「私は未だ二ノ宮に会った事はありません。ただ調べれば調べるほど抜け目ない男という印象が強くなります」

 三峰で一之宮の存在は神にも等しい。幾ら長年病床にあるとは言えその一之宮を差し置いて実権を握って見せた二ノ宮を軽視する事は難しい。決して抜け目がないだけの男ではないのだ。同じことを留鳥も感じたようだ。

「一之宮が余りにもずば抜けているせいでしょうか、二ノ宮の実力を正当に評価しているのは私の知る限りでは天童だけのように思います」

 そう言い切った留鳥の脳裏には恐らく秋穂がいる。

「茜だけじゃない、あたしも二ノ宮には直接会った事はほとんどないんだ。若い頃に一之宮に紹介されたけどね。でもあんたがそこまで警戒するとはちょっと意外だよ」

「石猿が今も親衛隊長でいる理由はなんだと思います?」

「なるほどね。情報が極端に少ないのは何かあるとは思ってたけど」

 石猿は意図的に動いている、そう留鳥は言いたいのだ。小さき者達のお喋りを警戒している。逆に考えれば流石の石猿も聞き取れてはいない。

「どうやらあたしらの優位も時間の問題のようだね」

 ため息混じりに叔母は言うが、いずれそうなることを想定しての武闘派宣言だったはずだ。

「叔母さんとしては心配を減らしたいのも無理はないですね」

 茜の眼が不気味に光った。ならば母親としてはどうなのだとつい噛み付きたくなる、

「尤もその心配も無用に終わりそうです。護鬼さえ呼び出せれば」

 留鳥よりも早く叔母の声が響いた。

「全くあんたには驚かされてばかりだね。護鬼のことをあんたに話した覚えはないんだけど」

 草壁と留鳥の二人は揃って首を横に振った。茜だろうが誰だろうが鬼について話すはずもない。

「護鬼のことなら私が一番詳しいかも知れません。恭介の守護者でもありますから」

「どう言うことだい?」

「護鬼は消えた智鬼を探して彷徨ってるんです。そして恭介にその手掛かりを見つけたと聞いた覚えがあります」

「智鬼と言うのは?」

「護鬼の兄弟のようなもので、昔ある出来事から人間界に消えたそうです」

「古城さんは伸だけが息子を見つけられると言ってたけど、まさか護鬼を探すために連れ出したなんてね、そんなことはいま初めて聞いたよ」

「その後はどうするつもりだったのかまでは分かりませんけど」

「つまり護鬼がいる限り妖の脅威は避けられると、あんたはそう言いたい訳だね。確かに留鳥と互角とは聞いてるけど」

 二人とも大事なことを忘れてないか。護鬼は父恭介を追ってるんであって、決して草壁ではない。

「あんた護鬼と戦ったのかい?」

 留鳥が引き分けたことまでは茜も知らなかったようだ。驚いた様子で振り返る。

「単なる手合わせです」

 留鳥の方も何故そんなに大騒ぎするのかといった様子で、逆に戸惑いの表情だ。

「護鬼は滅多に現れないばかりか、例え相手が怪異でも手出しはしない。本気で闘う相手じゃないそうだ」

 護鬼が留鳥に興味を持ったようだと叔母が告げると、再び驚いた顔を向ける。そして溜息交じりに呆れたように言った。

「案外、護鬼は簡単に呼び出せるかもしれませんね」

 そうだ、あの時留鳥がいたから護鬼は現れたのだ。草壁のせいではない。それを護衛代わりにしようなど一体どう言う発想なのか。

 そもそも茜の言うように草壁に関係しているのだとしたら、何故赤熊に襲われた時に護鬼は現れなかったのだ。

 いや、必ずしもそうとも言い切れない。赤熊のお陰で草壁の妖に対する能力は一気に開花したのは事実なのだ。もしそれが護鬼の狙いだったとしたら……

「あの時まで鬼と遭遇したことすらないのですが」

 控えめに留鳥が反論を試みる。どうもこの二人を相手にしては流石の留鳥も分が悪そうだ。正式には紹介もしていないが留鳥のことだ、何かを察したのかも知れない。

「さてこうなると問題はどうやって護鬼を呼び出すかだね。興味はあるとしても留鳥の言う通り確かに根拠が弱い」

「小太刀」

