現代中国における維権(権利擁護)運動 3/4 | (仮)アホを自覚し努力を続ける!

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現代中国における維権(権利擁護)運動 -その実態と影響-
(財団法人 日本国際問題研究所 阿古 智子)


2.ケーススタディー

(2)政策の立案・停止を促したケース

①アモイ市の工場建設反対運動
 次は、政策の立案や停止を促した維権運動を3つ紹介したい。
 ひとつ目は、福建省アモイ市で起こった工業原料パラキシレン(略称「PX」)生産工場の建設反対運動である。
 アモイ市政府は2004年2月、国務院の批准を得て、PX生産工場の建設準備を進めていた。しかし、建設予定地は市中心部の海滄区、5000人の学生を抱えるアモイ外国語学校や北京師範大学アモイ海滄付属学校、開発中の住宅地「未来海岸」から4キロのところに位置していた。アモイ大学教授の趙玉芬ら専門家は、PXは発癌性物質を含み、胎児奇形率も高くなるため、都市の中心部に工場を建てることは好ましくないという意見を示した。
 2006年11月から12月にかけて、趙玉芬をはじめとする専門家が連名でアモイ市と福建省の共産党委員会に書状を送り、工場建設の停止と場所の移転を求めた。「未来海岸」の業主らも「アモイ611環境保護ボランティア連盟」を組織し、海滄区政府、アモイ市長、国家環境保護総局、国家発展改革委員会などに工場建設の停止を働きかけたが、反応はなかった。
 そうしたなか、PXプロジェクトに関する『中国経営報』の報道が多くの市民の注目を集める。続いて、アモイ市民が愛用するインターネットサイト「小魚社区」(www.xmfish.com)やアモイ大学の電子掲示板(BBS)で活発に討論が行なわれ、著名なコラムニストの連岳も文章を発表した。また、携帯電話で「子々孫々のために行動しよう。6月1日8時から、1万人デモに参加しよう。黄色の帯を手に巻いて来てください。アモイのすべての友人にこのメッセージを送ってください」というショートメッセージが流され、「ショートメッセージは受け取った?」という言葉を掛け合うのがアモイ市民の習慣になるほど広まっていった。5月29日には『南方都市報』に、「アモイ100万市民が同じショートメッセージを送っている?」という文章が掲載され、全国各地のインターネットサイトに転載された。
 6月1日、アモイ市民は「PXプロジェクトに抵抗する」、「市民の健康を守り、アモイの環境を守る」といったスローガンを口々に叫びながらデモを実施した。ネットユーザーたちはショートメッセージの機能を使ってデモの進行状況をライブで発信し、全国のインターネットサイト上にもその内容が伝えられた。
 当然、アモイ市政府は市民の動きを事前に察知しており、市長直々に報道規制やデモ組織者の処罰を命じていたと言われている。実際に、「小魚社区」は閉鎖され、デモを報じた『鳳凰週刊』(256期)の販売も禁止された。市当局はこのデモを「違法集会」、「社会公共秩序を激しく攪乱させた」としたが、デモ組織者は「デモ(遊行)」ではなく「散歩」であると説明した。結局、デモ組織者は逮捕されたが、この集会を通じてアモイ市民の結束はいっそう強くなり、報道の広がりによって全国的に大きな反響を呼んだこともあり、アモイ市政府は市民の要求を無視できない状況に追い込まれていった。
 その結果、12月13日に市民座談会が開催され、参加した106人の市民のうち約9割が、15人の人民代表大会代表と政治協商委員会委員のうち14人が、PXプロジェクトに反対を表明した。そしてついに12月16日、福建省共産党常務委員会のメンバー全員が出席する会議において、工場建設地を福建省南部の州市浦県古雷港に変更することが決議された。

②『新京報』記者によるストライキ
 2つ目は『新京報』記者のストライキを通じた維権運動である。
 王斌余事件、定州事件、興寧炭鉱事故、松花江汚染問題などにおいて、独自取材を行なったことが影響したのか、2005年12月28日、『新京報』編集長の楊斌と副編集長の孫雪東、李多が解任された。中央宣伝部は、『光明日報』と『南方日報』の『新京報』株の持ち株比率を49:51から51:49に変更、事実上、中央直属の『光明日報』に『新京報』を接収管理させることを決めた。
 『新京報』の記者たちはこれに異議を唱え、12月29日には100人近くがストライキを敢行した。『光明日報』側の幹部は、「ストライキ参加者は解雇する」と警告したが、ストライキは2日目に入り、12月30日付の『新京報』は通常の半分の分量、ほとんどの紙面が新華社電を使用する状態に陥った。
 北京市のインターネット新聞管理弁公室はストライキに関する文章を掲載したインターネットサイトを閉鎖したり、文章を削除したりしたが、中華人民共和国の建国以来、メディア業界でストライキが起こるのは初めてであり、多くの海外メディアが報道、国内のメディア関係者も『新京報』を支援する声明を出した。
 記者たちの粘り強さが圧力となったのか、関係当局は更迭するのは編集長だけにとどめ、副編集長2人の職位を保留した。また、『光明日報』集団から『新京報』に入るはずだった4人の人事についても暫時中止し、編集長は社長に兼任させることにした。その結果、ストライキは中止されたのだが、ストライキに参加した多くの記者が『新京報』を離れ、捜狐(www.sohu.com)や和訊(www.hexun.com)などのポータルサイトに転職していった。

