「ジャズと関わって、早30年、もう体に染み付いています。」なんて、書き始めたジャズ日記でしたが、1年半でもう、ネタ切れとなりました。これ以上、無理に土日の更新を続けると、書かなくていいことまで無理に書いてしまいそうです。そこで、ここらで小休止とやらにしたいと思います(いわゆるミクシィ症候群?)。でも、ジャズのことで、感動的なことがあったら、気ままに更新しますね。それに、今までの日記は、それなりにkumac的ジャズ・アルバム紹介となっておりますので、どうかご活用を。
 って、書いてもう4ヶ月くらい過ぎてますが、気分はまだ「小休止」です。でも、更新の頻度が何故か上がって来てます。
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2016-11-27 05:09:47

Franco Piccinno『Migrations』

テーマ:2010-2014

 2014年10月録音。イタリアのピアニスト Franco Piccinno のトリオ作品です。録音から発売まで1年半以上の時間がかかっています。この時間のズレが何を意味するのか、さしたる意味がないのか、判りませんが、なんとなく気になります。

 

どうして最初から、どうでもよい話をしたのかと言えば、最初に聴いた印象が、<時間>というものを感じさせたからです。よく、生活していて感じることですが、時間が早くすすむ、とか。時間が進むのが遅いとか。そういうところで、この作品は「時間が進むのが遅い」という感覚を第一印象として持ったのです。

 

 別な言葉で表現すると、<重厚>な音の響きです。メロディー自体もいたってシンプルで癖のある、妙に自己主張をするような癖は感じません。他のジャズミュージシャンで言えば、ブラッド・メルドーのような演奏です。メルドーのタッチは羽の生えたように軽いのですが、Franco Piccinno は至って正統な弾き方をしていると思います。

 

 音をなぞるような弾き方はしていません。どの音も、明確な自己主張を伴っています。だから、落ち着いて聴けます。心地よいとさえ言えます。安心できる、そんなことを言いきっても良いかもしれません。破綻はありません。

 

 情感は豊かです。だから、ジャズ的な雰囲気作りにはもってこいの作品だと思います。でも、けっしてイージーリスニングの代替えにはならないと思います。聴いていると、音の連なりに引き込まれる危険姓があるからです(褒め言葉です)。

 

 現代のヨーロッパのメインストリームジャズの範疇にあきらかにずっぽりと入る作品だと思いますが、個性を際立たせないところがいいです。かといって、凡庸には感じられない、どこか新鮮な響きを持ちます。この辺りの印象が、時間を感じさせるものかなと思います。それは、即時性を感じるからだと思います。時代を共有しているなという演奏です。それは、善し悪しですが、これ以上突き詰めて考えると、ことが複雑になるので、そもそもジャズから離れてしまいます。

 

 ということで、意外に手応えのある作品です。

 

 

 

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2016-11-20 04:06:24

Sebastian Noelle『Shelter』

テーマ:2015-2019

 1973年ドイツ生まれのギタリスト、セバスチャン・ノエルの作品です。ネットでググるとヨーロッパの現代ジャズギタリストと出てきますが、2002年からはアメリカに活動の拠点を移しています。

 

 ジャズにおけるギターによる表現は、なかなか難しいと kumac は考えています。まず、切り口の問題。例えば、集団演奏におけるリズム楽器としての柔らかいジャズギター、例えば、チャーリー・クリスチャンから続く、ワンホーンライクなブルージーでシングルトーンのメインストリームを貫く陰影を持つジャズギター。そして、ロックの影響を避けて通れなくなった感情を露出したジャズギター。そして、ヨーロッパに起きた実験的なジャズギター(ディレク・ベイリー、テリエ・リピダル等)。

 

 様々な音楽と融合してきたジャズの歴史の中で語ることもできるし、そうかと言えば一瞬で感知してしまう音色で語ることもできるような気がします。

 

 グラント・グリーンの音色とパット・メセニーの音色は明らかに違います。では、ジム・ホールの音色はどちらに近いか・・・・。これは、感覚的というか、感情的なもので好き嫌いに繋がるものです。

 