 いきなり茜が言う。全員が振り返るが、言った本人が一番驚いた様子だった。そして何やら納得したように留鳥が頷くと小声で耳打ちした。

「小太刀は師匠の唯一の教えでした」

「君の師匠って?」

「前世での、師匠です」

 どうやら留鳥の前世の記憶はかなり戻ったらしい。それによると留鳥の前世はアヤメと言い、ムフウに小太刀を習ったそうだ。

 そのムフウとの間に子供を授かったが出産間際に野盗の襲撃に遭い流産したと言う。失意のアヤメは心を病み気がついた時には、妹のキキョウとともに亡き父の墓前にいた。

「驚いたな。猿渡伝説とそっくりだ」

 更に二ノ宮を調べると言って茜はそそくさと出かけて行った。その様子はまるで何かを隠すかのようだった。

 茜に変わって桔梗が賑やかに戻ってくる。行きは割と自由だろうが、帰りは跳ね回る大型犬二頭にかなり手を焼くことになる。それがまた桔梗にとってはいい運動になるらしい。

 さて猿渡と留鳥の記憶だが、大凡は似ているものの違うところもある。ムフウが教えたのは小太刀ではなく体術に長けたサヨに剣を教えたのだ。アヤメは元々剣術道場師範の娘で素養はあった。

「ならばサヨについてはどうだ? 何か覚えているかい」

「サヨという名には聞き覚えがないのですが、あの二つ岩は思い出しました。何代も前に野盗を避けるため大岩を削って作ったと村の長老が言っていました。例の奉納した刀はムフウが生まれてくる子供のために何日も篭って鍛え上げたものです」

 猿渡では村長の息子が奉納した刀を盗み出し、しかも野盗を手引きしたために村は滅び、生まれたばかりのアヤメの子供は殺されたとなっているが、子供は天宝と名付けられ生き残った村人に丁寧に祀られている。

「その刀はいま響子の手にある訳だけど、そうすると響子は天宝の生まれ変わりで君の娘ってことになるのかな」

 留鳥の娘というのはどうにもしっくりこないのを無理矢理押し殺して冗談交じりに言い切った。

 これを耳聡い桔梗が聞き逃すはずもない。

「えっ、何、留鳥、子供がいるの?」

「馬鹿だね、しっかり者の留鳥から見たら響子なんて子供並みに危なっかしいって話だよ」

「なるほど、それなら分かるよ」

「そうだね、響子と一番話があってたのはお前だったしね」

「ちょ、ちょっと。それって何よ。幾ら母さんでも、少しくらい若くなったからって、言っていいことと……」

 どうも桔梗の甘え方が余りにも不器用で、とても見ていられない。叔母の助け舟に便乗してそそくさと逃げ出すことにした。

 この際だ。留鳥には猿渡の全文を語っておくべきだと心が決まった。サヨについてはいずれ話さねばならないのだ。尤も猿渡全文を読み聞かせるだけでも数日は掛かるのだが。

「前半は私が聞いていたのとあまり変わらないですが、後半は木猿に聞いたものともだいぶ違う様です」

 猿渡は語り継いできた種族の違いなのか実に様々なバージョンが存在する。本当のところどれがオリジナルなのか未だに結論が出ていないのが正直なところだ。草壁にしても幼い頃古城が寝物語に話してくれたものを本物と呼んでいたに過ぎなかったのだが、古城が小さき妖のとりとめない無駄話を根気よく拾い集めて纏めたと言う叔母の話を聞いて、今は間違いなくこれが真実だと自信を持って言える様になった。

「特に外伝にある弱り切ったサヨを殺生狐が襲って逆に黒焦げになって転がり出たという点が重要なんだ」

「目撃したのは従者のハバキだけで、他の者は誰一人として見ていないと言うアレですね」

 驚いたハバキは小屋に飛び込んで、サヨの無事を確認している。転がり出たモノの確認はされていない。

「だから僕を含めて皆殺生狐は死んだと思い込んでしまったわけだ。しかもたまたま用心に付近の偵察に出ていた銀狼が、性懲りも無くサヨをつけ狙う殺生狐の姿を森の中で見かけていた為に、この黒焦げになった異様な塊こそ殺生狐に違いないということになったんだ。その後一千年以上も殺生狐の目撃例はないから、なおさらね」

