「博聞強記は聡明の横(おう)なり。精義入神は聡明の竪(じゅ)なり。」


 これは、「言志四録」(佐藤一斎著)の第144条にある言葉です。平易に言うと、

 「何事もよく知っているという博覧強記は学習によって横に広がるが、それは単に知識を知っているだけのことである。精義入神(道理を深く掘り下げること)は、いわば人間としての徳を磨く修養の学である。」(岬龍一郎訳)となります。言志四録といえば、日本の気高き武士道精神の教科書です。受験を半年後にひかえた高校3年生を見ていて、この言葉が頭に浮かびました。


 受験勉強を盾に遅刻をするやつ。塾の予定を盾に掃除をさぼるやつ。そういうやつがいると「知識だけ詰め込んだってろくな大人にならないぞ。」といつも言ってやります。「そんな受験勉強ならやめてしまえ」とも。もちろん知識を蓄えることは大切なことです。しかし一番大事なことは「徳を積む」こと。徳は才に優れりです。



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 日本は、好むと好まざるとに関わらず多民族国家になりつつあります。「外国人の定住と日本語教育」という本によると、1989年の「出入国管理及び難民認定法」の改正を期にブラジル人を中心に外国人登録者数は年々増加の一途を辿っています。1989年の外国人登録者数は約98万人で、韓国朝鮮人、いわゆるオールドカマーが全体の69%を占めていました。ところが、2003年末には全体の登録者数が191万人と、ほぼ2倍に膨れ上がっています。そのうち韓国朝鮮人の比率は32%に減少し、日系人を含むブラジル人、いわゆるニューカマーが激増しているのです。ブラジル人の特に多い地域は、東海4県(愛知、静岡、三重、岐阜)で、全体の半数近くがこの地域に居住しています。最も多いのは愛知県の5万人、次に静岡県の4万人です。外国人にとって住みにくい日本は、日本人にとっても住みにくい、とはよく聞く言葉です。なるほど確かにそうかもなあ、と思います。とは言え、例えば「外国人に参政権を与えよ」などということは中国人などの言動を考えてみても、極めて愚昧な発想であることは言わずもがなです。

 いま、こうした現状を受けて日本人が考えねばならぬことは何でしょうか。言語教育の観点から言うと、それは「日本語教育」の充実に他なりません。日本語のわからない外国人が増えることほどお互いにとって生活しにくいことはありません。しかも、我々日本人はよほど自覚をもって日本語を大事にしていかないと、大変なことになるでしょう。このさき増え続ける外国人に対して、日本人が深く考えずに「英語」を使って話すようになったらどうなるでしょう。当然今まで以上に英語でコミュニケーションを図る場面が増えるわけです。そして、そのほうが生活するうえでお互いにとって心地よい、というまでになってしまったらどうでしょう。日本中に「英語を公用語に」という気運が高まり、日本語が「使ってもよい言語」に成り下がる可能性は十分考えられるのです。小学校英語も必修化されることですし、これは極めて危険なことです。日本語と英語のどちらでも使っていいですよとなったとき、いったどれだけの子供達(親達)が日本語を第一言語に選ぶでしょうか。それは、世界の趨勢を見れば明らかです。「英語を選択して勝ち組に」と考える親が続出することでしょう。

 外国人には、日本語とその裏にある文化と、社会のマナーをしっかりと教えることです。そしてもちろん日本人の教育も国語に力を入れるべきなのです。




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 高校三年生を受け持っているため、実に忙殺の日々が続いております。さらに、書きかけの論文を仕上げようと取り組んでいるので、ブログを更新する暇がなく、ご無沙汰しております。

 ところで、ガソリンの高騰ということもあり、経済面、エコ面ともに考えて、先日マウンテンバイクを購入してしまいました。車種はゲイリーフィッシャーのワフーというやつです。通勤に使うつもりです。と言っても、我が家から職場までは16キロもあり、けっこうきついと思いますし、天候にもよるので毎日というわけにはいきませんが。しかし、普通の自転車とまるで違うマウンテンバイクの乗り心地のよさには感動しました。自転車はいいですね。ふところにも地球にも、そして健康にも。夏にはちょっと遠出することも考えており、楽しみです。





