富士山の噴火による被害救済を、江戸に願い出ようとする名主たちの一行のその後も気になるところですが、これからの物語の展開のために資料収集をします。

後のことも考えずに勢いで書き始めたので、ここらでちょっと立ち止まってみたいと思います。

再開した際には、またよろしくお願いいたします。

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【5】

健治は再び健治郎の夢を見ていた。


代官たちや惣組(足軽)に従って街道を走っていた。

息を切らせてようやく国府津村までたどりつくと、

街道横の火山灰・砂に覆われた田の中に、

おびただしい人数の村人が集っているのが見えた。


千人以上はいるようだ。

11月22日の富士山の噴火後、年が明けて1月8日の朝だった。

リーダーとおぼしき農民たちに囲まれるようにして、

各村の名主たちが彼らを説得していた。

「ともかく、ここはわしらに任せて、各々自分の村に戻ってもらいたい」

との名主たちが説得するが村人たちは収まらない。


「名主様、わしら、もう食べるもんも尽きた、このままじゃあもう飢え死だべ?」

「だけんど、お役所に言っても、埒はあかねえだ、お江戸に行ってお願えするしかねえ」


怒号が飛び交っていた。


健次郎には村人たちの心中が痛いほどわかった。

米の収穫を終えていたのが幸いだったが。


家ごと砂に埋もれてしまった村の者もいる。

そして、麦はもちろん、他の作物は全滅である。


水を得ることでさえ、容易ではない日々なのだ。

 

暮れの12月10日 

大勘定奉行の柳田九左衛門は、領内を検分した際、

「領内に小屋を掛け(仮設避難所)、あるいは小田原に引き取り」

「牛馬に至るまで餓死することのないように」するので

「各自、しっかり仕事に精を出してほしい」

「田畑の砂は、田畑の中に砂置き場を作るほかない、各村が自力で取り組んでほしい」

と告げたのだった。


この柳田九左衛門の言葉が、農民たちを怒らせてしまった。


こんな非道な話はない、食べる物も十分支給されていないのに、

砂を除けるには、一つの村だけでも、延べ10万人から20万人の人足を必要とする作業になる。


そんな力が村にあるはずがない。

田畑が砂に埋もれたままで、これからどうやって百姓をしていけばよいのだ。

どうやって食料を作ればよいのだ。

米が採れなければ、年貢も納められない。

武士だって困ることなのだ。


しかし、柳田の立場も分かる。

柳田は藩の財政状況が分かっている大勘定奉行である。

4年前の大地震で、小田原のお城さえ、倒壊し焼失したばかりだ。

小田原藩に、今回の災害の復旧に当たる財政的な余力があるはずもない。

まさに為す術がない状態なのである。


村々の窮状も、藩の台所が苦しいことも両方わかっている名主たちは、
だからこそ、幕府に救済を求めようとしたのだった。

 

しかし、対応した郡奉行の大津善左衛門は、

幕府へのお願いは藩がするので、江戸への出訴は待つようにと説得していた。


農民たちが幕府へ直接、訴えるなど、藩の面目は丸つぶれとなる。

直訴などとんでもないことである。

このやり取りが、1月4日からずっと続けられていた。


藩の方では、小田原から江戸にお伺いのために出かけた役人が

戻るので、それまで待つように説得していたのである。


名主たちがいつまでも足止めされているので、

農民たちは、もう待っていられないと、

度支度をして江戸に向けて出発するところであった。

名主たちは、数千人の農民が江戸に向かっては、大変なことになると考え、抑えていたところだ。


その時、ようやく駆けつけた代官たちに気がついた農民たちは

 

名主たちに言っていた矛先を、健治郎たち一行に向けてきた。

健治郎は、代官につかみかからんばかりの農民の前に立ちふさがって、彼らを落ち着かせるように努めた。


「まあ、待て!待て!お主らの気持ちもよくわかった」

この場を収めるように、上司から指示されてきた代官たちは必死に説得した。

「お主らの窮状は早速、江戸にお伝えする。また、飢えている者を村ごとに書き出せば、男に米5合、女に2合ずつ支給するから10日まで待つように」

しかし、

「そんな約束、信じられるけ、お山が焼けてからもうすぐふた月になる、これまでお侍様はなんもしてくれねえ」

「そうさそうさ、お江戸にお願えするしかねえずら!」

百姓たちの迫力に、代官たちは仕方なく、

「わかった、わかった、お主たちの言い分も、よくわかる。名主たちが江戸に向かうのはやむを得ない。これは止めないのでその代わり、他の者どもは村に戻って、名主たちを待つように」