「だけど死んでなかった……」

「妖の中には深い眠りにつくことで寿命を大幅に延ばすことが可能だという説がある」

「つまり九尾狐が死んで殺生石になったのではなく、殺生狐が眠りに入った姿があの殺生石だと」

 草壁は首を振りながら深く息を吐いた。

「妖に関しては分からないことが多すぎる。一つ分かっても次の瞬間には全く違う解釈が生まれる。そんな事の繰り返しだよ」

「だから諦めるのですか」

 まさか。それでは人間はいつまでも妖共の餌にすぎないことになる。

「力不足かもしれないが、精一杯頑張るよ。手伝ってくれるかい?」

「そのつもりです。まず私の記憶と違っているところから調べるのはどうでしょうか」

 小角の特徴は勿論情報にあるのだが、その情報源が分からず他の組織はどこも迂闊に手出し出来ずに居る。要するに不気味なのだが、それほどまでに小角の情報は早く、そして正確だった。

 草壁は赤熊に心を乗っ取られかけて以来、どういう訳か妖が近くにいると気配を感じ取ることが出来るようになった。簡単に言うと臭いのようなものを感じ取れるのだが、高校で平沢と話していて妖の思考波に反応しているのではないかと気付かされた。勿論受信はしていてもその内容にまでは踏み込めない。質の悪い雑音だらけの安い受信機のようなものだ。精度が上がったらとても面白いことになるんだがなと平沢は冗談交じりに笑って言ったものだが、これを草壁は真面目に受け取った。

 元々の素質があったのかそれとも偶然なのか、十数年掛かってこれに成功した。但し精度が上がったわけではなく、受け取る周波数帯が広がったのだ。相変わらず内容はさっぱりだが、無数の不気味な交信を受け取っているうちに気付いた。これはもしかしたら三種以外にも妖は存在するのではないかと。そこで昔叔母が言っていた言葉を思い出したのだ。

「なるほどお前にそんな能力があったとはね。血は争えないって言うべきか」

 叔母はひとつ深く息を吐くとそのまましばらく無言だった。まるで息をしていないかのようで少し心配になったが、霊障が解けた今では無用のことかと苦笑しながら静かに待った。これは考え事をするときの叔母特有の呼吸法なのだ。

 静かに吸った息を長く細く吐く。これをやると雑念が払えるんだそうだが、とても苦しくて草壁にはどうしても真似出来ない呼吸法のひとつだった。

「古城さんの息子ということだけで、実はあたしもよくは知らないんだよ。会ったこともないしね。勿論茜も何も言わない」

 子どもの頃から父親について叔母に尋ねた記憶はほとんどない。子供というのは実に敏感で、そして迷いがない。たった一度のこの時の叔母の表情が脳裏から離れず、以来この手の質問は草壁の内でタブーとして封じられた。

 二十数年ぶりに、そのタブーに叔母自身が言及しようとしている。草壁は呼吸すら忘れたかのように黙って聞いていた。

「名は那拍恭介(ナヒラキョウスケ)。那拍古城の一人息子で、現在消息不明。時期は丁度茜の最初の失踪時と重なる。とまあ、あたしが知ってるのはこの程度で知らないのと大差ないけど、実は不確かな情報がひとつだけあってね、それが伸のその能力そのものと言う訳さ」

 言われている内容を理解するのに十秒ほど掛かったろうか。そして……

 ちょっと待ってくれ! 赤熊はどこに行った!

 まだ幼かった草壁を連れ出した古城の目的は息子恭介の発見にあった。人々に忘れ去られた遠い記憶を掘り起こし、新たな伝承として発表し続けた古城の能力は小さきモノ達のお喋りを聞き取る耳にあるのではと叔母は早くから気づいていたらしい。その能力は恭介にもそして草壁にも伝わっていると古城は信じて疑わなかったようだ。

