私にとっての先生
千昌夫の「おやじ先生」ではないですが、
心の底から反射的に先生!と呼べる存在は
実はそう多くないかもしれません。
例えば、小学校から高校までの先生。
別に恨み節などありませんが、
「あの頃の先生も若かったね」と思う瞬間や、
「あの時の言葉や行動は何だったのか」と考えてしまう思い出があります。
先生も人間である以上、
それはしょうがないとして、
しかしながら、
“やんちゃな生徒”に迎合し
若者の心に近いキャラクターであるという立ち位置の先生には
まったくもって辟易したもので、
中学生でひげを伸ばしたタツオ君と一緒に
どこかスカしてみていました。
私達も、かなり性質が悪かったと反省していますが…
勤め人の頃、
ある業界のペーペー事務員だった私に、
営業マン、それも結構御年と思しき
いうなれば人生の先輩の営業マンが、
先生~!と声をかけてきた時、
業界のひずみというものを感じました。
国家試験に合格した学校あがりの若者も
先生と呼ばれていた業界ということを知り、
いやはや、
コネとはいえ(コネでなきゃ社会人なんてなれなかった私なもので)
とんでもない世界に入ったものだと
楽しく酔った記憶があります。
で、先生の話
先日、恩師が亡くなりました。
少年野球チームの監督だった方です。
小学3年生からお世話になった方なのですが、
思い出す度、
不思議なくらい
本当に嫌な瞬間の思い出がありません。
試合で負けた日。
負けたにもかかわらず、ふざけて帰る私とナオト君、
首根っこをつかまれて怒られながら帰った
下町の夕暮れ。
あたたかかった。
坊主頭でフルートを習っていた頃も、
発表会に来てくれたカントクさん。
店を継いだ時も、
何かにつけて応援してくれたカントクさん。
人間の嫌な部分というものは、
良くも悪くも、大人から学ぶと思うのですが、
(オザキユタカみたいですね)
不思議なくらいそんな記憶が無い人というのが存在していて、
私にとって、そのひとりが、
カントクさんでした。
タバコの匂いと、
(酒のせいか?)しゃがれた声で、
大好きだった憧れの男性。
口数は多くないのですが、
どっしりとした器の大きさで、
私にとって、
素敵な大人の男の姿、
人生の先生と呼べる存在だったと思います。
鍬ヶ崎の店が被災してから、
仮店舗で家業を継続することができて、
準備をしながら、ようやく決まったうちの新店舗ですが、
引き渡しの前日に、
カントクさんの訃報が飛び込んできました。
悲しくショックで、
さみしくてたまりませんでしたが、
引き渡しのカギを受け取って数分後に
カントクさんの葬儀の引き出物の荷物が届くという現実に、
「しっかり商売やれよ」と言われているようでした。
(こんなことを口に出して言う方では無いのですが)
亡くなってもなお、
亡くなってまでも、
私のことを応援してくれているカントクさん。
妻と心をこめて包装した引き出物を配達して
とても穏やかな冬空の境内を
帰ってきました。
カントクさんの奥さんも、大切なお得意さまです。
津波で流されたもののひとつに、
うちの母とお得意様の
コーヒータイムがありますが、
次の店には
その空間をしっかりと備え付けます。
うちの母にとっても必要なものですし。
カントクさんへ。
奥さんと鍬ヶ崎を大切にしながら
店やりますので
どうか見ていてください。
鍬ヶ崎で結婚式を挙げるということ。
まづは、お弁当からレポート!
カニクリームコロッケと刺身が、とてもうまい。
先日10月10日、友人が結婚式を挙げました。
白無垢紋付袴姿で
結婚式の後に、鍬ヶ崎を練り歩き
七滝湯の前のベンチで
ご婦人方と一緒に写真を撮る
震災前、そんな夢を見ていた私に
「おくまんさまで結婚式やるから~」と友人から聞いたときには、
うらやましさとうれしさで、
飛び上がりそうになりました。
熊野神社で結婚式を挙げて
浄土ヶ浜パークホテルで披露宴をし
鏡開きは菱屋酒造店の男山でやる
これぞまさしく、鍬ヶ崎の結婚式じゃないか!