 セバスチャン・ノエルは、ジャズの歴史的な系譜の中で捉えれば、テリエ・リピダルの演奏に近似的な印象を持ちました。やはり、活動の拠点をアメリカにしているとは家、演奏はヨーロッパ大陸の匂いを感じます。また、環境音楽に近いものを目指しているとも感じます。

 

 例えば、4曲目「Rolling with the Punches」はミニマルミュージックの手法を使いながら、何かを主張するわけではなく、ある一定の音の印象を描いてゆくものです。それは、気持ちよいものです。けっして感情を揺さぶるものではなく、あくまで場を静めるための音、手法というものです。セバスチャン・ノエルのギターの音色の特徴を演奏と絡めるとすると、こういった演奏が一番、しっくりとくるのではないでしょうか。

 

 どちらかというと、こういう演奏からフリーフォームに近い傾向の演奏が多いのですが、心地良さを求める方向に向かわないこと自体が、ジャズの本道を行っているとも言えるかと思います。こういう芯の強いミュージシャンは尊敬に値します。つまり、決してメジャーに向かわないところがいいですね。 

 

 こういう音楽にはかなり生理的な感情が先に走ってしまうことが多いと思いますが、、音楽接する態度としては、「現に今、聴いてい」るということ自体いおいては、それが受動的だろうが能動的だろうが、自分の<心に起こったこと>に素直に従うことが肝要かなと思います。そして、それがどうしてだろうと自問自答することができたら、もっと素晴らしいことではないかと思います。

 

 

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2016-10-23 06:21:06

Cyrus Chestnut『Revelation』

テーマ:1990-1994

 アメリカのピアニスト、サイラス・チェスナットの1993年録音のトリオアルバムです。kumac は、彼の名前だけは聞いた覚えがありますが、名前と演奏を結びつけて、きちんと認識して聴いたことはありません。というよりも、誰かの作品のサイドミュージシャンとして聴いたかも知れない、といった程度です。

 

 彼がジャズシーンで名前が売れ始めたときは、kumac がほとんとジャズを聴かなかった時期に当たります。今も、名前でCDを買ったりはほとんどしません。大体、新作は、8割方ジャケ買い+お店の宣伝の文章だけです。廉価版を買うときは、なるべく知っているミュージシャンは、特定の人(例えば、コニッツとか)以外、避けるようにしています。

 

 それなので、kumac の住む田舎の CD ショップで廉価版を見ていたら、この得体の知れない(失礼)名前にを食指が動いたわけです。

 

 小気味よい演奏です。これぞ、ピアノトリオといった音の風情です。衒いなく(自分の個性を強調することなく)、内なる良心に従って、心地よい演奏をしています。この<内なる良心>って、いわゆるブルージーなゴスペルを感じさせるネイティブで根源的な、新しさを追い求めるような邪心がない無垢な心、といっていいでしょうか。

 

 だから気持ちよく聴けます。最高です。何も言うことはありません。決して裏切ることがありません。安心して聴けます。少々、物足りなく感じるかも知れませんが、そういうときは躊躇なく、他のミュージシャンの作品に替えればよいわけです。

 

 ライナーノーツ氏(ワーナーミュージック<WPCR27914>)の文章を読むと、1990年代に日本でリーダー作を録音し、そのときのベースがクリスチャン・マクブライドだったと記載がある。確かに、ここでのベース、クリス・トーマスの演奏を聴いていると、アプローチが似ている。それでなくても、クリスチャン・マクブライドが演奏したがるような曲調が全体の雰囲気を支配している。どっちがどうかしらないですが、ウイントン・マルサリスの原点回帰の動きに呼応する印象を持ちます。

 

 どの曲がどう、といいよりはすべてがジャズの醍醐味、恍惚、即興、衝動、哀愁、神聖など、を見事にコンパクトに収めた作品です。

 

 最近のヨーロッパのいわゆるロックでクラシカルなジャズばかり聴いていると、こういう本場アメリカのオーソドックスなものを聴くと、心躍り、そして心が落ち着きます。

 

 良いですね。

 

 

 

