Ⅱ曇り空はパラダイス | 風の庵

Ⅱ曇り空はパラダイス

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 ピアノも刺繍も歌もやっぱり程々にしかできないし、文学や芸術に疎いナタリーが唯一褒められるとき

 それはティータイム。


 お茶なんて召使いが淹れるのが普通だろうに、家にいるときは必ずナタリーが自分で淹れていた。

 別に特別なことをしているわけではなく、ただこうすれば美味しくなるという方法に忠実に淹れているだけで。

 それでも少しは評判で、両親の知人たちが来るとナタリーの紅茶を、と声がかかるのだ。
 最近はちょっとブレンドして、かっこつけてみたりしている。

 アプリコットやベリー、リンゴ、マンゴーなど珍しい南国フルーツといったドライフルーツを混ぜると芳しい香りがつくことを知った。

 精油を使うのもひとつの手。レモングラス、カモミールやラベンダー、ミント等昔ながらのハーブティーも好きだ。
 時々組み合わせに失敗してまずいお茶が出来上がることもある。

 他人に飲ませるわけにはいかないので自分で色々な材料を集めては暇な時に実験をしていた。

 ただ、南国の果物など外国産の材料は高くつくので少量しか作れない。

 そんな風にして今日もナタリーは1人でお茶を楽しんでいた。

 フローレンスは用事があって今日は会えない。

 ナタリーはいつもの通りに、“花園”と呼びたくなるほど様々な花々の咲きほこる庭の東屋で新しいブレンドを試していた。
 セイロンティーをベースにマンゴーとパパイヤのドライフルーツ、ほんの少しアプリコットも混ぜてみた。

 見た目も重視して薔薇やマリーゴールドなどの花びらを加える。

 少しの酸味に甘みと南国フルーツ独特の香りが混ざってなかなかの出来だ。
 フレーバードティーはお茶請けがなくともそれだけで楽しめる。

 胸一杯に吸いこむと自然に笑顔になれそうな柔かな芳香は風に乗って庭を巡っていく。
 薄曇りだから外でいても眩しくなくてちょうどいい。


 ノートに組み合わせをメモしながらなんと名付けようかとあれこれ考えていた時。

「いい香りですね」

 低めの朗らかな声がした。

 ペンを止めて声の方に目を向けると、穏やかな笑顔を浮かべた男性が生垣の向こうからこちらを見ていた。
 驚いて固まっていると、男性は「その紅茶の香りかな?」と訊ねてきた。

 慌てて頷くと、興味津々という風に灰色の目を輝かせた彼に「良かったらどうぞ」と呼びかけた。
 あまり不用意に見知らぬ人を招き入れるのは良くないが、しかしこの庭は通り沿いにあるから見通しも悪くないし、地味なことこの上ないナタリーが襲われる心配はないだろうとたかをくくっていた。

 何より出来栄えの良く思える新作の感想を誰かから聞かせてほしかった。

 男性は木戸を開けて庭に足を踏み入れると、ゆったりとした足取りで向かって来た。

 グレーのフロックコートにハンチング帽と、最近の流行と照らし合わせれば少し変わった組み合わせだが不思議と男性に似合っていた。

「通りすがりの僕を招いてくれてありがとう。思いがけず可愛らしいお嬢さんとお茶が頂けるなんて今日はついてる」
「まあ、お上手ですね。さあどうぞ」

 彼はナタリーの前へ来て帽子を取ると軽く会釈した。

 艶やかな黒髪が現れてナタリーは目を瞬いた。帽子に隠れていた髪が露になると男性はいくらか若返って見えたのだ。長めの前髪が少年めいた風貌に見せかけている。
 男性は椅子に座り、早々にナタリーが淹れた紅茶を口に運んだ。

 一旦香りを吸ってから一口含む。そして目を閉じてゆっくり飲み下しだ。

「これは・・・素晴らしい香りだね。飲んだ後、鼻に抜けていくこの余韻がなんともいえない。味も良いし、一体どこで手に入れたんだい?」
「ええと・・・私がブレンドしたんです」