渾身のレポートをさせていただきます。
新郎新婦、さっそく写真攻め!
記念写真をとったら、熊野神社へ移動しますよ。
手を振って、車に乗り込みます。
みなさん、お待ちかね~
新婦さんの同僚の方々、
多くの友人に、
生まれ育った鍬ヶ崎をみていただく。
新郎のその気持ちがたまらなくうれしい。
きた~!
めんこいテレビの井上アナ、
しっかり撮ってね~!
そうなんです。
めんこいテレビの密着取材をうけたのです。
鍬ヶ崎応援サポーターの井上アナウンサー、
このような場面を取材しないわけがありません。
というか、メディアのみなさま。
皆同じ記事書いて、同じ写真載せてどうすんの??
「被災地での神社で、宮古を離れた青年が古式ゆかしい結婚式を…」
各社の記者さん、集合すべきでしょ!
気概をもって、オリジナルの記事を書いてくださいよ。
(集合したら、オリジナルじゃなくなるか…)
特に、鍬ヶ崎関係の!
でなきゃ、汽車で帰社しなさい。
熊野神社での結婚式は、本当に素晴らしいのひと言でした。
夏祭りと元朝参りの時だけ、
とはいっても、
見慣れているはずの場所での結婚式は、
特別な光景でした。
この人数入るかな?というひしめきあった空間に
凛とした空間。
神主さんの、ユーモアある挨拶に
和むお社。
いいなぁ。
新郎お父さん。
いい結婚式でしたね~。
本当におめでとうございます。
さあ、それでは
披露宴とまいりますか!?
あ、
あれ!?
どこ行くの?
ここは市役所の窓口。
な、
なんと、
このまま婚姻届を出しちゃったのでした~!
これには、市職員の皆さんもびっくりです。
遠巻きにこちらを見ています。
そりゃそうですよね。
なんせ、友人一同もびっくりしているんですから。
と思っていたら、
びっくりマークの方がもう一人…
な、
なな、
なんだ~!?
山本市長も、やっぱりびっくり組でした!
どこ?
え~鍬ヶ崎~!?
えっ!神社で結婚式!?
いいなぁ、こういうの~!
市長さん、新郎新婦とがっちり握手。
人口をどんどん増やせー!という、
市長のセクハラ発言は、
良き日に免じて許しちゃいましょう(←何様?)
*後日談
復興市なるイベントで、
末広町を、何か食いながら歩いていた
視察されていた市長さんに、
「先日は友人の結婚を祝っていただきありがとうございました」
と伝えると、
いやこちらこそ教えてくれてありがとね!
立ってるものは親でも使えってなもんよ!
あ、このポップコーン食う?
私、ますます好きになりました、山本市長のこと
宴が始まりました。
菱屋酒造店、ヒッサの男山で乾杯!
さあ、おご馳走をいただきましょうー!
