Ⅶ水溜まりに映る濡れ鼠 | 風の庵

Ⅶ水溜まりに映る濡れ鼠

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 お気に入りのティーカップを落として割ってしまった。ハロルド・ランデルマンとの顔合わせがまたキャンセルになった。おやつに焼いたマフィンが黒焦げになった。
 買い物に出、バニラビーンズに向かって歩いていたら、すれ違った馬車に泥水をかけられた。

 嫌なことは重なるものだ。

 汚れたドレスにうんざりしながら眼鏡を拭いた後、ふと目に入ったものに思わず声が出た。

「・・・あ」

 人の行き交う通りの真ん中で呆然と突っ立っている少女に、すれ違う人間は不快な顔をする。しかしそれも気付かないほど、目の前の光景が信じられなかった。

 うそ

 誰かが肩にぶつかり、よろめいて濡れた石畳に尻餅をつく。ざらりとした泥の感触が冷たかった。

「おい、ボサッとしてんじゃねえよ! 通行の邪魔だ!」

 怒鳴られて慌てて建物の側へ寄る。その間も目は依然としてほんの50メートル先を捉えていた。

 信じられない。信じたくない。でも、見間違える筈が、ない。

「ちょっとアンタ、そんな薄汚い格好で店の前に立たないでおくれよ。商売の邪魔だよ」
「ご、ごめんなさい」

 店主に鬱陶しげに払われる。
 測ったようなタイミングで、誰かと笑っていた灰色の眼がこちらを向いた。ほんの一瞬交わる視線。呆気にとられたような端整な顔。何か言いそうに開きかけた口。
 その直後、身を翻した。通行人の不審な目を受けながら、脇目もふらずに駆けていく。
 ただ、ただ惨めだった。
 走るうちに熱い涙が溢れてきた。

 ハリーが知らない女性と、抱き合っていた。

***

 ほら、やっぱり。

 やっぱり、そうだった。

 例外なんてなかった。

 夜会へ行っても声をかけてくる人などなく、エスコートしてくれる従兄も義理で1度踊ればどこかへ行ってしまう。
 親友のフローレンスとのことでさえ、陰で引き立て役などと囁かれているのを知っている。
 初恋だった近所の男の子も、ナタリーよりずっと可愛らしい女の子と仲が良かった。
 親戚にもらうお土産は決まって一番いいものを弟やいとこたちが受け取る。余りものがナタリーへ。
 得したことなんてなかった。
 所詮人は外見。

 家に戻り、泥だらけの菅に目を丸くする家人に構わず部屋に駆け込み、鍵をかけた戸にもたれる。

 ハリーだって結局は――世間知らずの女の子をからかって遊んでいただけ。本当は他に女性がいた。本気に見せかけた演技でナタリーが戸惑うのを見て楽しんでいたのだろう。

「・・・・・っ」

 違う。何をいってるの。
 ハリーはそんなんじゃない。恋人でもなんでもないから私には関係な――

「っ、ふ・・・」

 次から次へと止めどなく溢れる涙が頬を濡らす。
――夢を、見ていた
 有り得ないと否定しながら束の間の甘美な夢に――幻に縋り、酔っていた。愚かしくも。
 こんな地味な自分が咲く場所など存在しないというのに。そんなことはよく分かっているはずなのに。現実はよくわきまえていたはずなのに――――――それでも、好きだったから。

 時に悪戯を思いついて光り、時に笑いかける静かな眸も
 馬鹿馬鹿しいような甘い囁きや朗らかに笑う声も
 優しくエスコートする大きな手も
 真剣にお茶の話をしたり
 くだらない世間話に笑ったり

「ぅ・・・うっ・・・」

 熱のこもった眼差しで名前を呼ぶ
 頬に触れて、キスをする
 知ってたはずだった

 全部、まやかしだと
 いつか現実が迫るのだ、と

 身の程知らずにも思い上がった自分が悪い。
 胸が痛い。張り裂けそうに痛い。
 ふと目を上げた先に、こちらを見つめる痩せっぽっちの少女がいる。
 ひっつめた黒髪。固い印象を与える黒縁眼鏡。赤く腫れた細い目。泥に汚れた地味なドレス――
 ナタリー・フィガレット。
 どうして、どうして私は母に似なかったんだろう。父ではなく母に似ていれば、ヘンリーのように母に似ていれば、もっと・・・

「なんて、考えたって・・・現実が変わるわけ・・・ないわ」

 涙の名残を追い払って、唇を引き結ぶ。ようやく戸から身を離し、髪を拭いて服を着替える。

「・・・これ、で思い残すことなくランデルマン家に嫁げるじゃない、の」

 鏡に作った笑みを映す。

――君の笑顔が好きだ

 脳裏をよぎった声は、聞こえないふりをした。

「・・・忘れてしまえばいいんだわ」

――嫌なことなど諦めて、忘れればいい・・・今までそうしてきたように
 諦めればなにも、こわくない
 かなしくない
 ただ心を無にすればいい―――――

 何かが自分の中で変わった。

***

「最近、あなた付き合いが悪くてよ」

 半眼で優雅に文句垂れる美貌の親友に苦笑する。

「色々あったのよ。悪かったわ」
「本当だわ、まったく! お陰でこの2週間、あの根暗男のうさを抱えて過ごさなければならなかったわ」
「そんなに嫌ならお断りすればいいでしょう」
「3回中2回は断っているわ! あああ! まるでナメクジのように粘着質だこと。塩を撒いたら干からびるかしら?」
「本当にやりかねない口調で言わないで」
「そんなことをこのわたくしがする訳がないでしょう。外面の良さだけは自慢できるのよ」
「間違っても自慢にすることではないわね」
「どちらにせよあのラッセル・アルフォードがうざったいことだけは変わらないわ。ああああ、気持ち悪い!」