と、その場を収めた。

ギリギリの妥協策だった。

名主たちだけなら、後は、上役たちがなんとかしてくれる。

ともかく一揆や多勢での強訴になるのだけは抑えるようにとの指示を受けていたのだ。

名主たちは、百姓たちの悲痛な願いを届けに江戸に向かった。

百姓たちが三々五々、戻っていくのを最後まで見届けて、代官と健治郎一行は小田原への帰路についた。

 

健治郎たちが案内役となった幕府からの検使役人は噴火3日後の11月25日には小田原に到着し、

晦日まで滞在し被災状況調査を行った。


それに比べて藩の対応は遅すぎた。


その要因として、藩主が江戸の重職にあり、藩主が江戸にいる間は

実質的に何事も江戸屋敷にお伺いを立てなければ決められないという状況にあったこと。

小田原と江戸の距離の近さもそうしたシステムを生じてしまう一因となっていたようだ。


一方で、藩主が幕府の要職にあったことは、領民の意識の中で幕府を近くに感じさせていたのである。

何かあった時に、直接江戸に向かおうとする農民の行動はこうしたことも背景にあった。

他の藩では、ちょっとあり得ないことであった。

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【4】

その後も、余震は続いていた。

テレビでは、福島第1原子力発電所の3号機、4号機に向けて自衛隊のヘリが水を落とす作戦を行っていた。

しかし、もどかしいくらいに、水は命中しない。

TVの解説員が、今日が山場だという、この作戦が効果を上げなければ、いったいどういう事態になるのだろうか。

健治は想像して、背筋が冷たくなった。



健治はこの年に30歳になっていた。

原発事故、放射能汚染は、空間的にも時間的にもその広がりは、他の災害や事故とは異質のものだった。

見えない危険が、今も静かに大地に堆積し続けていると考えたとき、将来へ暗い影が気持ちを沈ませていた。



震災・原発事故から6ヶ月目

9月11日


健治は美樹とともに新宿でのデモの中にいた。

「原発をなくせ~」「原発いらない」

持ち寄ったドラムなどを叩きながら、各自が思い思いの出で立ちで叫び続けた。

ネットでデモのことを知った数千人が参加していた。

暑さの中でも、着ぐるみを着て歩いている人も、親子連れもいた。

しかし、デモの列を歩道の歩行者から見えないように、あたかも壁を作るように警察官は並んでいた。

デモ2
警察官は原発をどう思っているのだろうか。

何を考えながらこの警備に参加しているのだろうか。

そんなことを考えていると、 前を歩いていたピエロの仮装をした参加者の男女が、隊列から外れて、歩道に移った。

すかさず数人の警官が取り押さえにかかった。

「トイレにいきたいだけなのに、なんで行かせてもらえないの!」

と女性が叫ぶ。

警察官がやや躊躇していると、私服刑事らしき人物が飛んできて、

「本当に、トイレなのか。デモを歩道に広げちゃだめだ」

と怒鳴った。

女性は放してもらえたが、 男性のほうは警察官に無理やり車に押し込められ連れ去られてしまった。

この日は12人が逮捕されたそうである。

何で、こんなひどいことが公然と行われるのだろうか健治はあっけにとられた。


健治は軽い目眩を感じていた。

9月とは言え、猛烈な暑さだった。

健治は隊列から抜けようとした。

警官に押しとどめられたが、

「気分が悪くなったので帰ります」

と言ったら通してくれた。

「健治~ どうしたの?大丈夫?」

後ろから美樹の声が聞こえていた。

デモ1
【3】

ガタガタという音と、揺れる体で目が覚めた「また地震か・・・」ぼんやりとした意識の中で、重い瞼を持ち上げた。

「大丈夫か健治郎」

「兄者、しっかり」

父と弟が覗き込んでいた。

降砂は収まっているようだった。

「ああ大丈夫だ、疲れて眠りこんでいたようだ、それより、父上も作平もどうしてここへ?」

父と弟の作平は、健次郎が酒匂川の流域の村の被害状況を調べに、朝早く家を出たきり戻らないので心配して捜しに来たのだった。


「それにしても、この砂は、たいそうなことだ」

「おそらく山の近くはもっとたいへんなことになっておるのに違いない」

「これだけ砂に埋もれてしまっては、田畑は当分手がつけられないだろう」

3人とも暗澹たる気持ちになっていた。


健治郎の父の泡右衛門は、若いころ足軽として5石2人扶持で召し抱えられた。

藩主の大久保家は、家康を支える重臣の大久保忠世(ただよ)がかつて小田原を治めていたのだが、その息子の大久保忠隣(ただちか)の代に同じく2巨頭の重臣であったライバル本田正信との政争に敗れ失脚し、お家は改易となってしまった。