③重慶市タクシー運転手によるストライキ
 3つ目は重慶市のタクシー運転手によるストライキである。2008年11月3日、重慶市で約9000人のタクシー運転手が待遇改善を求めてストライキを決行した。重慶市タクシー運転手が管理会社に支払う管理費は7000―8000元と非常に高く設定されており、朝から晩まで必死で働いても1日40―50元の収入にしかならないという。また、管理費だけでなく、回り道や積み荷の重量オーバーに関する罰金徴収も多額に上っていた。
 ストライキの4ヵ月前、ドライバーたちが「集団休息」と銘打ち、ストライキを計画し始めていた頃、いったん緊張が高まったが、重慶市当局はオリンピックの開催が近づいていることもあり、態度を緩めた。その後、取り締まりが強化され、ストライキ組織者の摘発が始まったため、大規模なストライキに発展したのである。
 運転手たちの反発は強く、緊急会議を開かざるをえなくなった重慶市当局は「管理費が割高、ガソリン補給がスムーズでない、車両レンタル料が不合理、違法車両が多い」といった運転手たちが提示した問題の合理性を認めるに至る。市の各関連部門は「管理費の値下げ、事故車両の修理代は企業や車両所有者が負担、タクシー運転手支部の設立、車両走行の様子を隠し撮りしない」といった内容を提案、共産党委員会の薄熙来書記が運転手や市民と対話する様子がテレビで生中継された。
 11月18日、重慶市政府は第22回常務会議において、交通委員会主任の丁純、副主任で運輸管理局局長の梁培軍に警告処分を下すことを決定し、重慶市のタクシー会社155社に11月末までに労働組合を設立するよう指示した。重慶市総工会は重慶市中心部のタクシー会社や個人経営の代表およびタクシー運転手代表を招いて会議を開き、収入の分配方法や社会保険の加入、タクシー運行管理の強化などについて意見調整を行なった。
 タクシー運転手の待遇改善を求める動きは、他の都市にも波及していった。11月上旬には山西省朔州市で約200人、湖北省州市で数百人、甘粛省永登県で100台以上、11月中旬には海南省三亜市で約9000人、11月下旬には広東省汕頭市や潮州市で数百台がストライキに参加している。


(3)賠償を勝ち得た・増額できたケース

①陝西省北部の油田開発にかかわる官民対立
 最後は維権運動によって賠償を勝ち得た、あるいは賠償を増額できたケース2つである。ひとつ目の陝西省北部の油田開発にかかわる事例は、私有財産の保護や官民対立を考えるうえで重要な問題を多数含んでいる。以下、時系列で賠償を勝ち取るまでの道筋をみていこう。
 2003年3月、陝西省延安市安塞県政府は油田の権利回収を行なうとして、40台に上る警察車両、60人以上の実弾を装着した警察官を出動させた。5月、同省楡林市も投資者から油田の「三権」(経営権、所有権、収益権)を回収するという通知を出す。同市靖辺県では1600人以上の幹部、2000人以上の警察官が油田地域に入り、指示に従わない30人以上の投資家を拘束した。延安・楡林市の15県では1000以上の企業と6万人以上の投資家が油田開発を行なっているが、地元政府が権利の回収に伴い支払った補償金は、実際の価値の10―20%にしかすぎなかったという。
 200人以上の投資家たちはまず、裁判で私有財産権の保護を主張しようとする。だが、地元の裁判所ではらちが明かず、北京へ陳情に行った。しかし、北京でも陳情を阻止する警察官が待ち受けており、好ましい結果は得られなかった。その後、国内外のメディアが関連の報道を活発に行なうようになり、陳情者代表の1人、馮秉先が脱税罪で拘束されたのをきっかけに、李智英と朱久虎が弁護団を組織した。著名な学者らもこの事件の問題点を検討するとともに、私有財産権の保護や司法の独立を討議するための研究会を開いた。

2003年
 6月29日 北京のシャングリラホテルで研究会が開催され、于光遠、朱厚沢、保育鈞、茅于軾ら著名な学者が
       参加。
 7月1日 経済学者の何偉、保育鈞、茅于軾、暁亮、杜剛建、顧海兵が全人代に書状を提出し、「憲法を尊重
       し、地方政府が法に基づいて政治を行なっているかを監督すべきだ。陝西省北部の100億元以上に
       上る資産にかかわる本件を迅速に処理し、1000社以上に上る民営企業と投資家の利益と安全を守
       るべきだ」と主張(その後2ヵ月の間に二度書状を送付し、調査チームの派遣を要請)。
 8月20日 著名な経済学者や法学者、メディアが北京でシンポジウムを開催。網易(www.163.com)がその様子
       をライブで報じた。

