Ⅸ園遊会
「ナタリー!」
チャコールグレーのドレスを着てポータワン公園へ人もまばらな街道を歩いていた時のこと。突然呼ばれた名に驚いて立ち止まった。あたりを見回すと、こちらへまっすぐ向かってくる長身がある。
げ、と淑女らしからぬ呻きを洩らすも、思いきり目が合った今知らぬ振りはできず仕方なしに彼を待った。
「ナタリー、ああ良かった・・・やっと会えた」
息を切らせてやって来たハリーはいつもの良い笑みを浮かべる。ナタリーは努めて冷静に彼を見た。
「何かご用でしょうか」
「友に声をかけるのに理由は必要か?」
苦笑する彼に答えを返さず、ただ無表情に見つめていた。
ただでさえ近頃波立っている心をこれ以上余計なことでかき乱されたくなかった。せっかく、納得させようとしているのに。
ハリーはナタリーの表情から何を読み取ったか、すぐに真顔になった。
「すまない。そうではなくて・・・ずっと気になっていたんだ。――あの日、君は様子がおかしかった」
瞬間頬に熱が押し寄せ、せっかく繕った無表情も無意味となった。顔の筋が強張っているのを感じる。
「もしかしたらその――誤解を与えたのかもしれないと」
「――誤解?」
「ああ。違うのならい」
「なんのことでしょうか。私がなにか誤解をして困るような要素がありましたか? あなたが誰と会おうと私の関するところではありません」
我ながら辛辣な口調だと思った。しかし止めることはできない。白々しいとは分かっていても、知らぬふりを通すしかないのだ。
戻ってはならないと、理性が告げる。
迷いながら進んできた道を、戻ってはならないと。
言外の牽制。それ以上その話をする気はないのだと暗喩する。
しかしそれが(たとえ正確に意を察したとしても)通じる相手ではなかった。
「あの日一緒にいたのは、親戚なんだ。久しぶりに偶然会っただけで」
「さようですか。それはよろしかったですね」
嘘くさい笑顔と当たり障りのない返答――嫌味と取るかは相手次第。そして相手は―――なおも食らいついてきた。いくばかの悲しみを湛えて。
「ナタリー、信じてくれ」
その色に濁りがないからこそ。
だからこそ線を引き直さなければならない。――――たとえ、本当は真実を求めて問い質したくとも、その口から変わらない言葉を引き出したくとも。たとえ偽りでも求めしまう弱さを押し隠して。
「私が信じるか信じないかがそんなに大した問題でしょうか」
だから、もう話はおわり。
「ナタリー?」
「さようなら」
訝しげな色を浮かべた灰色の瞳を無表情に見上げ、それからそっと目を外すと脇をすり抜ける。数歩進んで、立ち止まり横へ目を落とす。
「友人を続ける意味もありませんよね」
そんなところで止めていられるか分からない。相手が誰でも不貞はしたくない。
「ナタリー・・・」
「これきりにして下さい。私は――もう・・・」
自惚れだと笑うだろうか。それでも仕方ない。切り捨てるものは切り捨てなければならないのだ。
目を見れば嘘をついていないのは分かる。よほどの演技派でもなければ――偽りではない。
どうして疑ったりしたのだろう。一時でもその言葉を。
いつでも偽りのない瞳を。
おかしくて笑みが零れる。
ある時は彼の言葉が偽りであれば良いと願い、ある時は彼の言葉が真実であれば良いと落胆した。てんで矛盾した自分が愚かしくて笑える。
足を踏み出す。
今日はこれからフローレンス、イジェンダと公園を散歩する約束がある。遅れてはならない。
後ろを振り返らずに歩き出――――
「っ!」
強い力に引かれる。均衡を崩した細い身体を受け止める腕がある。
「ナタリー」
すぐ上から低めの声が降ってきた。体が戦慄く。
「・・・僕を、愛してるんだろう? 本当は今も僕を愛している」
「・・・自信過剰」
笑い混じりに鼻を鳴らされる。そして宥めるかのように、後ろから回された腕に力がこもった。
