今日は法要で、
早起きしなければならないし、
まして疲れて偏頭痛もしているのに、
妙に意識が冴えて眠れない…


故人を想えば、
今日の一周忌が気になりそわそわとするのやもしれません。




こんなときは
blogを書きましょう。




"依存"
ということを意識したことがございますか。

誰もが何かに、少からず依存しながら生きている。




その対象は人様々で、
買い物、飲酒、喫煙などの行為であったり。
はたまた、友達、パートナー、両親、子供など人であったり。
もしくは、大好きな自分自身であったり。




わたしは、"依存"ということを極力自分から排除したい気質にあります。
なにも、"依存"はどんなことより粗悪だと思っているわけではないのです。依存なしの人生を送る人ばかりの世界だとしたら、なんだか淋しい世界になると思います。
でもウッカリのめりこむと自分を見失う、危険な感情、行為であると認識しているのです。




今のわたしが依存しているもの…


それは間違いなく子供でしょう。
子供がわたしの日常の一部となり、彼女がいるはずの時間にいなくては、どうもこうも落ち着きません。
例えば、おばあちゃんちにお泊まりにやったとき…
普通ならば、たまに子育てから解放され、ゆったり過ごすことができるはずが、それどころか遅くまで寝れなかったり、何をしていいかわからず落ち着かなかったり…ちっとも休まりません。

これは子供と毎日過ごすことで得られる、親としての幸福感や充実感に、完全に依存し、それを一日でも得られなかったことへのストレスからくると確信しています。



これでは、まずわたしの為に良くないことは明瞭ですね。
たった一日、子供に会えないとリフレッシュどころか具合が悪いなんて、子煩悩のお面を被った、立派な依存症患者でしょう。完全に自分を大切にしていない。ここに落とし穴があると思います。
"自分が自分を大切に思えない人は、まして周りを本当にハッピーにすることなどできない"、という説があります。
ほどほどでない"依存"は、相手がもし人であるならば、自分はおろかいつか相手まで滅ぼす可能性があります。わたしのような母親が、子供に依存し続けて子離れできなければ、子供は将来つらいめに遇うでしょう。




時々、「あっ」と思うのです。




喜怒哀楽しているとき。



例えば、子供のためにと一生懸命尽くしているつもりが、肝心の子供の気持ちを置いてきぼりにしてしまっていると気づいたとき。




お姑さんに内心激怒して、はらわたが煮えくりかえっていて、厳めしい顔、言葉にしたくもない汚いことばを脳内に渦巻かせているとき…。




ふとわれに返り、
「あっ」と思う。




わたしはただただ、いいお母さんになりたいはずだったのに、これじゃ空回りしてる。

そもそも、姑を内心罵倒している今のタシ自身が一番、醜く見たくない姿かもしれないぞ、と。





我をそうして重んじたとき初めて、相手の人や物、行為すら大切に思えます。





時々思い出したい。
わたしが一番、大切。