【パソコンの豆知識】インテル社急成長の影に日本の技術者がいた
インテル社の急成長の影に日本の技術者がいました。
その昔、マニアがスタンドアローンで動かすだけのマイコンは、
パソコンと名を変え、インターネットというコミニュケーション手段が
出現し、社会や経済活動に大きな役割を果たすモノとなりました。
マイコンと呼ばれたマニアックな機械は「電卓戦争」と言われる
日本半導体産業の競争の中から生まれました。
まだ電卓が電子計算機として、リレー回路で組まれカチャカチャと
やかましく動くモノや真空管で動くものなど
オフィスデスクを1つ占領するくらい
巨大なもので、処理速度も大変遅いモノでした。
それを小さくし高速処理を実現するため、
キャノン、シャープ、カシオなど大手メーカーが凌ぎを削る中、
「ビジコン」という小さな会社が、単に、四則演算を
2進数による繰り返しの積み重ねで結果を出すのではなく
「あらかじめ、規定の命令を組み込み、記憶させ処理すれば高速化出来る」
ということを思いつき、今で言う 「CPU=中央処理装置」
を考案、日本で最初に4ビットCPU 「4000系」
と後に呼ばれるものの基礎が完成しました。
がしかし、当時、この画期的な発想は大手の主力商品に比べ
圧倒的な性能と小型化、低価格を実現してまい、
それを恐れた大手各社は、共同して当時の通産省に圧力をかけ、
ビジコン社製品の発売を阻もうとした。
それを受けた通産省は、このビジコンの画期的新製品発売に対し
「やっと伸び始めた、日本の大手電卓輸出産業に大きな影響が出るので発売を延期せよ、さもなくば発売は認めない。」
と露骨に圧力をかけて来た。
この圧力により、発売は遅れることになった。
「ビジコン社」はなんとかこれらの障害を突破し発売に踏み切るが、多勢に無勢。次の障壁は必須部品のストップ。
当時電卓に欠かせない部品「ダイオード」の
シェアを握る三菱からの部品供給を止められ、
生産台数はその供給量に押さえ込まれてしまい、採算・利益を得るのが
ままならないことになってしまった、言われています。
結果CPUという考え方は日本では認められず、嫌気がさしたビジコンの主要スタッフが米国に渡り、インテルと契約を結びました。
日本のビジコンから米国へ流出した技術は、後に80系などを生み出し、インテルはこの技術で特許をとり、世界的企業に成長するきっかけとなったと言われています。
インテルの急成長に貢献した日本技術者
嶋正利 氏
Wikipediaにもその名が記されています。