「自分を殺してまで望まない結婚なんかしなくていい。――これからは自由の時代なんだ。古いしきたりなんて忘れてしまえ」
一呼吸置いて続ける。
「2週間後に僕はこの国を出る。一緒に南へ行こう。誰も僕らのことを知らないずっと、遠くの国へ」
「正気、ですか」
声が震えた。
甘い囁きだった。口の中で溶けて崩れる砂糖菓子のように。
揺れているのは風に遊ばれるその髪なのかそれとも―――
「いや、僕は狂っているよ」
肩に埋められた顔。彼の髪がうなじに触れ、くすぐったい思いをする。
「君という花に酔って、狂っている」
背中がかゆくなるような台詞だと跳ね返してやりたいのに、できなかった。声が――切ないほどに真摯で、陰を帯びていた。
早鐘を打つ心臓が全身に抑えきれない熱を伝える。
彼の腕にそっと触れ、さりげなくほどいた。
「・・・目を覚まして下さい。それに、私は自分で選びました。一番大切なのは、家族です」
「どうしてそう頑固なんだ。少し揺らしてみれば傾ぐかと思ったのに」
「どうしてそうしつこいんですか。往生際が悪いです」
「好きなものは譲らないからな」
「意味が分からないですし、馬鹿です」
「酷いな。こんなに愛してるのに」
声が剽軽になってきたところで抜け出す。そして気が変わらないうちに再び決別を告げる。
「さようなら」
「ナタリー」
「・・・・・」
「ナタリー!」
「・・・何でしょうか」
また足を止めて振り返ると、歩道の真ん中で佇む男は微笑みを浮かべた。
「薔薇は薔薇でも色々ある」
またいきなり何の話だ。
「そして、薔薇だって初めは名もない野の花だった」
暗い灰墨の色ではなく、落ち着いた優しい空の色が微笑む。眩しすぎる日差しではなく、柔らかい風に吹かれた曇り空。暫しの見つめ合いの後、
「また会おう」
「・・・これきりです」
男は軽く手を掲げ、少女は翻身し、道を進んだ。
***
青く透けた空に賑やかな声が響く。
ランデルマン侯爵領ノープトンの手入れされた林から野原に至るまで園遊会に集った人間たちで満たされていた。貴族に政治家、ジェントリ・・・。
白亜の大きなカントリーハウス近辺にはテントが張られ、ご馳走や花が配置されている。楽士の奏でる軽快な音楽を背に歓談が繰り広げられる。
その喧騒を遠くに聞きながら、ナタリーは館2階の化粧室で若干2名の女性たちに“遊ばれ”ていた。
「フローレンス、真珠の粉をはたいてみる?」
「あまり化粧はしない方がいいわ。ご夫人方がうるさいでしょう。この子は肌がきれいだから、大丈夫だわ」
「それもそうね。でも髪は凝らなければいけないわ! それと目も」
「そろそろ巻けたかしら――あら、うまくいったようだわ」
「艶が増して素敵。日が高いうちは下ろしておきましょう。少しリボンを編み込むのはいかがかしら」
「名案だわ。――ナタリー、シケっぽい顔をしないことよ。影の主役なんだから」
「眼鏡を外してみては駄目かしら」
人を肴にきゃいきゃい楽しげに騒ぐご令嬢方は、ナタリーで遊ぶことに共感したフローレンス・ディオンとイジェンダ・ランデルマンである。この2人を引き合わせたのは間違いだったと激しく後悔しても時既に遅し。
とりあえず眼鏡は大事なので死守する。
「外したら見えませんから!」
「見えた振りをしておきなさいよ。味気ない眼鏡がせっかくのドレスを殺してるもの」
親友により呆気なく却下された。
「そうね、眼鏡はずっと外しておいた方がいいわ。――ほら、髪に癖をつけると印象が柔らかいのよ」
今だけと言って眼鏡をかけ、出来上がりを確かめたナタリーは思わず鏡をまじまじと見てしまった。
艶々と緩やかに波打つ長い黒髪は一部がドレスと同色の髪飾りで編み込まれている。柔らかい青緑のドレスをまとった華奢な少女。分からないほど自然に化粧され、微かに色づいた頬。幼さと艶の不協和音がわざと強調されるような装い。
「・・・これ、私?」
「あなたではないと言うなら誰だと言うのかしら、ナタリー・フィガレット? オールドミスのような髪型よりはこちらの方が良くてよ」