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 今日のお昼、コンビニでよくドトールやスターバックスのものと同じところに売っているMt. RAINIERのコーヒーを買いました。職員室に戻り、ストローを刺してコーヒーを飲んでいるとき、ふと、パッケージの成分表示の隣に書いてある「広告欄」を見て「んん?なんだこりゃ。」と思ってしまいました。そこには


 「ウェスティン・シェラトンでアニバーサリーステイ」


という文句。「ああ、ホテルの名前か・・・。しかし、日本語が『で』しかないじゃないか、『で』しか。」と数秒後に理解。そして、その見出しの下にもさらにカタカナが目白押しに並ぶのでした。


 「ウェスティン・シェラトンでアニバーサリーステイ」

 1本(ID番号)ごとの抽選でマウントレーニアオリジナル図書カード1,000円分を10,000名様に。また、ID番号20本分で国内11ヶ所のウェスティン・シェラトンホテルでの1泊ご宿泊が500組様に当たるチャンス。さらに、プレミア商品での応募が20本たまると、特別枠で100名様に当たるプレミアチャンス。

 応募はパソコンか携帯電話(i-mode, EZ-web, Yahoo!ケータイ)からキャンペーンサイトにアクセス!


 しかし、もっとひどいのがあります。電気通信大学教授の中島義道氏は著書の中で、今の子供たちはカタカナの洪水の中にいると述べ、氏の8歳になる息子は『テレビマガジン』に書いてある以下の内容を完全に理解していると言っています。


 「ダ・ガーンとアースファイアー、アースライナーが合体してパワーアップ、ダ・ガーンXになる。これがトリプルコンビネーションだ。」

 「ジャケットはスクラムヘッドにつまれている。レッダーはスクラムヘッド内で実装。ブルースとキースはトランクのスーツを身につける。」

 「いまこそ力を合わせるときだ。ダ・ガーンXはスカイセイバー、ランドバイソンとスクラムくみ、はじめてみせる必殺わざ、フォーメーションアタックをさくれつ!」


 笑うしかありませんな。

 ・・・しかし、今回のこの文章を今読み返してみて、気づきました。私の文章も横文字ばっかりではないですか。そしてこの下の文句も・・・。嗚呼。



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 先日、我が校では年に一度の避難訓練が行われました。7時間目開始5分後に「火災発生」などの放送が入り、授業担当の先生がクラスの生徒たちを連れて行き、全校生徒が校庭へ集合します。集まった後は、代表の生徒の消火器を使っての消火実演があり、校長から「全員整列するまでに何分かかったか」、「去年に比べて早かった、遅かった」などのコメントがあり、その後消防士からのコメントをもらう、という流れになっています。毎年思うこと。必ず最後の総評で、消防士がこのようにコメントするのです。「自分の命は自分で守るしかありません」と。だから緊張感を持って訓練に取り組みなさい、ということです。そして、目標はとにかく整列完了までの時間を昨年よりも早くすること。当たり前ですが、確かに災害から早く避難することは大切なことです。しかし、このような教育から生徒たちが学ぶことは、「自分の命は自分で守らなければ、誰も守ってくれない。だからとにかく早く逃げよう。」ということです。もっと言うと、「我先に逃げよう。」ということになります。友達が、あるいは違う学年の知らない奴が、廊下で転倒しようが、階段で押し倒されようが、関係ありません。大切なのは自分の命です。人を助けている場合ではないということになります。力のある者は他をかき分けて、倒れたものを踏みつけていち早く校庭にたどり着くでしょう。力なき者は押し倒され、取り残されるでしょう。たちまちカオスと化すことは明らかです。