「幾ら素質があっても必ずしも発現しないのが霊能力ってやつでね」

 どうやら草壁はしなかった口らしい。

「まあ古城さんの狙いは鬼にあったらしいんだけど、どう関係するのかまでは調べが進んでない」

 その鬼には留鳥と共に出会っているが、まだ古城には伝えていない。そう言えば、留鳥もまだ紹介出来ていない。生きていると信じているが、元気なのだろうか。

「ところで赤熊だけどね、あの時なぜお前を襲ったのか、小さきモノ達の話が最近漸く纏まって少しはまともな話になったんだけど、どうする、聞く意思はあるかい?」

 叔母が二十年以上も何もせずに放っておいたはずはない。

「二人を呼んできます」

 生憎と桔梗はフージ達の散歩からまだ戻っていなかったが、茜が疲れた顔でコーヒーを啜っていた。

「那拍恭介だって? これはまたえらく懐かしい名だね。弥生もまだ覚えてたんだ。他には?」

 仮にも夫だった人間の名だ。他に言いようがあるだろうに。それとも本当に記憶にないのか。尤も草壁にしても茜に母親という感情は未だに湧いてこないのだが。

 結局茜から二ノ宮について特別に新情報はなかった。

「二ノ宮は確かに怪しい。でもそれだけじゃないと思ってる」

 小さきモノ達のもたらした情報は確かにとんでもないものだった。伝説の九尾の狐を思わせる眠れる大妖怪がいよいよ目覚めの時を迎えようとしているというのだ。

 妖の寿命は確かに永い。だが超長時間眠りにつくことで更にそれを伸ばすことが出来ると言う新説が、最近になって発表された。まるで示し合わせたかのようなこの動きを妖どもの策略でないかと疑うことも出来たが、それならそれでこれまでとは違う新種の出現だという見方も出来て叔母は結構忙しいらしい。

「二ノ宮は主犯ではあるだろうけど、大妖怪を目覚めさせようとまではどうでしょうか。三峰の実権は既に握っているようですし、今更大妖怪の出番など必要なさそうに思いますが」

 茜は小角の情報には懐疑的のようだ。大妖怪の復活など信じてすらいないかのように見える。

「九尾の狐はやっぱり伝説通り北関東が終焉の地と見て良さそうです。それより二ノ宮を追ってたらもっと気になる名が浮かんで来ました」

 言いながらチラッと草壁の表情を盗むように見る。その仕草に訳もなく胸がさわぐのを覚えた。

「有名な割に内容があまりよく知られていないある伝説の中で語られているのですが、皆様には殺生狐という名をご存知でしょうか」

 不安が的中し、思わず留鳥を振り返ってしまう。猿渡伝説だ。だが彼女の知る猿渡とは少し違う。殺生狐の名は知らないようで、全く表情は変わらない。が、

「木猿に聞きました。猿渡には裏とも言うべきもう一つの物語があるそうですね。なぜ話していただけなかったんです?」

 別に隠していた訳ではない。ただ当時の留鳥はあまりにもヒナに固執していてついつい言いそびれていたのだ。その後映像記憶の整理が進む中で、ヒナの妹サヨと留鳥が前世で関わりがあったらしいと分かって迷っていたのだ。

「九尾狐はそれなりに有名で行状もかなり詳しく残されています。対して時代が重なるにも関わらず殺生狐については殆ど知られていません」

「まさか伝説の九尾は入れ替わっていたなんて言うつもりじゃないだろうね」

「そう言えたならむしろ楽かもしれませんね。問題は死後にあるのではないでしょうかと。つまり九尾狐は死んで殺生狐になった」

 いや、それはない! 殺生狐は猿渡城でサヨに敗れ結局命を落としたのだ。伝説では猿渡城の場所ははっきりしていないが、九尾狐の北関東とは明らかに異なる。

「猿渡はあたしも知っているよ。確かサヨに敗れたんじゃないかい」

「手酷くやられて逃げたと伝わっていますが、決して死んだとはどこにもありません」

 言いながら茜は留鳥の表情を伺う。前世の記憶は留鳥自身がまだはっきりとは思い出せていない。草壁にも前世の記憶があるらしいと漏らした程度だ。それを茜はどうやって掴んだのか。見た目以上に掴み所のない女性だ。

 しかも全てを知るはずの草壁にして間違えている。殺生狐は確かに死んだとは伝わっていない。

 そうだっ! 殺生狐は一度も死んでいないのだ。

「全ての騒ぎの裏にいたのは殺生狐だと言うのだね」

「確証は得られませんでしたが」

「二ノ宮は?」

「表向きの首謀者でしょう」

 それまで黙っていた留鳥が一歩進み出た。

「二ノ宮はただ使われてるだけでいるほど愚かではありません。必ず狙いがあるはずです」

 同じことを草壁も感じていた。脳裏には列車内の獣人がいた。

 

 富士の樹海には何度か来た覚えがある。だがこれほど奥まで来たことはない。近くには観光道路もあって、この時期ならまだタイヤチェーンを履いた車が多いはずなのに音が全く聞こえない。