だが、因果は巡る。

大久保忠隣を失脚させた本田家も次の代で失敗をとがめられ改易となる。

その一方、大久保家は忠隣の孫の代になって復活した。

まず、忠隣の孫の忠職(ただもと)は、美濃国(岐阜県)5万石の大名として返り咲き、その後、播磨国(兵庫県)明石7万石、肥前国(佐賀県)唐津8万3千石と領地替えの度に加増されていった。

その子、忠朝(ただとも)は老中となり、下総国(千葉県)佐倉9万3千石さらに、貞享3年(1686)年1月、小田原藩10万3千石の城主として小田原の地に戻って来たのだった。


当然、石高に見合う家臣団の陣容を整えることが求められる時代だ。

加増の度にその土地土地で新規に家臣が召し抱えられたのである。

お取りつぶしになった藩の家臣で浪人となっていた武士の他、当時の家臣の親類・縁者が召し抱えられた。

健冶郎の父、泡右衛門が召抱えられたのも、千葉県佐倉の地であった。

ところで、健治郎の妹は不思議な力を持っていた。
今で言う霊能力者というところであろうか。

宝永2年(1705年)初夏、妹が急病の際に、
福泉寺で加持祈祷をしていただいていたところ、
妹がにわかに立ちあがって
福泉寺に隣接している稲荷大明神が乗り移り、
「社(やしろ)が荒れているから再興せよ」
との神託を告げた。

藩主の大久保忠増(ただます)がこのことを耳にして急ぎ再興したところ、さらに8月に神官に神託があって、

「太子に本年中に吉事があるであろう」

と告げたという。

そしてその通り、9月には城主大久保忠増は、
老中執政職に補せられた。

藩主は大いに喜び、妹を特別な待遇とし、御用人の関権大夫(240石)の組の所属として扶持3人分を支給してくださることとなり、弟の作平も、お先筒頭の松山様の組に召し抱えられた。