といきたいところですが、
司会の大役を仰せつかった私は、
緊張でこちこち。
あまりの緊張で、泣きたくなったのは初めてでした。
しばしご歓談ください、と席に戻ってからも、
ご馳走を前に、どうも胃が痛くて
「しばし私に休憩をください」状態。
その割には食ってたじゃんと妻。
うにご飯がしみるね~。
友人に囲まれて。
「鍬ヶ崎を初めて感じた」と妻。
なんのことかと思ったら、
友人の、がんちゃん、まっこーと新郎の会話が
あまりに鍬ヶ崎弁丸出しで
あまりに楽しいものだったからとのことです。
鍬ヶ崎地区といっても、
上町と港町では気質が違うもの…
よく聞いた話ではありました。
商業地域の上町あたりと、
漁師町の熱気渦巻く港町地区あたり。
上町がどう、港町がどうなどと、
私ごときが簡単に言えるものではありませんが、
常に私の心にあった、
本当の鍬ヶ崎らしい部分への憧れ
コンプレックスにも似た憧れを
妻は感じてくれたんだと思います。
新郎が新婦さんに見せたかったはずの鍬ヶ崎。
それは、
私自身も、妻に見せてあげたかった鍬ヶ崎であると
あらためて気がつきました。
鍬ヶ崎で結婚式をするということ。
こういったことだったんですね。
素敵すぎて、疲れました(笑)
夜は更け…
二次会で、歌う媒酌人と新郎。
宮古を離れて暮らす友人。
一度はUターンしたものの、
都合により、再度上京した彼。
独り上京して、
その技術スキルと行動力を生かして、
稀有な興味本位追及体質を、存分に生かせる仕事に就き、
チャーミングで素敵な奥さんを見つけて、
中目黒や東横線界隈のおしゃれな街をテリトリーとしつつ、
しっかりと自分の居場所を見つけた彼の姿。
宮古を離れなければならなかった彼と
あの時、もっと話しておくべきだったと思いながらも、
とても幸せそうな彼の笑顔に、
私は涙がでました。
あの時、何もできなくてごめんね。
そして、鍬ヶ崎で結婚式を挙げてくれてありがとう!
たつおくん
めぐみさん
体に気をつけて、過ごしてくださいね。
あの結婚式の感激を引きずって、
結構心身にダメージがあるので、
上京したら、
ホルモン焼きでもおごってください。
みやこわが町 2012年6月号は、鍬ヶ崎特集です!
あー!俺んちの床材だ!
会津で開かれている、漆の芸術祭 に、
義兄の青野文昭さんの作品が展示されているというので、
行ってみました。
店のフローリングで隠れていた、
昔の床材が、
テーブルにくっついていました(笑)
さとう衣料店の名が(笑)
流されてもなお、出たがりのさとう衣料店…
それを知ってかどうか
とにかく青野さんに感謝です!
被災地入りして、
いろいろ拾っていた青野さん。
がれきは、
やっぱり単なる“ゴミ”ではないし、
その人にとっては宝物に他ならないものも
あるわけです。
流されたことはしょうがないですが、
記録を残すという意味でも、
ありがたいことです。
流されたといえば…
鍬ヶ崎の防潮堤の建設に反対している人がいるとか。
びっくりです。
私はと言えば、
震災前、特に賛成なわけでもなく、
いつ来るかわからない津波に
巨額の費用が地元に落とされて申し訳ない…
また、
この素晴らしい鍬ヶ崎の景観が変わるだろうということで、
正直慎重な考えでした。
でも、今後の鍬ヶ崎を考えると、
はっきり言えば、
鍬ヶ崎がどうなるか本当にわからないですが、
事業所や住宅で構成される可能性があるのならば、
少しの高波さえにも、日々怯えなければならない土地に
誰が将来を見出すのでしょうか?
本当に鍬ヶ崎のことを考えている方の発言とは
とても思えません。
もしも防波堤があったら、
うちの家だって、柱や壁が残っていたかもしれず、
そしたら何かしらの店を
(服屋は無理でも)
必ずしつこくやりたかったと思うわけです。
びっくりついでに…
復興会議なるものに、父親も参加していますが、
地図を渡されて、
「今後どうなるのか、どうしたいのか書いてきて」的な課題があるそうです。
道路を拡張したいからといって、
人様の土地に線なんかひかれるか!と
父は言ってましたが、
ある程度の前提要件、
たとえば、
防潮堤を作って道路を広げましょう
それぐらいの提示は、
市なり県なりがやるべきではないのでしょうか?