 これは「自分さえよければ」という誤った考えを助長するむちゃくちゃな訓練なのです。そもそも人命を救うことを使命とする消防士がなぜそのような無責任な発言をするのか。恥を知りなさい、と言いたい。本来であれば、「火災や地震が起こっても、我先にという考えを持たず、友達と助け合い、手を取り合って避難すること。」と指導すべきではないでしょうか。「自分の命を守るために、急いで逃げなさい。」などというのは「教育」ではありません。誰だって本能でそうするのですから。







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 5月17日付の読売新聞によると、「2011年から小学5、6年で必修化される小学校の英語活動について、保護者の4割近くが『期待しない』と感じている」そうです。「おおいに期待する」はたったの18%。早期英語教育だなんだという声が近年高まっていたようでありながら、いざ必修化に踏み切るとこうなのです。最たる理由は「英語専門教員の人材不足」だそうで。そんなもの小学校英語教育問題の極めて基本的な問題ではなかったのか。反対派はそれを大きな理由のひとつとしてずっと前から警鐘を鳴らしていたはずなのです。あきれたもんです。

 

 さて、文部科学省による新しい小学校学習指導要領によると、英語活動が行われるのは、5年生と6年生でそれぞれ年間35時間です。時間数の面から考えても、1年間でたったの35時間の言語教育が成功するわけがありません。それどころか、一科目としてやるわけですから、成績もつきますし、中学生になる前にすでに英語が苦手で、所謂「英語嫌い」になってしまう生徒が少なからず出てくるわけです。また、新指導要領の英語教育の内容に関しての記述を見てみると、「音声面重視」や「ジェスチャーの役割を理解させる」、「CD、DVDなどの視聴覚教材を積極的に活用すること」などという文言があります。こうした文言からは、「歌やリズムに合わせて楽しく英語を身につける」というもっともらしいイメージが浮かんできますが、結局はこの時間数で身につくものといえば、せいぜい極簡単な英単語や、ちょっとした決まり文句、そしてアメリカ人独特のあの薄っぺらい「ノリ」だけなのではないでしょうか。今の日本の英語教育は、なるべくアメリカ英語から離れようとしてはいますが、コミュニカティヴ・アプローチのような教授法を施してる限り、アメリカ英語からの脱却はないと思います。

 

 前述した「ジェスチャーの役割を理解させる」という教育は、「文化の相違」としてそれを捉え、「日本人は使わないけれど、英語圏の人々は使う」、「英語圏であっても、国によってジェスチャーの違いがある」、「それぞれの文化を尊重することは大事だが、まねする必要はない(してはいけない)」というやり方であれば、意義のあるものです。しかし、多くの教師は「さあ、みんなも恥ずかしがらずにジェスチャーを使って英語をしゃべってみよう!」などと、とっても恥ずかしいことをやってしまうのではないでしょうか・・・。ああ、少なくはないと思います。そういう教師は。それはまさに精神の植民地化装置として機能する、亡国の教育と呼ぶに相応しいものです。

 

 そしてもうひとつ、学習指導要領の決定的な問題点は、これは今に始まったことではないのですが、「外国語」という教科名でありながら、その実、「英語」以外の言語を完全に蔑ろにしていることです。ここにすでに「外国語=英語」という英語帝国主義のイデオロギーが出来上がっています。そして、日本人の胸中では「英語=アメリカ英語」という図式も、残念ながら、いまだ根深く残存しているのです。









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 修理に出していたパソコンがやっと帰ってきました。最初は、中身は全部消えていると言われていたのですが、なんとすべて残っていました。書き途中の論文も無事でよかったです。ところで、パソコンが壊れた次の日に、携帯電話が壊れました・・・。何なんだ一体。電源が入らなくなり、修理に出したところ、やはり中身はすべて消えてしまうとのこと。それも先日返ってきたのですが、奇跡は起こらず、電話帳もすべて消えてしまいました。それでも、普段から「現在の日本の体たらくの大きな原因とのひとつは携帯電話である」と思って、携帯電話を忌み嫌っている私は、携帯電話を片時も離さず文字通り「携帯」している若者なんかほどのショックは受けません。しかし、やはり「アドレス全部消えてしまったし、携帯がないと不便だ」と思ってしまう自分がいやだなあ、と思いました。携帯電話なんて、世の中から完全になくなってしまえばいいのになあ。せめて、未成年の携帯電話の所持は認めるべきではないと思います。周知のとおり、高校生たちの携帯電話への依存度といったら尋常ではありません。私も常日頃見ていて「こりゃあバカが育つわけだ」と頭を抱えています。まあ、大人でさえそういう人がいるわけですから、子供の教育どころではありませんね。ちょっと前に入った定食屋で、母親と小学生の息子がテーブルに向かい合って座っていました。そこで見た光景は、会話なく、母親はメール、息子はゲームなのです。







