終わりか、終わりなのか 亡念のザムド最終回26話感想 | 黒猫寮

黒猫寮

もう、なんか、ごめんなさい。

ダッシュで後ろ向きに生きる、漫画ヲタ、スポヲタ、ヲタヲタ(二重の意味で)の大学生3人の日記などです。

亡念のザムド各話感想がありますが、配信版のものなのでテレビ放映派の人はネタバレ注意。

やっとこさ完結しました。自分自身でもどう書きゃいいのか分かんなかったのでこんなに遅くなってしまいました。
しかし、これは制作側がズルイよ。前置きはさておき本編あらすじから。


アキユキから名をもらうことで悲しみを癒したヒルケン。
名を与えたことで再び我を失い仮面をつけるアキユキ。
そしてナキアミが大巡礼をおこなうことで世界から闇は消えていく。
大巡礼という悲しみの連鎖をとめるため自らごと胎動窟を閉めるナキアミ。
それを納得できないヤンゴだが、彼の力は及ばずまたアキユキは彼の前で石になってしまう。
ナキアミの心情を理解したザンバニ一行は手紙にのせてナキアミに人々に想いを届ける、
ありがとうの言葉を。

ここまで25話Cパート(だと勝手に設定)。
そしてアイキャッチ後からやっと最終回『大きな石と少女』の本編。

9年後、世界は一応の平穏を取り戻していた。
ハル、ナズナ、リュウゾウ、フサ、ミドリ、ザンバニの面々、ヤンゴ、様々な意味で成長し、変化した人々。
彼らはそれぞれアキユキの帰還を待ち望み、またはナキアミの想いが叶うことを願っていた。
そして、いまなお、私を生きることのない、この国の若者のひとつの顔がそこに火をはらんだまま凍っている。
いつものあの場所。尖端島中を見渡せるその場所で彼女は彼の名を呼ぶ。
言えなかったあの想いが通じる時が遂に。



いや、これ以上何の言葉を尽くせ、と。今回ばかりは書くことないですよ。
ぶっちゃけた話、いくらなんでも不親切すぎるだろ、もう少し説明をくれと思わなくはないのですが公式の宮地監督のインタビュー を読む限り、一応それは狙ってやってるみたいなんでしょうがないのかな。(でもズルイと思う。)ただ公式の用語集とかで望む人への補完ぐらいはせめてやって欲しいかなと思ったり。
そんな感じの内容なんで見直しても正しい答えみたいなのがわからず、完全に宮地監督とかの思惑から外れてるかもしれないですが、そのあたりは了承してほしいな、と。

結局、この亡念のザムドの世界のお話は終わってないんですよ。たまたま視聴者の視点の中心がアキユキで、彼の話がひと段落したから最終回を迎えただけでナキアミがどうなったかも分からない。近々戦争も再開されることになるかもしれないし、1000年後また大巡礼が必要になってくるかもしれない。
でもどんな物語にも終わりはあるけど、その世界はそこがおしまいではない。あくまで現実に拘泥してできたのがこの作品なんだな、と思います。お話は終わる(一区切りは一応つく)けど、まだその後も世界は回る。
そういった意味でのAパートラストでのVacancyのBGMじゃないかな、と思います。Aパートだけで一話分の話(上記には25話Cパートと書いたけど)があって、また違う話としてのBパートがある。本当の意味での26話最終回はたぶんBパートだけなのかもしれないし、逆にAパートが私たちが見てきた亡念のザムドの最終回でBパートは違うお話の第1話なのかもしれない。だからわざわざEDテーマを二度も流した。

変化し続けるという意味で言えば、各キャラのその後の姿をきっちり描いてくれたのは良かったと思います。
ヤンゴのイケメン化と悟りっぷりは何があったんだと疑いたくもなりますがみんなあの出来事を受けて前に進んで行っているという感じがよく出てたなぁと。
何回かこのアニメでキャラの髪型が変わるとそのキャラに変化が起こるということを言ってますが、そういう意味で言えば伊舟は雷魚を失ったこと、ヒルケン打倒に失敗したことを受けて変化した後、九年の時が経って髪型が戻ってまた心境に変化が起こったことがすごく印象的でした。
Aパートではナキアミや子供たちの行動を認められるようになってるけどもまだ言葉に心は足りないと思ってるんだけど、Bパートでは直接胎動窟にまで出向いて自らの思いを口に出せるようになっている。あっという間に色んな情報を投げられてしまったから分かりにくくなってしまっているけどそういう人の変化の1パートを本当に切りぬこうとしたアニメなんだなぁと思いました。
にしても年配組は変化しなさすぎだろ、おばあちゃん組ですら変化ないって。
ナズナかわいいよナズナ。