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2016-10-16 05:10:14

Daniel Zamir『Forth and Back』

テーマ:2015-2019

 このCDタイトルの『Frorth and Back』という言葉は、ジャケットには書かれていない。では、どこにあるのか?それは、ジャケットを覆うビニールの包装に貼られている、普通、「New!!」などと書かれている宣伝文句のようなの丸いシールに何気なく、書かれている。だから、聴こうとしてシールを剝がしてゴミ箱に捨てると、どこにもタイトルが見当たらないことになる。強いて言えば、ダニエル・ザミールという名前だけが残る。

 

 解釈は、こうだ。聴こう(意思が前に進む:Forth)として、行動(ビニールをを破り捨てる)すると(立ち止まる:and)、期待したもの(自分)がない(ない)、そこで戻る(自分ってなんだろうと過去を考える:Back)。

 

 作者の意図とは全く関係の無い変なことを書いたが、表現としてはベーシスト、アヴィシャイ・コーエンのジャズに対する接近の仕方に共通項を見いだせるイスラエル出身のソプラノサックス奏者、ダニエル・ザミールの作品を聴いて、謎解きを最初にしたくなった。

 

 イスラエルのミュージシャンを色眼鏡で見ようとは思わないが、彼らの表現の根にある精神に近づこうとすると、このようなブルース(土着性)に出くわす。先日、聴いた梅津和時が演歌調のブローをジャズ、アルトサックスで行わざるを得ない状況に陥ったことと、完全に相通じることを考えざるを得ない。

 

 単純な言い方になるが、エルサレムが三つの宗教の聖地であるように、この音楽にはアラブとユダとイエスの元となる血が完全に流れている。それが、彼らのブルースだ。

 

 ジャズとしての要素だけで聴くと、心地よいソプラノサックスの音です。展開(アドリブ)も見事だし、ストレートで情熱的でかっこいい(現代的、ロック的要素を持つ)です。だから、あまり、最初に書いた音楽とは関係の無い話を、先入観として持つ必要はないと思う。純粋にジャズとして楽しめる作品です。

 

 ソプラノサックスで、ここまで朗々と吹く作品を kumac はこれまで聴いたことがない。アヴィシャイ・コーエンにも通じるかも知れないけれど、楽器を、音色を操るということでは見事としか言いようがありません。

 

 5曲目「Two」は、どこか e.s.t. を思わせる郷愁がある。それは、現代的な感覚(ロック、民俗性、デジタル化などです。)が染みているということですが、若い世代が熱狂的になるということでは欠かせない要素になっているけれど、そこがワンパターンに陥るコマーシャル化(つまり、世の中に認められるという点で今の世の中に欠かせないこと)という危険姓を孕む。こういう方向に音楽(ジャズ)が動いていることは、多分、一過性の流行と思った方が良い(最低、四半世紀単位で考えると)。

 

 だから、これからどうなるかと考えると面白い。

 

 2015年1月録音。

 

 

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2016-10-10 07:15:12

生活向上委員会2016+ドン・モイエ

テーマ:ライブ

 梅津和時は、一度しか生では聴いていないと思う。それは、私がまだ大学1年生だったとき、1977年頃だったと思う。八王子のアローンのさよならコンサートで聴いた、1回のみであった。しかし、梅津和時がそこにいたことは知っていたが、演奏自体生活向上委員会管弦楽団としての集団演奏だったので、井上敬三以外のミュージシャンの記憶はほとんどない。

 

 しかし、若かりし頃の kumac は、大いに刺激を受け、その後のジャズに対する姿勢に大きな影響をこの時の体験により受けている。生活向上委員会といいう名は、そのときに生まれ、その後数年続いて消えたと思っていた。

 

 そこに、先日、梅津和時が隣町に来るという、そして何とかというバンドとのコラボだという。kumac は、てっきり、コラボの相手が「渋さ知らズ」だとそのとき咄嗟に思った。梅津和時自体は、聴きたいとは思わない。そして、渋さ知らズも、あのワンパターンはもう聞き飽きた。変化のないジャズは、心地よく聴くという点では、緊張と理解を無理強いしないものでなければいけない。そういう変化のないジャズ(いわゆる普遍性)は、またジャズの本来のあり方の一つだと思っている。

 

 そんなわけで、聴きに行く気はなかった。

 

