西村雄一郎のブログ 傑作コメディー「おしゃれ泥棒」のポスター

  私がパリに居た頃、映画評論家の大先輩・南俊子さんから電話がかかってきた。「西村くん、今、私パリよ」と言う。「どこのホテルに泊まってるんですか?」と尋ねたら、「ホテル・リッツよ」と誇らしげに答えた。ホテル・リッツなんか、めったに行けるものではない。そこで、私は、南さんに会いに行った。


  リッツは、映画ファンにとっては、憧れの超高級ホテルである。なぜなら、オードリー・ヘップバーンが主演した2本の名作で登場したからだ。「昼下りの情事」(57年)では、プレイボーイの大金持ちフラナガン氏が、「おしゃれ泥棒」(66年)では、贋作探偵のピーター・オトゥールが宿泊した。ここが舞台といっていいほど、全編にわたって何度も出てくる。

 

  ちなみに、前者のフラナガン氏が持っていた旅行カバンがルイ・ヴィトン。この映画で「お金持ちは、あんなバッグを持つんだ」と、日本人が猫も杓子も一気に買い始めるきっかけを作ったのが、この映画だった。

  

  ところで、先日、NHKBSで、「おしゃれ泥棒」が放映された。久しぶりに見たら、シナリオの良くできた傑作コメディだと思った。劇中、泥棒に入って傷ついたピーター・オトゥールをヘップバーンが車で送るシーンがある。「どこまで送るの?」と聞くと、オトゥールは「ホテル・リッツ」と言う。ヘップバーンは「何?」と驚く。そこは、『コソ泥のくせに、そんな最高級ホテルに泊まって!』というニュアンスが込められたシーンなのである。


ところが、映画でははっきり「ホテル・リッツ」と言っているのに、テレビでは「ホテルR」と字幕に出るだけなのだ。これでは、そのニュアンスが伝わらない。以前NHKで放映された旧版の同じシーンを見直したら、そこでは、ただ単に「高級ホテル」とだけ訳されていた。


私は、その理由を字幕翻訳家に尋ねてみた。すると、「それは、NHKは個人名や企業名を出してはいけないからです。『ホテルR』とその翻訳家が訳していたのは、最後の抵抗だったんでしょうね」と笑った。またベンツやフォルクスワーゲンなどの車名もダメだそうで、翻訳者の泣き所だという。ただし、民放の放映や映画館で公開される場合はこの限りではなく、ちゃんと「ホテル・リッツ」と訳せるそうだ。


NHKで洋画を見る時は、そのへんの事情を知っておかないと、作品のニュアンスがよく分からないので、ご注意を。