「このままでいいよ」

 木の根が這い回り苔が地を覆う悪い足場の中、なんとか車椅子を動かそうと必死の留鳥に叔母はいつも以上に優しい声で語りかけるように囁いた。

「じっと待てば向こうから来てくれる」

 草壁の興味は他にあった。

「まさか叔母さんが結界を張るとは思いませんでした」

 言われるまま叔母の車椅子に触れた途端にここへ運ばれたのだ。

「弥生様は結界など張ってはいません」

 結界を張っていないとはどう言うことだ。結界は他者を排除するためのもの。確かに叔母の主義には反するが、ならばいまの桔梗の技は……。

「あたしにだってこれくらいは出来るさ。桔梗には内緒だよ」

 最後は悪戯っぽく片目を閉じて見せた。

「来ました」

 留鳥の言葉が終わらないうちに、辺りの空気が変わった。湿った重い空気が身体にまとわりついて離れない。

ーー東の者共が何の用があって来たーー

「挨拶だねえ、今の時代に西も東もないだろうに。一体いつの話をしてるんだい。それよりもまず姿を見せたらどうなんだい。まさかあたしらが怖いって訳でもないだろう」

ーー怖いさ。小角歴代最強の能力者に血に飢えた三峰の夜叉。おまけに正体不明の者までと来ては迂闊には出られないのも当然であろうよーー

 言い終わらないうちに辺りの景色が一変した。緑に溢れた草原に青空がどこまでも続いている。

「大昔の景色さ。彼らの心の風景って訳だね」

 つまり彼らの先祖はこの景色を見ながら渡って来たのだ。

「これも結界でしょうか」

「秋穂の謎がひとつ解けたね」

 留鳥が無言で頷いた。その留鳥は少しも警戒を解こうとしない。それだけ相手の力量が掴めないと言うことだろうが珍しいことだ。

「さて、もうこけおどしは終わりかい」

 叔母は挑発をやめない。これも珍しいことだ。叔母のことだ、何か狙いがあるとは思うのだが。

「それとも姿を見せられない何かがあるのかい」

ーーもう一度聞く。何用があった来たーー

「娘が母親に会いに来たのだ。他に何が必要だって言うんだい」

ーー母親とは誰のことかーー

「留鳥、用意はいいね」

 叔母には敵の正体がつかめているらしい。

「心配いらないよ。実体がないんだからね」

 実体がないとはまさか幽霊だとでも言うつもりだろうか。

「帰るなら送ってくよ」

 桔梗だ。叔母の霊波を辿ったのだろうが、他人の結界の中だろうが御構い無しに現れる。おまけに当然ながら空気は読めない。

ーー我らの結界内だと知ってのことかーー

「いいところに来たね。茜は?」

「まだムバルとかの後を追っているけど、時間が掛かりそうなんであたしだけ戻ったら誰もいないし。ところでこいつ何者なの、霊波の流れしか感じられないけど」

「どんな霊波だい」

「凄く邪悪だよ」

「それだけかい? 用心しな。お前には初めての相手だ。ナミの黄泉に取り付いた連中でもあるしね」

 やはり叔母は黄泉について知識がある。同時に留鳥が動くのが見えた。

ーーそうか、実力で我らに刃向かうと言うのだな。ならばこちらも遠慮はせんぞーー

 叔母は軽く肩をすくめてみせた。やってみろと言わんばかりだ。何がそこまで叔母を強気にさせるのか……妖異か!

 次の瞬間、物凄い眩暈を感じて思わず膝を突いてしまった。誰かが側に来たのは分かったが足元だけでは見分けがつかない。たた留鳥の靴ではないと頭のどこかで声がした。

 ついで首筋に温かいものを感じて目眩は消えた。

 反射的に見回すと軽く頭を振りながら留鳥の駆け寄る姿が見える。

「あなた達は大丈夫?」

「三人ほどが後方に運ばれましたが、命に別状は」

 いつの間に現れたか、羽衣だ。留鳥を護るように半円状に広がっている。

「叔母さんは……」

「何事もなかったかのように、平然とされてます」

 凄まじい干渉波だ。並みの妖異の数十倍はあっただろうか。それを平然と受け流すとは、実戦の経験もほとんどないのに改めて叔母の底力に感服するしかなかった。

 その叔母の車椅子にすがるように崩折れた桔梗は明らかに経験不足だ。羽衣が駆け寄るのを叔母が遮り、大きく頷く。

「闘いはこれからだよ」

 羽衣はいわば私兵だ。留鳥の命令しか聞かない。それが会釈して散って行く。

 叔母の言葉が終わらないうちに第二波が来た。前のが平手打ちかと思える凄まじさだ。訓練を積んでる草壁でも転げ回るのを我慢出来ない。それが不意に消えた。吐き気を抑えて顔を上げると留鳥が立っている。軽く頭を降っているところを見ると、全く無傷とは言えないようだが、驚いたのはその隣に叔母が立っていたことだった。それも若い頃の姿のままで。

