星に願いを!
AKB48の曲「365日の紙飛行機」にこういう一節がある。
🎵星はいくつ見えるか、何も見えない夜か。元気が出ないそんな時は誰かに話そう🎵
星が何も見えないことで元気が出ないという気持ちは痛いほどわかる。
僕も毎晩星を見る。夜だけではない。朝5時に起きて夜明け前の夜空の星も欠かさず見る。星座が好きなのではない!40年前に亡くなった母と話をするために。

  昭和58年2月、母はわずか53歳で亡くなった。生まれた時から「心臓弁膜症」。心臓の弁の一つがない「弁欠損」。それでも若い頃はそれなりに元気で、結婚して三人の男の子も産んだ!後年母の担当医も三人の子供を産んだこと自体大変なことであったと言っていた。しかし、私が中学に上がる頃からさすがに体調が不安定となり、次第に入退院を繰り返すようになった。中学校の入学式の時も入院中で、祖母が代わりに式に出席してくれた。
  その後は入退院の繰り返しが続くが、僕の記憶では家の居間に座って1日テレビを見ているような小康状態が長かったように思う。
   そんな母は、私がNHKアナウンサーに採用された時の喜びようは大変なものだった!初任地が北海道室蘭と決まり、新幹線で京都駅を出る時母は、無理を押して見送りに来たが、ひかり号が動き始めたら電車に合わせて走り始めたのは驚いた。多分母としては、体のこともあり、もう二度と会えないと思ったに違いない!あの時のホームの母の姿は決して忘れない。
それでも母は頑張った。室蘭にも、次の任地の山形で長女櫻子が誕生した時のお宮参りにも父に連れられて来た!
そうした旅の疲れが出たのか、その後再び入院することが多くなった。
そしてついに昭和58年2月17日に帰らぬ人となった。私は研修で東京世田谷の研修所に泊まり込みの最中。朝早く研修寮の寮長から知らされてすぐに東京駅に向かったが、タクシーの中でも、その後の新幹線でも涙が止まらなかった!享年53歳。あまりにも早い死であった。その2年後私が東京アナウンス室に異動になり、始めは報道リポーターとして、その後キャスターとして「活躍」するのを見ることなく逝ってしまった母。
母が亡くなって40年近く。数年前33回忌も済ませ、母はもはや10万億土の彼方に行ってしまったが、私は母が「星」になったと固く信じている。
毎日夜空を見る。一番明るいのが宵の明星(金星)二番目に明るい星が母の星。というように決めた!
毎日毎朝母と会話する。少し願い事もする。さあ今夜も母と話そう!