 男性は驚いたように目を見開いた。

 それから徐々にその顔に喜色が満ち、彼は感嘆の声を上げた。

「君が? それはすごいな! これはなんという名前なんだい?」
「それが、まだ決まっていなくて・・・」

 ナタリーが恥ずかしそうに言うと、男性は材料を問うてからもう一口飲んで思案するように目を閉じた。

 ナタリーよりはずっと年上だろうが、よく見れば整った顔立ちの人だ。

 通った鼻筋、薄い唇、切れ長の目、シャープな顎のラインが男らしい。

 だが不思議とあまり近寄りがたい雰囲気ではなかった。

 緩く笑みを描いた表情になぜか少し胸が沸き立った。

「パラダイス」
「え?」

 相手が目を閉じてるのをいいことに無意識に見惚れていたから反応が遅れた。

 男性はゆっくり目を開いた。

 温柔な灰色の目と正面からかち合い、ドキリとした。
 あれ、おかしい。なんで顔が熱いんだろう。

「パラダイス、という名はいかがかな?」
「パラダイス・・・」

 ナタリーは手元のカップの中の橙色に揺れるお茶を見つめた。

 男性は構わず感想を述べる。

「酸味が甘い芳香を抑えているからくどくないし、さっぱりしている。異国の香りが新しい世界を広げているね。緑と鮮やかな花々・・・熱帯の島々を思い出すような味と香りだ。それでもクセが少ないから飲みやすい」
「南国へ行かれたことが?」
「ああ、数えるほどしかないけどね。仕事柄あちこち足を運ぶもので。この国と違って空が抜けるように青いんだ。何もかもが鮮やかな色で、あたたかい。それをこのお茶は思い出させてくれたよ」

 ややあって、笑みを深めたナタリーに男性もにっこり微笑んだ。

 とても自然に笑う人だ。

「ありがとうございます。そんな風にいって頂けて嬉しいです。今まで皆美味しいとしかいってくれなかったので・・・」
「そうかい? 私も楽しいティータイムにあずかれて嬉しい。失礼だが名前を伺っても?」
「あ、私はナタリーといいます。ナタリー・フィガレット。あなたは・・・?」
「僕はハリーだ。また来てもいいかな、ナタリー?」

 冷静に考えれば婚約者のいる身で他の男性と親しくしてはならないはずなのに、気がつけば頷いていた。
 ハリーは嬉しそうに笑うと残りのお茶をゆっくりと楽しみはじめた。

 他愛ない話をしながらナタリーはハリーを観察していた。

 仕草が洗練されているところを見るとそう悪い育ちでないのは分かる。態度も穏やかで紳士的だ。
 人は見かけによらないと言うが、この男性には好感を持てる。

 話上手で、ナタリーと違って人を惹きつける魅力を持ち合わせているのだと分かった。

 相手に気を遣わせずに笑顔を引き出してしまうのだ。
 貿易関連の仕事をしているという。ハリーに似合いの仕事だろう。

 事実ほんの短い時間でナタリーは彼の巧みな会話術に引きこまれ、完全に心を開いていた。
 それでいて計算高いようには見えず、ナタリーが焼いたクッキーを差し出すと子どものように目を輝かせる。

 その表情が弟のヘンリーと同じで、思わず笑みが零れた。

「ナタリー、そのノートは?」
「これですか? 実験のメモです。材料、分量、湯温、蒸らし時間、香りや味の特徴など・・・あとは、名前ですね」
「へえ、何だかすごいな。本格的だ」

 本当にそう思っているかのようなハリーに笑う。

 そして書き加えながら紅茶を口に運ぶと湯気で眼鏡が曇ってノートが見えなくなり、仕方なしにナタリーは眼鏡を外してハンカチで拭いた。眼鏡を外した途端に視界がぼやける。

「・・・?」

 ふと視線を感じて目を上げると、ハリーがこちらを見ていた。

 だが眼鏡がないから表情がよく見えず、ナタリーが不思議に思って首を傾げると彼は、ふ、と微笑んだように思える。眼鏡をかけなおしてから目を向けると、ハリーはまたお茶を飲んでいた。
 なんだったのかよく分からないが、すぐにハリーが実験について質問してくるのでナタリーの気はそれた。

 ハリーの優しい笑顔。礼儀正しいがあけすけな性格。

 彼は今まで会った人々と違い、ナタリーを値踏みしたり見下したりしない。

 今日初めて会ったというのに、一緒にいると春の柔かな日差しのように胸がほんのりと温かくなる。

――この人が私の婚約者だったらいいのに

 無意識に浮かんだ思いにハッとした。すぐカーッと顔が熱くなる。
(わ、私なんてことを・・・!)