 でも、数日前に友人から、チケットが1枚余っているのであげると言われた。送られてきたチケットに添付されていたパンフレットには、「渋さ知らズ」ではなく「生活向上委員会」という言葉が書かれていた。何を今更、そんな名を冠するのだろうか?。という疑問が kumac には生じた。それで、現在形の生活向上委員会とはどういう演奏をするのだろうか、という興味で聴いてきた次第です。

 

 結論を言えば、「生活向上委員会」という言葉は、人寄せパンダです。kumac みたいな昔を懐かしんで50,60代の、へそ曲がりのへんてこりんな人間達を呼び込もうとする算段だと理解した。とは言っても、こんなド田舎に人と変わったことに興味を持つ人間は、そうは多くない。隣町の教育委員会は、生涯学習に対する積極的な仕掛けを行っていると、ちょっと聞いた。例えば、映画館のない街なので、月に1回定期的な文化的な香りのする映画の上映会を行っているとか、新聞に、面白い企画を仕掛けていると紹介されていた。多分、その一環で、宮城出身の梅津和時に白羽の矢が飛び込んだのだろう。

 

 演奏は、休憩時間を挟んで前半と後半に別れていた。そして、演奏内容も、かなり違っていた。演歌と民謡の違いまではない程度であるけど。

 

 前半は、フラッシュバックしたかのような、定型的な、なんら変化のない普通のフリージャズ演奏だった。多分、原田依幸に、梅津和時が寄り添ったのだろう。このなんか懐かしく、自分も歳をとったな(緊張が持続しなくて付いて行けない)と思わせる演奏の中で、ドン・モイエだけが、とても自由にリラックスして演奏していたのが印象的だった。まったく、力むところがない。それなのに、すべてが音楽となっていた。平坦な音の中に、ドン・モイエのドラミングが時々際立っていた。

 

 後半は、少しリラックスした演奏に入った。つまり、緊張の糸が切れたわけではなく、音に寄り添う感覚が漂ってきた。ただ、原田依幸だけは自分のフリージャズニストとしての領域を死守しようとしてつまらなかった。梅津和時の演奏は、最初に書いたように、生で聞いたのは大昔だったが(それも特定の演奏は記憶にない)、テレビなどでたまにバックで演奏する姿を見ていると、演歌っぽい印象を持っていた。日本的な情緒であるが、まさに熱唱していた。ドン・モイエは相変わらず自由であった。

 

 演奏自体は、面白かった(後半のみですが)、これは、絶対にキャパ100人程度の小さな箱で聴けばまるで違った雰囲気になったと思う。これが一番残念だったことだ。もし、満員の会場であったら、彼らの熱気は中を舞って、客を巻き込み一体となってカオスを生み出したであろうに、実に、実に残念であった。

 

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2016-10-09 06:38:52

Filippo Viganato『Plastic Breth』

テーマ:2015-2019

 1987年に伊ヴェネトに生まれた Filippo Vingnato (フィリッポ・ヴィニャート)(Trombone , Filters)による作品。他に、Vannick Lestra(Fender rhodes , Synth Bass)、Attila Gyarfas(Ds)が加わっている。録音は、2015年3月8日(パリ)及び8月21日〜22日(ハンガリー)と CD にはクレジットされている。レーベルは、イタリアの AUAND RECORDS だが、どうもこのフィリッポ・ヴィニャート 

の活動の場は、イタリアに限らず、パリを中心としたヨーロッパ全域ではないかと推測する。

 全くの現代音楽である。それにジャズの要素が加わったと理解した方が良いのではないかと思う。ジャズにおけるトロンボーンの変遷を考えると、かなり初期から重要な要素を占めていた。それは、ジャズがまだトラディショナルな集団演奏の形態が主だった時期に、音の広がりを創り出す、重要な役割を持っていたからだと思うし、そもそも楽器としてクラシック音楽では欠かせない主要が楽器として認知されていたから、また軽音楽に置いても中音域の膨らみを出すためには欠かせない楽器となっていた。