父は健治郎に跡式(家督)を継がせ隠居していた。

当時の下級武士は、俸禄だけではとても生活が苦しく、商人からの借金、内職等でなんとか生活をつないでいる者がほとんどであった。

借金に苦しむ下級武士の中には武士を廃業し、家族がバラバラになって奉公に出たり、家族を身売りに出す者までいた。

そうした中で、九曾家は妹の不思議な力のお陰で、周囲からも一目置かれ、下級武士とはいえ、家禄の上で、少しは暮らしに余裕が出来ていたのである。


さて、健治郎たちが見回りをしていた府川村から小田原までは約5キロであったが、砂に埋もれた道を歩くのはかなりの難儀だ。

なにより風景が一変しているのだから・・・

あたかも、一面、厚く降り積もった雪におおわれているように見える。

しかし、その雪は白ではなく、灰色がかっているのだ。

雪ならば、やがて雪解けを迎える。

しかし、この堆積物は除かない限り、いつまでもそこにあり続ける。

足元を見ればわかるが、灰、砂粒、小さい軽石が混ざっている。

草鞋と足の間に潜り込んだ軽石の粒は、健治郎たちの足の裏を突き刺した。

一行は度々立ち止り、草鞋から石を払い落さねばならなかった。

夕暮れが迫っているからか、降砂、火山灰のためか、一層薄暗い中、3人は、道に迷わないように気をつけながらようやく小田原城下にたどり着いた。

長屋に戻ると、組頭からの新たな仕事が届いていた。

妹の話では、江戸の幕府から市野新八郎様他9名の検使役人が富士山噴火の被害調査のため今夕小田原に到着したので、 明朝から案内役に加わってほしいとのことであった。

健治郎は、明日からのお役目に備えて早めに眠ることにした。

【註】 扶持1人分  一日あたり玄米5合支給

大稲荷神社 
泡右衛門娘の記録の残る大稲荷神社 

田中稲荷 
藩主 大久保忠増が再建した田中稲荷
大稲荷神社の一角にある

神さまのおつかい
神様のおつかい


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新宿から抜ける道路は大渋滞だった。

30メ―トル進むのに1時間はかかっただろう。

歩いて帰宅するのであろう大勢のサラリ-マンやOLが歩道を黙々と歩いて車を追い越していく。

会社からの支給品であろうか、ヘルメット姿もチラホラ見られた。


コンビニでは、食料や飲み物を買おうとする会社員が店の外まで行列をなしていた。

ようやく山の手通りまでたどりついたので、その後は住宅地の路地を抜けて4時間後にアパ-ト横の駐車場に着いた。

ワンル-ムのアパ-トで二人の夕食となったカップ麺をすすりながら、美樹は、地震で揺れた高層ビル32階の恐怖を語りだした。

まるで大きな船の底にいるようにゆっくりと揺れ、窓の外を見ると、隣のビルがグニャグニャ波打っているので、このビルが倒壊するかもしれないと恐怖を感じたという。

TVでは、東北の津波の様子が映し出されていた。

ヘリコプタ―からの映像だろうか、町や田畑が飲み込まれていく。

美樹は静岡の実家を心配してしきりに、携帯で連絡を取ろうとするが、全くつながらない。

「東海地方は大丈夫だと思うよ。今日は、もう休んだほうがいい。」

と言ってはみたものの、自分だって気持が昂っていて眠れそうになかった。

「そうだね、先にバスを使わせてもらおうかな」

と美樹は言った。

バスル-ムからは美樹がシャワ-を使う音が聞こえてきた。

それからの時間はすごくもどかしく感じられた。

「今日はホントに怖かったんだから・・・」

といながら、狭いベッドの中で美樹は僕の胸に顔を埋めた。

それからも余震は度々襲ってきた。

華奢な美樹の身体を抱きしめながら、

どんなことがあっても、僕は美樹を守ろうと思った。



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美樹を迎えに行く車は水道道路を新宿に向かっていた。

思ったより道路は空いる。このまま順調なら15分あれば美樹の待つ新宿に着くだろう。


だが、新宿方面から来る車はかなり混んきており、反対車線は新宿に近づくにつれ渋滞となっていた。



それにしてもあれはすごい地震だった。

3月11日 14時半を回っていた。


為替相場が動き出すにはまだ早い時間だった様に思う。


欧州タイムに入れば、収束してきたチャ-トがどちらかに跳ねる可能性が高かった。


ぼんやり画面のチャ-トを眺めていると、椅子に掛けた尻が小刻みに揺れた。


「地震が来たな」と思っているうちに、横揺れが激しくなった。


「どうせいつものようにすぐに収まるだろう」という考えは甘かった。



すぐに収まるはずの揺れはますます大きくなり、


「ついに東京直下地震が来てしまったのか」と動揺した。


あわてててPCのモニタ-とテレビを床に下ろして寝かせた。


窓の外の電線が波を打っている。


立ち上がってドアを開けてから、ガタガタ揺れる本棚も手で押さえた。


美樹から誕生日にプレゼントされた猫の置物が落ちて床に転がる。


その時、何か他に落ちてきたものが頭に当たったらしく、


側頭部に衝撃を受けたところまでは覚えている。


そのまま意識が遠くなり、あの夢を見たようだ。



健治は若き専業トレ-ダ-だった。


自己保身しか念頭にない上司とぶつかった挙句


勢いで退職願を叩きつけ自由の身になったのだ。



今の時代、定職を投げ捨てるのは危険極まりない行動だった。


数年前から始めたFXトレ-ド。


はじめのうちは蓄えを相場の肥やしとしてすべて費やしてしまったが、


最近は自分なりに利益を出せるようになってきたところだ。


仕事を失ってもなんとか食べて行けるだけは稼げるように思えた。