「まさかここまでとはね。少し読み違えたよ。彼女達は大丈夫だったかい? 今回は助けられた」

「朧のお陰です。私も救われました」

 朧とは羽衣のリーダーのような存在で、初めて出会ったときに呪術師の元へ案内してくれた娘だ。その朧がふらつく足で二人の前に進み出た。

「私の結界は耳児の共感力がなければ働きませんでした。褒めるなら耳児を」

 草壁は気付かなかったが、不死は精神波と同時に大量の礫を飛ばしていたらしい。礫と言ってもまともに受ければ簡単に掌程度は貫通する。それを防いだのが朧の発動した結界であったらしいのだが、その前に周囲の景色が一変していた。草原が消え、一面岩だらけの荒れ果てた地だ。朧はそれを耳児の共感力の賜物だと言う。つまり耳児は不死の者に共感したのだ。

 今はそれが最初の薄暗い苔生した樹海に戻っている。

「で、耳児は無事かい?」

 姿の見えない耳児を心配して桔梗の側にいた羽衣の一人にそっと尋ねた。

「まだ意識が戻らないそうだけど、命は大丈夫みたい」

 頭を押さえたまま桔梗が小さな声で答えた。いつもの元気さはどこにもないがそれでもまだ立っていられるのは、彼女の能力のせいか。

「そういえば不死の奴らは?」

 今頃になって第三波の心配に心が揺れた。ここでまた襲われたのでは流石に堪らない。

「留鳥が倒してくれた。もう襲われる心配はないよ」

 桔梗に手を差し伸べながら叔母が留鳥に向かって頭を下げる。

「私はただ払っただけですけど……」

「それが本体だったのさ」

 本体……確か叔母は実体がないと言ってなかったか。

「あれの正体は妖異さ。何かあるとは思っていたけどまさか礫を飛ばせるほどの妖力を秘めてるとは思わなかった。完全にあたしの読み違えだよ」

「つまり礫に混じって自分自身を飛ばしたと」

「あんたは無意識だったんだろうけど、敵に対する防衛本能の勝利だね」

「結界が破られた瞬間に、脇を抜ける敵意の塊は感じられたのですが……」

 朧が悔しそうにつぶやく。留鳥を護ると誓いながらそれが叶わなかったのがよほど堪えたのだろう。

「それはあたしも同じさ。武闘派を名乗るにはもう少し時間が必要かね」

 どうやら叔母は本気で闘う気らしい。

「ところで飛鳥を探さなくては」

 そもそもそれが目的でやって来たのだ。少なくとも草壁は。

「会う必要があると思えば自分から来るさ。信じておやり、あの人は正直だから」

 どうやら叔母は違ったらしい。意味ありげな言葉を留鳥に残して桔梗に疲れたと言うと座り慣れた車椅子にどかっと身体を預けた。それを見る限り、流石に全くの無傷とはいかなかったようだ。

「乗り越えたかい?」

「もう完全に、と言いたいとこだけど、まだ二人がやっとかな」

 照れ臭そうな笑みを浮かべながらもやはり嬉しさを隠せない。桔梗にしてみたら初めて見る若い母親の姿だ。

「ところで叔母さんはいつから気付いてたんだい?」

「妖異のことだったら、最初から疑ってはいたよ。覚えておくんだね、妖異のなかにはその存在を全く悟らせないモノも居るってことをね。ただここまでの妖力を見せられると、古のモノの存在も改めて考える必要があるね」

「つまり古の妖が居るってこと?」

「その話は戻ってからゆっくりと。それより気付いてるんだろう、小さな奴らが集まって来てるのを」

 妖に三種ありと教えてくれたのは叔母だ。そしてそれ以外の妖について教えてくれたのも叔母だった。人に直接害を及ぼさない程度の低いモノ達を妖とは呼ばない専門家連中を、叔母は嘲笑うように言ったものだ。あのモノらの本当の力に気付こうともしない馬鹿どもと言ったのだが叔母は覚えて居るだろうか。尤も草壁がその言葉の意味を知ったのはつい最近のことなのだが。

 小角の情報入手先は害のない妖どものつぶやきにあった。それを聞き取る能力を持ったもの達が小角を立ち上げたのだ。伝説では役の行者にもその力があったと伝わるが、伝説は伝説だと草壁は考えている。