 それが、ビーバップ以降、器楽演奏のソロがメインとなってから、楽器の特徴からなかなか主役を張れない時期が続いた。今でも、トロンボーン奏者の作品はあまり出てこない。結局、J.J.ジョンソンを筆頭とするハードバップの時代において、単楽器としてのそろによるアドリブ演奏が確立されて以降、それを打ち破る奏法や音作りは見当たらないと言っていいのではないだろうか。それ以外は、やはりオーケストレーションの中で、相変わらず音の領域と膨らみをもたらす重要な楽器としての位置を保つしか、生きる道を見いだせないでいる。

 極端なことを書いているが、この作品は、では、そのどちらかと言われれば、アンチ J.J. ジョンソンである。自分のCDを出す段階で、すでに主役になっているわけであるから、集団演奏になるかならないかという選択肢において、トリオという形態になれば、ソロ楽器としての作品とならざるを得ないのだが、かといって単純にオリジナルだろうがなかろうが、ある楽曲をテーマにして自分のアドリブ演奏の妙を世に示そうとするものではない。その意味で、アンチ・・・である。

 しかし、シンセサイザー奏者がクレジットされているように、音は単純ではない。言ってみれば、新しい音、刺激のある音、自分が求める演奏に必要な音、をの音に対してどうシュミレートしてゆくか、ということがこの作品の肝ではないかと思う。それ自体が、新しい現代のトロンボーンの世界の音への挑戦、みたいなことだと思う。本人にとっては、それがジャズだろうが、そうでなかろうがあまり関係はないのだろうと思う。この作品の音を聴いていると、そう思わざるを得ない。ただし、ドラマーの音は、完全なジャズのアプローチである。

 江戸時代、無類の動物好きの将軍徳川吉宗に中国の商人から献上された象が、東海道、箱根の関所越えを行い江戸に連れてこられ、将軍に披露されてから約22年間生きたと言われているが、その時々に、聞こえたであろう象の嘶き、といったことをイメージするとよく理解できる( kumac だけかな?)作品である。とにかく、娯楽の要素はほとんどない。聴く側は、実験音楽を聴かせれている感覚になると思う。

 そういう音楽が好きな人はこの世の中、いくらでもいる。実験であるから、成功・不成功が結果として存在しているわけで、その結論がどの時点で示されるのかということが問題としてあるけれど、今はまだそういう時期ではないということだろう。ただし、面白いことには間違いない。

 一番ジャズらしい演奏は、8曲目「Stop This snooze」辺りかな。一定の規則性を持った単純に3人の演奏が絡み合う、いわゆるフリージャズである。感情なり、意思をぶつけ合うという感覚である。その意味で、聞きやすい。音にひずみもなく、演奏は洗練されている。全体的には、アルバムタイトルが示すように無機的な音である。そういう演奏が好きな人には、快感である。

 

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2016-09-17 08:54:35

Junk Onishi『Tea Time』

テーマ:2015-2019

 

 

 大西順子の何度か目( kumc の記憶では2回?)の引退後の復帰作です。

 kumac は、大西順子の演奏は好きです。でも、熱心には聞いてきませんでした。それは、どうしてか。自問自答してもよくわかりません。要は、タイミングなのです。 kumac がジャズをあまり聴かない時期にデビューし、話題となって

気になっていたら、たちまち引退してしまい。結局、CDでしか彼女の演奏は聴けないことになってしまいました。過去のミュージシャンや海外のミュージシャンの場合、生演奏をきけなくてもいいのですが、日本に住んでいるミュージシャンの場合、一度はこの体で体験したということがあり、それが無理な場合は、自然と距離が生まれます。なので、大西順子の場合、視野にないのです。

 ところが、kumac の住む田舎町に今度、現れるらしいのです。それも、日野皓正と綾戸智恵というメンツで、ちょっと意表を突くメンツです。てなわけで、この復帰作を買った次第です。