 抱えていたクッションを親の仇のように捩り上げる伯爵令嬢の姿は見なかったことにしておく。
 ちなみにそのナメクジ、ラッセル・アルフォードとは先日催された舞踏会においてフローレンスをえらく気に入ったらしい公爵家嫡男である。ナタリーは見たことがないが、怒り心頭の美姫曰く、陰気で湿っぽく景気の悪い顔の愛想のない男らしい。
 一段上から社交界の物事を冷めた目で見ているフローレンス・ディオン嬢をここまで苛立たせるのは一体どんな人間なのか激しく興味をそそられるが、そんなことを口にしようものなら更に荒れるだけだ。触らぬ神に祟りなし。

「舞踏会より墓場がお似合いだわ」

 過ぎるほど率直な彼女が辛辣に人をこき下ろすことは、実はそう多くない。近づくだけでカビが生えそうだとかなんとか言ってるのは気のせいだと思いたい。

「そういえば、リープスター家の舞踏会でハロルド・ランデルマンを見たわ。噂に違わず美男子ね。伊達にランデルマン家の人間ではなかったようで、ご婦人方の注目を浴び通しだったわ。彼がエスコートしていた妹のイジェンダ嬢は男性にひっきりなしに声をかけられて、なかなか見ものだったわよ。あなたは誘われなかったの? まあ、あなたのことだから誘われても断るでしょうけれど」
「・・・そういう話はなかったわ」
「あら、そうなの? あなたの夜会嫌いを知っているからかしら」
「どうかしら。イジェンダは素敵な方だけど、ハロルド様はお会いしたことがないから分からないわ」
「なに、まだ顔を見ていないの? 一体どういうつもりかしら。いくら家格差があってもあり得ないわ」
「ランデルマン家の方々は機会を作ろうとして下さるけれど、当のハロルド様が予定がつかないみたいだわ。でも少なくとも婚礼には顔を合わせるんだから気にならないわ」

 少しの嘘に幾らかの本音。顔を知らないからか、なぜだか今はあまり腹立たしくないのだ。なるようになるしかない――諦めに似た気持ち。

「ふうん? 常識はずれなのは本当のようね。でもそれも納得できるわ。舞踏会でラッセル・アルフォードと話をしていたのだもの」
「・・・それは7割偏見ではないかしら」
「3割は正論だと思うのでしょう? まあ、ナメクジはどうでも良いのよ。それよりあなた、何があったの?」
「何がって、何が?」

 ドキリとして思わず目が泳ぐ。

「とぼけるだけ労力の無駄よ。このわたくしの目は誤魔化せなくてよ、ナタリー・フィガレット」
「ええと・・・ランデルマン家の方々とお会いしたわ」
「そんなことではないわ。ハロルド・ランデルマンからつれなくされても表情を変えないあなたが、その程度でそんなに疲れた顔をするはずがないでしょう。理由は他にある――」

 一体どういう目で見ているんだ。

「そうね・・・たとえば恋とか」

 危うく飲みかけのお茶を噴き出しそうになった。何とか嚥下するも動揺を隠し通すことはできなかった。

「あら、本当だったのね」

 かまをかけたらしい。
 じとっ、と睨むとフローレンスは優美な笑みを浮かべた。大抵の人間はこれでうっかり騙されるが、忘れてはいけない。美貌の淑女の腹は限りなく黒に近い。

「他言しないから安心なさい。で?」
「で? なに?」
「さっさと吐いておしまいなさい。2週間わたくしを放置した罰よ。相手はどんな下劣な男なの」

 眉をしかめたナタリーにフローレンスは平然とそう言った。

「下劣ってなに」
「あら、わたくしの友にダメージを与えるなんて下劣以外の何ものでもないでしょう」
「・・・・・」

 瞬きを忘れて親友を見つめる。

「会う機会があったら一発食らわせて差し上げるわ」

 もちろんグーよ、と普段と変わりない口調でさらりと告げたフローレンスに、遅れて胸がじんとした。
 弱々しい微笑みが浮かんだナタリーをフローレンスは静かな目で見た。

「どうして・・・」
「だから言ったでしょう。失礼だけれどあなたのことはご両親よりよく分かっていてよ。一体何年親友をやっていると思っているの。見れば分かるわ」
「ペンより重いものを持ったことのないお嬢さまに暴力は似合わないわ」
「まああ失礼ね。ティーポットはペンより重いわよ」

 言いながら顔を見合わせて笑う。

「婚約者がいるのに気を迷わせた私を愚かだとは思わない?」
「あなたが自分を愚かだと思うなら愚かなんでしょう。でもわたくしは淑女のあり方について蘊蓄たれる趣味はなくてよ」
「私が力を抜いた私でいられるのはあなたの前だけだわ」
「ふふ。当然よ」

 そうしてナタリーはようやく、ずっと独り秘めていた出来事を打ち明け始めたのだった。

 そんな少女の元へ異なる送り主から異なる贈り物が届いたのは、その翌日のことだった。




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