1945年3月23日、太平洋戦争末期、「ひめゆり」の愛称で親しまれていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名、教師18名は、米軍の沖縄上陸作戦が始まった頃、南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。
病院といっても爆撃を避けて40近くの横穴壕に、病棟はむき出しの土壁にそって二段ベットを備えただけでした。
学徒の仕事は負傷兵の看護、食事の運搬、伝令、死体の埋葬などでした。
学徒らは後方の安全な病院を想像していましたが、現実は、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場でした。
そして、6月18日陸軍病院で突如「解散命令」が出され、軍は学徒たちを見放し、ゆく当てもなく海岸へと向かい逃げ惑う生徒はたくさんの命を落とした。
動員から解散までの90日間の犠牲者19名に対し、解散命令後のわずか数日で100名余が亡くなった。
いまだに国際紛争の絶えない今日、戦争を知らない私たちは過去に日本が間違った方向に進んで、若くして命を落とさねばならなかった人たちがたくさんいたことを忘れてはならないと改めて思いました。
言い方は悪いかもしれないが、平和ボケしている私たち何でも恵まれている私たち、平和だからこそ命の重さ、尊さを、人としての生き方をもう一度考えなければならないと思いました。
上手く表現できませんが、どんな命も大切にされなければならないと感じました。
過去を知ることで、今の生き方が見えてくるような気がしました。
京ちゃんに展示してある内容を読んであげたり、説明すると、嵐のDVDを見ているときのように真剣に聞き入っていました。
絵本も買って、名古屋に帰って復習しました。
こういったことも勉強です。
外に出かけなければ知らないことがたくさんあります。
そして勉強した後は、「くるくまカフェへ」
なぜか、タイ人のつくる本格タイ料理でしたが
とてもおいしく、もう一度行きたいところ。
リフト付きレンタカーで登れるかな~というぐらいの坂道を上り
絶景のカフェへ
次に行きたいところがあったけど、あまりにいい眺めといい空気でゆっくりしすぎて予定変更。癒されました。
それだけ、いろいろまわっても、最後はちーちゃん海へ。
少し曇って、さむくない?と聞いても楽しそうに泳いで砂山に集中していました。
この後、京ちゃんは地元のヘルパーさんに入浴介助を頼み、ママとお風呂へ。
ヘルパーさんも手際よく京ちゃんは満足のお風呂だったようです。
人工呼吸器をつけた方が、旅行で楽しむために来られることの多い沖縄なので
そういったサービスも充実しているように感じました。
人工呼吸器をつけて沖縄の旅④へ つづく・・・
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