負の世界遺産 アウシュビッツ | 税理士Kuraraのよく働き、よく遊び、よく愛する

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少年たちとの日常生活をつづります。

第二次世界対戦時、ユダヤ人の強制収容所であった、ポーランドのアウシュビッツ
周囲は鉄条網ではりめぐらされており、
寒い寒い風が吹き荒れています。
鉄条網は逃亡を防ぐためだけでなく、
男女別の収容所の間にも設けられ、決して行き来できないようになっています。

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収容所の入口には、働けば自由になるとの看板が掲げられていますが、そんなことは決してありませんでした。
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幼い子供たちも何も知らず手を引かれ、連れて来られました。

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一缶で150人を死に至らしめたガスのもと、殺虫剤の一種です。
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ガス室の入口
中には遺体の焼却炉もあり、同胞が同胞の遺体を処理したそうです。
中には固く抱き合ったままの遺体もあり、
引き離すのに苦労する場面も。
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緑の芝生の美しさとはうらはらの現実がここにはありました。
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処刑場跡
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第二アウシュビッツのビルケナウです。おびただしい数のユダヤ人が貨物列車で運ばれてきました。
アンネの日記の作者アンネもこちらに連れてこられました。
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寒い寒いアウシュビッツで、わずかな食べ物と衣服を供給され、トイレは二回のみ。
しかしながら驚くべき事は、わずかな食料でさえ、他人に分け与える人がいたことです。
少ない少ない配給のパンを食べないで、離れ離れになったお嬢さんのために、そのパンでアクセサリーを作ったお母さんもいました。
辛い強制労働の後でも、人々は夜寝る前に必ず祈りを捧げました。
そんな状況の人々の心の支えは、
ただひたすら、愛する人の事を想うことでした。
会えるわけでも、声を聞ける訳でもありません。ただ愛する事、愛する人の存在が人々の生を支えていました。
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ここには、収容所で亡くなった人々の大量の持ち物、カバン、メガネ、靴、髪の毛などが保存してあります。私が特に胸がつぶれる思いがしたのは、お皿、なべ、コップなどの食器類を見たときです。
人々はここでも通常の生活ができると信じて、自分の愛用の食器類を持ち込みましたが、それらは決して使われることはありませんでした。

こちらの収容所は現在博物館として見学できるわけですが、
ポーランドはもちろん、近隣各国の小中高生が見学にやってきますが、おしゃべりする人は誰1人いません。
皆真剣に、つらい現実と向き合っています。
日本の子供たちにも、ぜひぜひ来てもらいたいと切に思いました。
アウシュビッツは、辛い過去であると同時に平和への出発点でもあると思いたいです。