活躍。父親の借金を返そうと、卒業後は、兄・藤吉が籍を置いていた名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)へ入団。ノーヒットノーランなど、記録を塗り替える名投手となった。日大政治学科(夜間)にも通っていたが、学徒出陣により昭和19年、土浦海軍航空隊に入隊。翌年、特攻隊に志願し、鹿児島の鹿屋基地から出撃して、還らぬ人となった。終戦は、それからわずか3か月後のことだった。


当時、報道班員として取材していた作家の山岡壮八は、出撃寸前の進一を目撃している。本田耕一相手にキャッチボールを始めたのだ。「彼が一球投じる毎に本田少尉の『ストライク』という声が青空を突きぬけるようにあたりにひびく」と書いている。「ボール」という声は一度もなかった。10球を投げ終わった進一は山岡に笑顔を見せ、グローブを校舎に投げ込んで、飛行場に向かっていったという。


この戦陣に散った進一の生涯を描いた小説が、牛島秀彦原作の「消えた春」(河出文庫)。この書を読んで感激したもと東映の岡本明久監督が脚本化し、映画化を熱望した。製作費は3億円。進一の兄の息子である石丸剛氏が1億2000万円を出資して、残りの1億8000万円は東京の民間会社が出資することになっていた。ところが、株主総会で反対されたことを理由に、ギリギリで出資を断ってきた。


その肩代わりをする形になったのが、「地球市民の会」の故・古賀武夫会長だった。又従兄弟に当たる原作者と岡本監督が、古賀会長の家を訪れ、「何とか頼む」と泣きついたのだ。古賀会長は映画のことなど全く分からぬ素人だったが、男気を出して引き受けた。


彼は当時、「ゼロ戦ではなくゼロ銭」と苦笑していたが、95年6月6日、金立町の麦刈りのシーンから撮影が始まった時は、資金のめどもなく、見切り発車の状態だった。いわば資金を集めながらの自転車操業。ここから古賀会長の戦いが始まる。彼は親戚や友人に資金援助をお願いするファックスを送りまくった。


「あの時は、友人をなくすだろうなと思いました」と妻の洋子さん。「私の父は、何も言わない人でしたが、あの時だけは、『子供を連れて、実家に帰ってこい』と言われました」と思い出す。ところが予想に反して、100万、200万円もの資金が、次々に口座に振り込まれてきたのは、古賀会長の人徳の賜物だったのだろう。「人情の温かさを実感した」と彼は語っていた。


映画製作の裏側では、まさにもう一つの特攻隊のような話が進んでいたのである。


※「戦中佐賀の映画秘話」シリーズは今回で終了です。