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 うちのパソコンが壊れてしまいました・・・。今修理に出しているのですが、電気屋曰く、「パソコンの中に何も入っていない状態」だそうです・・・。なんだそれ。書き途中の論文などもバックアップしていないので、すべて消えてしまったようです。この文章は別のパソコンで打っていますが、自分のパソコンがなおるまでしばらく更新できないかもしれません。またよろしくお願いします。

 「teenager=10代の人」とはよくある誤った解釈です。英語で言う"teenager"とは、数字に"teen"のつく年齢に限ります。つまり、13歳(thirteen)から19歳(nineteen)までということです。11歳(eleven)と12歳(twelve)はteenagerではないということになります。"teenager"になると、一歩大人に近づいたという意識があるのでしょうか、そこらへんの感覚はよくわかりませんが、いずれにしても日本人の感覚とは違い、中途半端な区切り方をするもんだなあ、と思います。このことを考えると、英語圏の人にとっては、12歳と13歳の間はひとつの節目であると言えるようです。ところで、12歳というとピンと来る方もおられると思います。そうです。あのGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの「日本人の精神年齢は12歳」発言です。このことを知った昔の私は「ふざけるな!アメリカ人に言われてたまるか、ボケ!」と単純に憤慨していたわけですが、マッカーサーは日本人を揶揄するために適当に若い数字を持ってきたわけではなく、それなりの意味があったのです。つまりアメリカ人のマッカーサーにとって12歳とは、"teenager"にもなれない「お子ちゃま」を意味していたのです。




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 元来日本人は自然と対立するのではなく「共生」するという考えをもつ民族でした。一神教を信仰する多くの他民族は、自分の力で自然を変えよう、とか自然を征服しようとかいう考えのもとに生きています。日本古来の宗教である「神道」は、古くから人々の生活の一部、というより生活そのものであったため、宗教としての特別な認識が我々日本人の中には薄いようです。一神教のように唯一の神を崇拝するというようなこともなく、いたるところに神様を感じるのが神道です。そういう意味でも、神道では神様が我々の生活に溶け込んでいるために意識をすることが少ないのでしょう。樹木信仰をはじめ、自然と共生することを尊しとする神道には、いま日本人が学ぶべき教訓がたくさんあります。

 春日大社の宮司、葉室頼昭氏は、日本人と米の関係についてこう述べています。


 「米を主食とした日本人の考え方がすばらしいと思うのは、その土地からのエネルギーを取り入れるということが、民族にとって大切なことなんですね。だから、その土地で取れたものを食べるということは、当たり前の話ですが、その民族の健康にとっていちばん大切なことです。

 しかも米は、水田の中にできるということが、非常に重要なんですね。約38億年前、生命というのは地球の水のなかに誕生した。しかも泥のなかです。まさにお米は、水と泥の田んぼからできてくるんですね。日本の土地の生命力そのものがお米です。

 稲からできたものを米「こめ」というのは、つまり「こ」というのは「おとこ」を表し、「め」というのは「おとめ」を表す。すなわち男と女ということで、そこに生命という意味が含まれているのではないか。だからのちのである「いね」からとれたものを、いのちの根源として、「こめ」と称えたのではないかと思うのです。」


 思えば思うほど、日本人が戦後失ったものはあまりにも大きいのです。神道、武道、道徳・・・。




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