気が付けば、前回の投稿から約2か月が経過・・・。

すっかり、アメブロから離れて暮らしてしまいました。

この2か月で、本当に大きなことがたくさん起こりました。

自分には、この間に起こった大小様々な出来事に関して、何かを語ったり、書いたりする勇気がありません。

自分はこの間、それらに対してちゃんと向き合ってきたわけではないし、しっかりとした知識を持とうとしたわけでもなく、ただ茫然と、テレビの前、パソコンの前で、流れを見つめていただけでした。

そんな自分には、何かを語る資格もなにも、あったものではないです。

時事ならまだいいのですが、自分で「専門」と謳う演劇に関しても、同じような調子だから困ります。


自分は演劇を「観る」ことが好きなだけで演劇映像学コースへ進んでしまった人間で、専門的知識にかんしてはほぼ皆無に近い状態です。そんな自分が観たものに対して偉そうに何が書けるのか。


そんな思いを、幾つか映画鑑賞・観劇レポを書いているうちに抱いて、なんだか怖くなってしまいまいた・・・




そもそもが演劇を「観る」ことが本当に好きで、その観たものに対して何かを語れるようになりたくて、始めたブログだったんですが。


思った以上に、自分は語れるものを持っていなかったようです。




今日は全く暗いだけの内容ですね・・・すみません^^;


次の更新はまた、いつになるかわからないです・・・

こんにちは。


7日に青☆組の芝居を観に行ったと書きましたが、8日が千秋楽だったと思います。観た感想を一応まとめた(まとまってる?)ので、書いていきたいと思います。




青☆組第14回公演『雨と猫といくつかの嘘』 atアトリエ春風舎

作・演出:吉田小夏 木下祐子 藤川修二 福寿奈央 荒井志郎 高橋智子(青年団) 林竜三


青☆組の劇は、以前一回だけ、『午后は、すっかり雪』という作品を観たことがあるのですが、その時の印象としては、非常に真っ当に現代口語演劇を受け継いでいる劇団だなぁ、というものでした。音楽や暗転は使うし、劇作法も全く違っているのですが、その舞台上の対話から受ける感覚―妙に間の抜けた、静かな印象―は、青年団リンクの中で最も青年団に近いと思います。


今回の作品は、2008年に初演がなされ、2009年には劇作家協会新人戯曲賞にノミネートされた作品だそうで、そのため注目が集まっていたのか、会場はわき見席(本客席の両側に横を向く形でおかれた席)ができるほどの超満員でした。前回はちょっと空席もあったくらいなので、これには驚きましたね。おかげでだいぶキツキツでした。


会場入りしてまずはじめに思ったのは、舞台の作りが凝っているな、ということでした。舞台中央がちょっと高くなって座敷になり、その中央にちゃぶ台がひとつ。その周りを囲むように、上手と下手には3個ずつ木箱が置かれ、後方の左右には幾つものビーズをつないだ長い糸(雨を模したもの)が5本ずつ、天井から床まで伸びています。とてもシンメトリカルなつくりです。そして、最後方中央には、小さな傘立てと、そこに差された傘が一本。この傘立てに差される傘の本数は、物語の展開に従って変わっていきます。


物語は、一人の還暦を迎えた中年男性・風太郎の半生を描いたものです。娘とその婚約者が彼の元を訪れる「現在」の場面があって、その合間合間に風太郎の「過去」の断片―「幼少期」、「結婚後」、「息子の結婚前」など―の場面が挿入されていきます。それらの場面は一貫して、風太郎の誕生日であり、そして雨が降り続いている、という共通点があります。


それらの場面は、雨、誕生日という要素とともに、おなじ小道具による視覚要素の連鎖によってつながれていきます。「過去」において母親が風太郎にプレゼントとしてあげた猫のぬいぐるみが、「現在」の場面で娘が間違えて持ってきたプレゼントとなり、「現在」で茶葉缶として扱われていたものが、「過去」において幼い娘が父にあげたおかきになる。