「妖精のようね。お兄さまもきっと夢中になるわ」
イジェンダが嬉しそうに笑い、眼鏡を外し(フローレンスに取り上げられ)たナタリーは複雑な表情を浮かべた。
――社交界きってのプレイボーイ(ということにいつの間にかなっている)たる婚約者は美しい女性を見慣れているだろうに。その中で自分が一体どれほどのものかなど考える間でもないのに。
「ナタリー、笑いなさい。涙と笑顔は女の武器よ。使いようでどうともなるのだから。単純馬鹿はすぐ騙されるわ」
フローレンスの発言をイジェンダは聞かなかった振りをしている。さすがだ。
「ほら、捨て犬のような顔で婚約者に会うつもり? しゃんとなさい。第一印象は重要よ」
眼鏡を外してしまえば鏡の中の少女はぼやける。まるでナタリー・フィガレットという存在のように。
「そろそろ出ましょう。父や兄たちも姿を見せる頃だわ」
ナタリーの十倍も美しく凛々しいイジェンダが促す。ナタリーの百倍も自分の魅力を把握し最大限生かすことを知っているフローレンスが不敵に笑ってナタリーの手を取る。
――いきたくない
しかしそんな言葉は許されない。だから大人しく従う。衣擦れの音と共に階段を下へ。
――せめてこの美女2人と並ぶのだけは勘弁してほしい!
心の叫びなど彼女たちに聞こえるはずもなく、外へ歩みを進める。人々の目が一斉に集中する。華と言うべきは自分ではなく対のような2人の淑女なのだ。
――場違い
顔が火照り、一歩引いて友人2人の影の隠れる。
知っている
ここは優しいあの庭ではない
知っている
ここにあたたかい時間はない
知っている
ここに――少女をただの少女として見る人間はいない
「ナタリー、父が呼んでいるわ」
ハッとすればイジェンダが手招きをしていた。もつれる足を踏み出すと親友に引き止められた。
「?」
「顔が引き攣っているわ。いいこと? このわたくしが端正こめて飾り立てたのよ。台無しにしたら――分かっているわね?」
「うっ・・・ええ」
最高の笑顔の向こうに悪魔を見た。慌てて笑顔を作ると、行ってらっしゃいと背中を押され、侯爵のところへ。――どんな風に思われているのだろう。人の目が皆自分に集中しているように思える。あれが身の程知らずの小娘だ、と。
「よく来てくれた。今日は楽しんでいってくれ。愚息ももうすぐ着くはずだ」
侯爵と簡単な話をした後、イジェンダとリチャードに客の紹介を受け、さすがと言うべきか客の中には大物政治家や貴族がおり多大な緊張を強いられる。
『ほお、これがハロルド・ランデルマン伯爵の・・・』
『まあ、ナタリー嬢! しばらく見ないうちに大人になって・』
ハロルドが伯爵位を与えられているのを初めて知ったり、親の昔なじみらしい人間に絡まれたりと面白いこともあった。
しかし大部分が好奇と値踏みの視線を堪え、あちらこちらを回ればナタリーはすっかり疲弊してしまった。
元々社交は苦手でひたすら避け続けていたのだ。幾人かには好意的な言葉をかけられたことさえも頭に残らないほど精神的に疲れていた。作り笑いさえもうまくできているか分からなかった。
「・・・はぁっ・・・」
「疲れましたか?」
こっそりついたため息に気付いた次男リチャードがくすりと笑った。
「あ、いえ」
「無理はしないで下さい。いくらこれが仕事のひとつとはいえ、夜までずっとですから。気分が優れなければすぐ言って下さい」
「あ、ありがとうございます」
侯爵やイジェンダと違い、柔らかい茶色の髪のリチャードはナタリーよりいくつも年上だというのに腰が低く、そして穏やかに笑う。その笑顔を見て誰かを思い出したのは何故だろうか。
胸がずきりと痛む。
(だめだめっ! もう忘れなきゃ・・・)
何のために決別を決めたのか。
唇を噛んで俯いた時だった。
「レディ・ナタリー。兄が来たようです」
少しの喜色を含んだリチャードの声が耳に届いた。