しかし、このままの生活では、美樹といつ結婚できるか見通しは全くなかった。


会社勤めの美樹の給料を当てにする生活を送りたくはない。



それにしても、あの夢は・・・・


あのあと健冶郎はどうなったのだろうか、



地震で揺れている中で見たので、あのような夢になったのだろうと思った。



夢の続きも見たい気がしていた。


突然、後ろからクラクションを鳴らされ急かされた。


交差点の信号待ちで、ぼんやり考えていたので、


信号が青に変わったのに気付かなかったのだ。



あたりも暗くなってきた。


すでに夕暮れである。



新宿西口に着くと、歩道は人であふれかえっていた。


はたしてこんな中で美樹は見つかるだろうか。



京王デパ-トの横の歩道に沿ってゆっくりと車を進めた。


心配はすぐに解消した。見慣れた美樹の姿が手を振っていた。


美樹のところだけスポットライトの光があたっているように明るく思えた。



「ごめんね、バスも来ないし、タクシ-待ちも長蛇の列だし、今日はもう帰れないから泊めてね」


車に乗りこんで来た美樹が言った。


「大歓迎さ」


もちろん拒む理由があるはずない。


美樹が泊まっていくことは、たまにしかなかったのだから。



時間を気にせずに、今夜は美樹と過ごせると思ったとたんに、


体の一部が熱くなってくるのが自分でもわかった。

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【1】


黒い靄(もや)がかかったような薄暗い世界だった。


深い眠りから醒めたときのような意識の混濁、


側頭部に鈍痛があった。


目をこすって周囲を見回すと、小屋の中だった。


照明を求めたが、それらしきものは全く見当たらなかった。


地の底から、湧きあがってくる重低音。


何の音だろう。


さらに、夕立であろうか、パラパラと屋根に当たる音もしている。


健冶郎はヨロヨロと立ち上がり、少しでも明るい方へと歩を進めた。


そこだけがぼんやりと明かりが射しているようだった。


「ここが出入り口か・・・」


そう思いながら外に出ようと思った。


軒の境から先の地面は、上に傾斜しており、3尺(30センチ)ほど高くなっていた。


目を凝らして、その先の様子を窺った。


夜明け前か、夕暮れのような薄暗い世界が広がっていた。


見渡す限りの砂原が続いているようだった。


遠くのほうにかすかに山影があるようにも思えるが


気のせいかもしれない。


近くに家は見当たらなかった。



砂と灰が混じり堆積してる中に一歩踏み出すと、


「シャリ」という音とともに、灰のような埃が舞いあがった。


急にまた、パラパラパラという音が強くなり何かが降ってきた。


霰(あられ)か?雹(ひょう)だろうか?


手の平を上に向けて、前に出し、空から落下してくる物を受けて確かめようとした。


「痛!」


それは突き刺すような痛みだった。


手のひらに当たって跳ね、足元の砂の中の一粒となった。


「危なくて、このまま外を歩くわけにはいかないな」

小屋の中に戻り、農具らしき物に囲まれた土間にへたりこんだ。


「それにしても俺はなんでこんなところにいるのだろう」


「悪夢を見ているのだろうか」


どうも、状況がよくわからない。


きっと寝ぼけているのだろうと思った。



状況を整理しようと、まず自分の名前から思い出そうとした。


「え~と俺の名前は・・・なんだっけ」


どこからか、誰かが「けんじろ~」と呼んだ気がした。


「そうだった、俺は九曾健冶郎」


20歳、小田原藩の中間頭(ちゅうげんかしら)の一人だった。


富士の山焼けによる村の降砂被害の状況を検分してくるように組頭から仰せつかったのだ。


途中で降砂が強まり、砂粒も大きくなってきたので、


田の近くの小屋に逃げ込んだあと、何かが頭に当たったところまで思い出した。


そのまま気を失ってしまったに違いなかった。


これからどうしようか、


「帰宅するにしても、降砂が収まってくるのを待つしかない。」


そんなことを考えていると、再び地鳴りが大きくなり、雷鳴が鳴り響いた、


地が大きく揺れ動く。


自分の周囲がグルグル回りだし、猛烈な眠気が襲ってきた。



【2】

聞き慣れた携帯のけたたましい呼び出し音で目が覚めた


椅子に座ったままいつの間にか眠りこんでいたようだ。


ぼんやりした意識の中で携帯に手を伸ばした。


「もしもし健治!ちょっと頼みたいんだけど・・・」


聞きなれた美樹の声だった。


「今、新宿なんだけど、地震で電車がどれも止まっちゃって家に帰れそうにないの、今日、健治のアパ-トに泊めてくれる?
車で迎えに来て欲しいんだ!」


そのとき、また揺れが来た。

今度は、はっきりと目が覚めた。


「あ!また余震だ、もう怖くて。。早く迎えに来てほしい。京王デパ-トの横の歩道で待ってるから・・・いいよね?」


「わかった、すぐ行く。」


車を走らせながら、健治はさっきまで見ていた夢を思い出していた。(続く)


【註】 
1703年(元禄13年)、の大地震は関東8ヶ国で死者20万人以上を出したと言われる歴史上の大地震だった。

その4年後、1707年(宝永4年)11月23日から富士山の大噴火が起こっている。この噴火で富士山の側面に大きな火口が出現し、富士山は姿を変えてしまった。

ふもとの須走地区では、3メ-トルを超える砂礫、灰が降り積もり、小田原や横浜港南区でも約30センチの砂・灰が降り積もったとの記録がある。(小田原市史より)


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