これらの要素の連鎖によって一瞬にして場面が切り替わるのですが、その際、俳優も全く違うキャラクターを演じわけることになります。父が子供になったり、妻が息子の恋人のニューハーフになったりと。最初は違和感を覚えましたが、慣れてくるとなかなか演技が思い切っていて、場面の移り変わりに信憑性が増していたように思います。この場面転換のスムーズさには、幾度も痺れました。演出が優れているのだろうし、俳優の力量も優れている証拠といえると思います。




さて、物語はそうした現在と過去の交錯によって徐々に風太郎の満たされぬ人生を明らかにしていきます。愛人の子として生まれ、「一生一緒に、幸せに」というつもりでした結婚も、うまくいかず。息子・娘も家を出て、気づけば「現在」の風太郎は、還暦を過ぎながら安アパートに一人住まい、という何とも寂しい環境に居るのです。そこに、作者がこの作品の着想を得たという絵本『100万回生きたねこ』のテーマが挿入されていきます。「猫は死ぬとき、姿を消して独りで死ぬ」「看取られて死んだ猫は、生まれ変わることはない」といった言葉が幾度も使われ、徐々に観客の観方として、「主人公は独りで死ぬのか、看取られて逝くのか」という意識が芽生えてくる仕掛けになっています。



この問いに関しては、舞台上で答えが示されることはありません。ただ、舞台上で表される風太郎の人生はとても救いがたく、観た直後は、彼は独りで死んでいくのではないか―と思わせるものでした。最後、風太郎の元を訪れていた娘と婚約者を駅まで送って、彼は帰路に着きます。その場面の描写は、余りにも孤独な彼の心境を、痛烈なほど表していました。



しかし、それでも、僕は彼が決して独りで死ぬことはない―誰かに、看取られて逝くだろう、と感じました(そう信じたいだけなのかもしれないですが;;どんな劇でも、救いある終幕を望むのは僕の欠点でしょうか;;)。というのも、描かれる彼の「それまで」の人生にはどんなに救いが無くとも、登場人物たちの放つ言葉の端々には、描かれていない「これから」の彼の人生への救いを仄めかす部分が、確かにあったと感じるからです(ほんとうに、端々ではありますが)。



そして何より、僕が「これは」と思ったのは、終演後の舞台を眺めた時、後方の傘立てに差さっていた傘の本数です。はじめこの傘立てには、一本だけ傘が差さっていたと述べました。それが、終演時には、中央の赤い傘(風太郎が娘の婚約者から還暦のお祝いとして贈られたもの)を囲むようにして、傘が4本、差さっていたのです。これは、風太郎の「これから」は決して孤独なものではない、ということを表しているのではないか―と思ったのです。



本当に、すべて僕の勝手な解釈なので、全然確かなことは分かりません;;しかし、そんな逡巡をしなくてはならないほど、この舞台は生々しく、暗く、それでいて温かな印象を抱かせるものでした。




今回の舞台、そして前回観たものもそうでしたが、青☆組の舞台は、幻想的で美しい舞台効果を用いながら、描かれる中身はいかにも生々しく、人間の本能的な残酷さ、汚さを抉り出していきます。しかし、それでも温かな印象を抱かせてしまうのは、舞台効果の影響か、演出の巧みさか。まだ掴みきれていないのが現状なので、これからも注目していきたいと思います。







こんばんは。今日もだらだら書いていきます。




うーん・・・


実は、さっきから観劇レポをまとめようと試行錯誤しながら書いているんですが、なかなかまとまらず・・・


なかなか、劇観てる際に感じることをまとまった形にするって、難しいですね。


劇中に感じたことって、決して一種類じゃなくて、物語の進行と一緒に刻々と変わっていきますから、それをまとめようとすると、感じたことのどれを重点的に書けばいいか、どういう順序でいけばいいのか、わからなくなってしまいますね‐‐;


やっぱり、自分は劇を観て感動することはできても、それについて考えるというのは苦手な人間らしいです;;


でも、それをできるように訓練しなければと思って、はじめたブログですからこれは。実は。




まだ鑑賞レポはひとつやふたつしか書けてないですけど、、


これからもっともっと観て、書いて、充実したブログにしていきたいな、と思っています。




・・・とりあえず、つなぎなんで、こんな所でいいですかねw


そういうわけで、おやすみなさい。