やっぱりこの作品は細かいところまで設定がこっているなあ、と随所で思うのですがそれをもう少し作中で表現しておいてくれればもっと満足できたのに。今回も小ネタが多すぎる。
ハルが教えてた内容、黒板もそうだけどスカッキが読んでたのがハーレクインぽいとかやっぱり実写とか。
個人的には、あの実写カットの挿入は、アキユキが帰ってくるのが幻じゃなくて本当のことなんだよという意味でないかと解釈してるんですが、あのカットを使うのは本当に英断だったんじゃないかなと思います。
どうもエヴァのあれのせいでアニメに実写を使うことに対する変なバイアスがかかりすぎている気がするけど自分はあそこで実写使ったのは間違いではないと思います。
それと、シロザがガイドしてた観光客が宮地監督じゃないかなと勝手に妄想してます。ロマンチックだなとか思いながらこの話を作ったんじゃないかと。で、周りにツッコミを入れられるの図。


解釈めいたことは自分自身で分かんないトコが多すぎるのであんまり書きたくないのだけど、ただやっぱりアキユキが戻ってこれたのはハルがみんなが彼を呼び続けたからだろうなと。
そもそも名前を呼び続ける、我というか自分が誰か意識させることが石から元に戻る、我を取り戻すことに対して重要だっていうのは8話、19話で示されている訳で(具体的に言えばナキアミがキーオに呼び続ければ母親はきっと戻ってくると言ってる)そこまで突飛な展開でもないと思います。
9年という長い歳月がどうしてかかったのかよく分からないけど、精神世界であろう今回最初のパートで子供だったアキユキが子供の姿から元の姿に戻るまでにかかった時間が9年だったとかって考えるのが妥当なのかなと思います。
それならキーオ母の石がなくなってて、キーオ、ズイゾと知らない女の人が暮らしてるって描写を入れても良かったのじゃないかなとも思わんでもないですが。(あそこで初めて元の姿に戻った描写がすぎるとアキユキ帰ってくるときの感慨とか減るし、同じタイミングで石から帰ってくるてのも違うと思うので)アキユキが早めに帰ってこれたのはナキアミの言葉のおかげかな、とも思ったり。


話が完結して思うのはEDが良く出来すぎてるとびっくりしました。
昼パートが1000年後のナキアミだととることも出来るし、夜(全話見てきた今、夜というのを考えると本当にそれが時間的な意味での夜なのかが分からないのが憎い)のパートでアキユキが見てる情景はどう考えてもナキアミの大巡礼で、ヒルケンと対峙していて直接的に大巡礼で何が起きたかを知らない彼にとって、あの情景をあの初期の彼の姿で見ることが出来ているというのは石から戻ってくる直前の彼の心象でないかととることもできる。(ご丁寧にハルがあの時起きたことを伝えたいとまで言わせてるし、)それでラストに過去を切り取ったものとしての写真を画面に写して終わりですからね。それはズルイ。


なんというか本当にズルイ作品です。
実際よく分かんない展開も多かったけど、そうなるべくしてなったんだよという伏線というか暗示が実はそこここに隠されていて一応納得、解釈させるように作ってある(垣巣への軍人としてのお前を殺す、とか)のが本当にズルイ。
どこまで制作陣の掌の上で踊れるかで評価がかなり変わってくる作品だと思います。
そういった意味ではこの感想を書き続けてきたのはいいことなのやら悪いことなのやら…


大きなカタルシスとか爽快感みたいなものはなかったですが、ゆっくりとした余韻を残す、終わりのない世界での一つのお話の終わりを描くにはとても良い最終回だったのではないかなと思います。

ひとまずこれで感想記事も終わり。お付き合いいただきありがとうございました。
さぁサントラをよこせ。
時間に余裕があれば全編通してのまとめみたいなのも書きたいと思います。









ツマカテ!