2004年
 11月1日 北京三昧書店で「司法の公正と独立」をテーマにした研究会を開催。

2005年
 5月27日 本件に関する第4回目の研究会を北京友誼賓館で開催。

 このように、3年にわたって国内トップクラスの学者が集まって議論を重ね、全人代にも建議書を提出した。しかし、延安・楡林市政府は陳情者を拘束するなど粗暴な対応を続け、補償を行なうにしても適切な額を提示しなかった。
 陳情者たちは運動を広めるために、インターネットを活用する。2004年7月には、陝北民営石油網(www.sbmysy.com)上で、事件に関連する報道を掲載し始めた。しかし1ヵ月後には本サイトが閉鎖されたため、それまで使用していた重慶のサーバーを経由しなくても閲覧できるよう、北京と広州で2つのサイト(www.sbmysyw.comおよびwww.sbmysyw999.com)を開設した(現在はこの2つも閉鎖されている)。
 一方、弁護団は証拠収集を続け、訴訟を行なうために陝西省政府と協議していたが、陳情者代表や主任弁護士の朱久虎が逮捕される事態となり、国内外のメディアがその事実を大きく伝えた。2005年6月、『公民維権網』の創設者である李健が署名活動を開始し、255人が署名に応じた。8月には、北京の16人の弁護士が連名で全国弁護士協会に書状を提出し、弁護士の権利を法に基づいて保障し、拘束中の朱久虎の問題を取り上げるよう要請した。
 その後、北京に陳情に来た6名の寧夏出身の投資家たちが拘束中の朱弁護士と投資家たちを釈放するよう要求、北京市弁護士協会が二度にわたって本件に関する研究会を開催するなど活動が盛り上がりをみせるなか、陝西省政府は9月、朱久虎と陳情者代表の馮孝元、王世軍、劉廷発、馬啓明、馬成功、孔玉明を保釈した。しかし、靖辺県裁判所は2006年1月、陳情を組織した首謀者として馮秉先に懲役3年、馮孝元と王世軍に懲役2年、執行猶予3年の刑を言い渡した(4月の楡林市中級裁判所での二審も一審を支持)。このように馮秉先ら3人は有罪とされたが、朱久虎は釈放された。また、靖辺県政府は2005年末に34の油田に対し、2年前に提示された額の2―4倍の基準で賠償を行なうに至ったのである。

②重慶市「釘子戸」の立ち退き拒否
 陝西省の油田開発にかかわる損害賠償請求は投資家・投資企業が集団で行なったが、次の「釘子戸」(釘のように頑固に居座る家族)は、一家族が立ち退き命令に最後まで抵抗し、多額の補償金を勝ち取ったという事例である。このケースも、インターネットを中心とするメディアが情報伝達において重要な役割を果たした。
 重慶市のなかでも最もにぎやかな商店街の一角にあるこの家の主の楊武・呉苹夫妻は、レストランを経営しており、非常に繁盛していた。しかし、2004年8月、不動産会社2社がこの地域一帯の開発権を取得し、281戸に立ち退きを求めた。楊・呉夫妻は最後まで補償の条件に納得せず、立ち退きを拒んでいた。2006年9月には工事が始まり、水道や電気も止めれらた。
 2007年2月、猫(www.maopu.com)、天涯(www.tianya.cn)などのインターネットサイト上において、「史上最も頑固な“釘子戸”」として、四方に10メートルほどの深さの穴が掘られ、「孤島」のように取り残された夫妻の家の写真が掲載され、大きな反響を呼ぶ。3月8日、『南方都市報』も追跡報道を開始した。3月19日には、裁判所が3日以内に立ち退くよう命令を出したが、夫妻は家の外に私有財産の保護を訴える横断幕を掲げ、家のなかに立て籠もって抵抗を続けた。呉苹は毎日午後になると、『憲法』を携えて家の外に出、記者会見を開いた。国内外のメディアが連日その様子を伝えた。
 重慶市では管轄の九龍坡区常務委員および宣伝部長が陣頭指揮を執って対策にあたっていたが、事態は収拾するどころかますます拡大する様相をみせたため、区長が先頭に立ち、重慶市宣伝部と安定維持事務室もチームに入った。その後、裁判所が強制立ち退きを実行するために現場に人を派遣したが、1000人近い観衆が見守っていたため、実行できなかった。
 最終的に、九龍坡区共産党委員会書記と裁判所職員が直接夫妻を訪れて協議を行なった結果、4月2日に「店舗経営の中止に対する賠償額90万元、引っ越し費用2万元、旧居の設備補償費2222元、内装補償費10万元」という内容で合意に達した。移転場所には元の場所よりも地価の高い沙坪区が提示された。
 各地で頻発する立ち退き問題の多くが抜本的な解決に至らないのに対して、この重慶の夫妻が破格の補償条件を勝ち取ったのは、メディアの報道合戦によって問題が全国中に知れわたったことに加え、2007年3月の全人代で「物権法」が採択され、私有財産の保護に注目が集まっていたことも影響したと考えられる。