だいたい、立場も職業も違う人々が集まって話しても
簡単に決まらないでしょう。
なんせ、この期に及んで、
防潮堤建設反対という人もいるくらいですから…
陸前高田を見てきました。
恐ろしいほどに、何もない。
そして、想像するのを辞めたくなるほどの、津波の爪痕。
仮設の市役所、店舗、
まだまだ多いガレキ。
「自分たちで考えた町は、誰もそこを離れない」と
宮古市の誰かが言っていましたが、
愛した土地を離れなければならない人は、もういるわけで。
復興というものを考えた時、
宮古市と陸前高田とでは、
求められているスピードと、その内容は
かなり違うものでしょうが、
何年か後にそれは確実に現れてくるものだと思います。
そういった意味での、
頑張りましょう!宮古であるなら、
悲しい。
あの日のこと
鍬ヶ崎ブルースカーニバル!? 吾妻光良トリオライブ!
鍬ヶ崎に住んでいたころ(←こう言うとなんかさみしい)
二日酔いになると、
仕事前に岸壁に散歩に出かけました。
二日酔いの状態は、
なかなかクリエイティブ、
いやバカなことばかり考えてしまう頭になり、
日頃に増して妄想を膨らましていましたが、
海風を感じながら、
このロケーションで音楽フェスティバルでもできたらと
考えたことがありました。
その名も、「鍬ヶ崎ブルースカーニバル」!
音楽はもちろん、映画や演劇まであるお祭りなのです。
信金前や、玉木屋さんの各会場で繰り広げられるステージ…
妄想は止まりませんでした。
もう“しばらく”、鍬ヶ崎ではできそうにないので、
メインステージに呼ぶはずだった
ギター弾きブルースマンを
今年宮古にお招きすることになりました!
鍬ヶ崎へのオマージュ(?)、
そんな気持ちしか正直ありません。
鍬ヶ崎にはやっぱりブルースが似合う!
ぜひ一緒に、飲み盛り上がりましょう!
吾妻光良トリオライブ
10月29日(土) カントリーズカフェにて
19:00会場
19:30開演
前売り3,000円
当日3,500円
前座 ディンプルズ(宮古市)
あの夕暮れをおぼえていらっしゃいますか?
この写真、ご覧になりましたか。
タウン誌「わが町みやこ」に掲載されたので、見た方も多いと思いますが、
これは、大和園さんの野崎さん が撮ったものなのです。
わが町に、見開きページ1枚に掲載された時、
私は、その紙面を閉じることがなかなかできませんでした。
夕暮れ時、(野崎さん曰く、夕方4,5時頃かな~?だそうです)
人々の営みが手に取るように伝わってきます。
家路に向かう人。
豆腐が無い?玉木屋さんで、内竹さんのトーフを買うべぇーが?
女子高校生が、自転車で話しながら帰ってくる。
食べだー?って、まだ5時ですよ。
夕飯は早いでしょう、お向かいのおばあさん。
すべて無い。
涙が出るほど、妄想が止まらない、素晴らしい写真を、
野崎さんからいただきました。
心に鍬ヶ崎を!
などと言うために、これは欲しい写真です。
今月のわが町みやこには、鍬ヶ崎の写真がたくさんだ!
鎮魂、おくまんさまのお祭り。
津波を体験した、鍬ヶ崎。
おくまんさまのお祭りは、
やはり今年は違います。
霧雨が降る、夜宮。
がれきもすっかり片づけられて、
何もなくなった鳥居付近の出店の明かりが、
やけに明るい。
中学生たちが、楽しそうに集まって、何か食っている。
さみしいが、人々の営みも確実に感じる。
「ミヤゴマヅに店出したんだってー?頑張れよー」
そういわれるたびに、
なんだか申し訳ないなぁと、
しょうがない現実だとわかってはいるが、
そう思う。
仕事から帰って、車を運転していると親父から電話が。
お宮で飲んでいるとのこと。
妻が食べたいと言ったので、
たこ焼き食って待っていると、
ほろ酔いの父が、鳥居方面から歩いてきた。
さぁ帰るすか、と向かう方向は、
今夜も、鍬ヶ崎ではない。