個と個のあいだ
先日、スウェーデンに在住する日本人男性から興味深い話を聞いた。彼は、キリスト教と仏教を比較する本を読んでおり、その中に書かれていたことに納得したそうだ。それは、キリスト教を信じる人々(例:スウェーデン人)は個がはっきりとしているが、仏教を信じる人々(例:日本人)は、自分の個と他人の個の境が曖昧である。ということ。あー、なんとなく言わんとする事が私にもわかるな。こちらの人は、例え家族のことであっても、他の人のことであまり悩まないように見える。相手が子供ならまだしも、成人しているのならその人にも自分の個というものがあり、それにとやかく言うのははばかられる、というのがこちらの人の考え方だ。おせっかいは嫌われるし、気を利かして先回りする、というのも歓迎されない。かと言って、他人を全く助けない冷たい人たち、というわけではない。例えば障害がある人が見るからに困っているなら、率先して手助けする。そのようなケース以外では、まずその人に、「助けが必要ですか?」と尋ねる。そして、助けが必要ならば助けてあげる。一方、仏教徒(私は日本のことしかよく知らないので、日本人、とする)は、他人のことも自分のことのように心配する人が多い。特に女性。他人のことなど、自分にはどうしようもできないことも多々ある。なのに、思い悩むのである。思い悩むことが、相手に対する思いやりや人情だと思っている節がある。はたしてそうだろうか。私はこちらに来て長いので、だいぶキリスト教的考え方に染まっているのかもしれないが、自分の個と他人の個をはっきり分けて考えることで、生き方がたいぶ楽になったような気がする。背負い込む荷物が少なくなった、というか。少し前に、「日本人は依存が好き」というテーマで投稿したが、お互いが依存し合う関係というのも、この個の境界が明確ではないことが起因しているのかもしれない。だから、自分が期待していることを相手が率先してしてくれなかったりすると、不機嫌になったり怒ったりする。個の境界がはっきりしていたら、相手にあまり期待しない。相手に何かしてほしかったら、察してもらうのではなく、言葉ではっきりと伝える。「他人を思いやる」方法が、ちょっと違うのかもしれない。思い返せば子供の時から、自分の個をはっきりと持つことはあまり推奨されていなかった。いつも他人の様子を伺って、それができなければ自分勝手な人間と言われた。そうやってお互いを縛り付け、お互いの足を引っ張り合っているうちに、インターネット時代の流れについていけなくなったのが日本企業・・・ とまで言うと飛躍しすぎか。それにしても、これから円安はもっと進むのかなあ・・・ 恐ろしや恐ろしや(今日のスウェーデン写真)写真の美術館 Fotografiskaにて。Fotografiska Museum Stockholm | The contemporary museum of photography, art & culture | Fotografiska StockholmVälkommen till Fotografiska Stockholm. Upplev fotoutställningar, live-event, mötes-event och konferenslokaler och en prisbelönt restaurang.stockholm.fotografiska.com最上階のレストランで、内海を見ながらギョーザもどきを食す。