 冒頭、1曲目、「Tea Time 2」の出だしの音は、完全に菊地成孔の世界、と思わせるところがあります。それは、軽妙で無機質な音なのですが、そこに大西順子の重厚なピアノの響きが重なってくるという演奏です。互いの共通項は、じめじめしていなくて乾いているということです。ここでの、大西順子の演奏は、自己の世界を追い詰めるということではなく、菊地成孔の提示する音に従順です。大西順子のジャズに対する姿勢は、<破壊>という言葉で括ることができそうな気がしていますが、それが引退という行動に繋がるのかなと思のですけれど、ここでは、新鮮な気持で活き活きと弾くことができるという、そういう状態を大西順子にもたらしていることで、この作品は成功しているのだろうと思います。でも、どうもこれに飽きたら、つまり外来因子の刺激だけで泳ぎ回れるほど、ストイックな姿勢を持って音楽に対峙する場合は、甘くはないのではなかろうかと思います。

 ざっと、聴いての最終的な kumac の感想はこのようなものです。あとは、大西順子の既存の世界を純粋に楽しむということで良いのだと思います。それなりに、プロデュサーが明確な位置を占め、音楽全体を文字通り統括しているのですから、色鮮やかではあるし、一曲ごとに明確な想像へのこだわり、あるいは煽りはあるのであると思います。

 人に気に入れらることに淡泊な人がいます。大西順子もその一人だと思います。ジャズミュージシャンは、そういう人の存在の締める割合が大きな職種だと思うのですが。例えば、レニー・トリスターノもそういう部類だろうし、マイルス・デイビスもそれに近いと思います。では何のためにプロとなって演奏の機会を得ようとするのか、そして何のために求めに応じるのかとなるのですが。それは、性(さが)なのだろうと思います。ざっくりとした話で恐縮です・・・。だから、定まりがない。人のために生きようとしない、そんな姿勢を大西順子には感じます。

 結局、菊地成孔の存在は、使い勝手の良い、使い捨てコンロのようなものかもしれません。菊地成孔は、流行に敏感だと思います。時代の模倣に徹しています、創っているようで実は追随しているというのが私の印象です。自己の音楽の形成においては、まだ慣れてない。器用ではないと思います。その理由は、音が明らかに時代の雰囲気に対して類似性を有しているからです。

 だから、菊地成孔はここでは完全に大西順子に喰われていると思ってしまいます。

 

 

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2016-06-05 08:21:59

John Lewis『Evolution』

テーマ:1995-1999
 もし、私がMJQのアルバムでどれを聴いたらよいか尋ねられたら、迷わずにラストコンサートをその方には推薦します。理由は、もちろん、「(MJQの作品で、自分が聴いた中で一番良い演奏だから」となります。では、何が良いのだろうか?まずは、何度聴いても飽きないこと。次に、演奏に一体感があること。そして、一人ひとりの演奏を取り出したとしても、すべてソロ演奏として成立していること。さらに、演奏を演奏者自身が楽しんでいることが伝わってくる。それとともに、一発勝負の緊張感が存在する。演奏一曲、一曲ごとにメリハリがある(バラードはバラードらしくしっとりと、リズミカルな曲は空高く弾むように・・・1曲の中でも抑さえるところは静穏に、はじけるところはお茶目に、という具合)。最後に、録音が最高にクリアです。

 ジョン・ルイスのことを書こうとして、MJQのことから始めてしまう、ありきたいりな導入をしてしまっているけど、ラストコンサートの良さを列挙しましたが、kumac は、その良さを際立たせる大事な要素があると思っています。それは、室内楽だから、ということです。多くのジャズの演奏は、コンサートホールやライブハウスなど室内で演奏されるので、室内楽というのは当然、と考えますが、kumac が際立つ要素として取り上げた<室内楽>は、<制約>といってもいいかもしれません。例えば、俳句や短歌のように、定型のある文学のことを想像していただければ、なんとなく分かるかも知れません。その制約、俳句で言えば、季語や五・七・五の文字の制限などです。俳句でも自由律俳句や無季語の俳句がありますが、そしてそれを否定することはないと思っていますし、自由律俳句の中にも素晴らしい作品があります。

 これ以上書いて行くと、本題から限りなく外れるので、ここいらでこのジョン・ルイスの作品『Evolution』に戻ります。まあ、ジャケ買いですね。というのは、ジョン・ルイスの作品をこれまで幾つか買いましたが、さほどに良いと思ったものはありませんでした。なので、今回、きのCDをどうして買ったのかという説明は、ジャケ買い以外の動機はないということになります。それと、若干、ソロピアノ集(それも、「クラシック」という言葉がどこにも見当たらなかったことも、今思えば、買っても良いかなと思った理由かも知れません。)ということも食指が動いた理由の一つです。