「どうかしたかい?」

 ナタリーの様子に気づいたハリーが話を中断して不思議そうにこちらを覗きこんでくる。
(いやー! 今そういうのはやめて!)
 ますます顔に血が集まって来るし、胸はバクバクいうしでナタリーはてんてこ舞いだ。

 顔を背けたナタリーにハリーは、はじめきょとんとしていたが、すぐにその唇は弧を描いた。

 先までの人の好いものと違い、なんだか意地悪なものだ。

「ナタリー?」
「は、はいっ?」

 赤い顔を今さら隠せない。

 観念して目を向ければハリーは悪戯っ子のようにくすくす笑っている。

 それにムッとした。

「なっ、なにが可笑しいんですかっ」
「いや、悪い。馬鹿にしてるとかじゃないんだよ。ただ・・・」

 笑み絶やさずハリーはナタリーを見た。視線が絡む。

 その眼差しに何か形容し難いもの―妙な艶かしさ―を感じてナタリーはまた顔が熱くなった。

 そして次なる言葉に盛大に心臓が跳ねた。

「ただ、可愛くて」
「ご、ご冗談を」
「冗談ではないよ。君の笑顔も素敵だし、そんな風に照れてるところも可愛らしい」

 ひえー!

「わっ私は可愛くありません。そんなことは自分で分かっています! からかうのはよして下さい」

 そう、褒められるような愛嬌も美しさもナタリーにはない。

 地味な顔立ちでスタイルも良くないのに飾り立てても滑稽なだけだから、装飾の類いは一切しないしドレスもシンプルなものしか身に着けない。父親似のナタリーは可愛くない。
 なのにこの男性は懲りもせずに言う。

「なら君は少しばかり見方を変えた方がいいね。自分の魅力に気づいてないなんて勿体ない」
「もう本当にやめて下さい。そういうのは嫌なんです・・・」

 必死な思いでそう言うとハリーは一瞬口を閉ざしたが、すぐまた開いた。

「君は、僕が慰めのつもりでそんなことをいってるとでも思ってるのかな」

 その、微かに棘を孕んだハリーの言葉にハッとして彼を見ると、ハリーの灰色の瞳は先までの日溜まりのような暖かさが消え、少しも笑っていなかった。

「あ・・・」

 すぐに後悔が押し寄せてくる。
 失敗した。

 こういう時は不本意でも感謝して話題を変えるのが得策なのに、忘れてムキになってしまった。

 気を悪くされてしまっただろうか。
 急に怖くなって顔を強張らせたナタリーにハリーは表情を和ませると、またふっと笑った。

「そんな顔をしないで。僕が苛めたみたいだ」
「ご、ごめんなさい・・・」
「謝る必要はないよ。僕こそすまない。だがさっき言ったのは本当のことだよ。君は可愛い」

 何でさらりとこういうことを口にしてしまわれるのだろうか。

 意思とは無関係に頬にまた熱が集まってくる。

 ナタリーはもどかしい思いでハリーを見返した。

 ハリーはまた微笑むと「さて、そろそろお暇するかな」と席を立った。

「また美味しいお茶をご馳走になりに来るよ。いいかな?」
「は、はい・・・」

 帽子のつばに手をかけて軽く挨拶するとハリーは来た時と同じく木戸を押して去った。


――君は可愛いよ

 耳に残っていた声が胸を震わせた。

 心の底に溜まったものが渾淆として自分の中ではっきりしなかった。
 無意識に胸元を押さえてナタリーは彼が去った方向を見ながら立ちつくしていた。


 微風に運ばれて“パラダイス”の香りが鼻腔をくすぐった。



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