 結果、素晴らしい作品です。ジョン・ルイスのジャズに対する前向きなアプローチが聴くことができます。有名なスタンダードナンバーが多く収められていますが、その曲の解釈も面白いです。例えば6曲目の「Django」は、流れるような旋律をわざとぶった切って、曲の持つ緊張感を、裏の裏をかいて、消しています。ほとんどの人は、どんなメロディーか知って聴くはずです。次に、どんな旋律が流れてくるか分かっているはずです、だから小細工の使用がないところを、旋律の流れを切ることで、聴く人の先入観を裏切って、次への期待を持たせます。その時点でも、もう曲本来の持つあのメロディーの密度の濃淡を違う方向から光を浴びせ、違う色彩に変えています。そんなに大胆に変わる訳ではないです。曲のメロディーから外れるようなことはしませんから、だからこそ面白いとも言えます。その後の曲の展開も、MJQからの演奏に通じる手法を持ちながら、ジョン・ルイスの個性で全体を覆う作品に仕上げています。

 そんな感じで、どの曲もとても楽しめました。

 あとは、ジョン・ルイスの呻き声が聞こえるところが最高ですね。

エヴォリューション/ワーナーミュージック・ジャパン

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2016-05-07 06:19:03

Ray Brown『This Is Ray Brown』

テーマ:1955-1959
 1958年録音。タイトルが、モロ出しです。『これぞ!レイ・ブラウン』という、決定版です。レイ・ブラウンのベースを引き立てようとする意味でしょうか、マルチリード奏者のジェローム・リチャードソンは、全篇、高音域を主戦場とするフルートを演奏しています。そして、1曲目「Bric Brac」では、ピアノのオスカー・ピーターソンがオルガンで曲にアクセントを付けています。つまり、ベースがリズムを刻むことに徹しながら、自己主張を鮮明にすることを可能としているということだろ思います。
 2曲目「Upstairs Blues」は、レイ・ブラウンのソロベースによるテーマの提示から始まるブルース曲。その揺りかごのような眠りを誘うリズムの中を、フルート、ベースのソロが続く、どこかチャーリー・ミンガスを思わせるレイ・ブラウンの演奏は、似ているということではなく、渾身の気持ちを込めてベースをかき鳴らすという行為自体が、とても激しさを持っているということではないかと思わせます。楽器として、とても地味ですが、それが一旦、心に響いてくると、激しく揺さぶられる。アフリカン・アメリカンの悲哀をここでは強く感じます。そういう意味で、ミンガスと同じ意識をベースという楽器に持っていたのではないでしょうか。最終的な音楽としての表現方法は違っていても、素は同じだと思わせます。
 3曲目「Indiana (Back Hpme Again In)は、テーマをレイ・ブラウンが弾く、テーマを引くと行っても主旋律を高音域で奏でるということはせずに、あくまでべーシングスタイルを守ってています。つまり、低音域をカバーする本来の役目を果たしつつ、テーマを受け持つということで、変に自分のスタイルを曲げてまで自己主張をしようとしない姿勢に清さを感じます。アップテンポの曲で、後半のオスカー・ピーターソンの早弾きに対するレイ・ブラウンのウォーキングベースが見事です。
 5曲目「Tak The 'A' Train」で、初めて伴奏に徹していたハーブ・エリスがソロをとります。泣きの入るブルージーなギターが面白いです。
 6曲目「Cool Walk」は、この作品の中で白眉の演奏です。レイ・ブラウンのフォービートのウォーキングベースでテーマが始まり、ハーブ・エリスがリズムギターを弾き鳴らし、オスカー・ピーターソンがオルガンの様々な音色でおもしろおかしくバッキングをします。その中を、レイ・ブラウンがソロをとってゆきます。それに呼応するオスカー・ピーターソン。ハーブ・エリスがソロをとるときには、レイ・ブラウンはウォーキングベースに徹します。その表情あるリズムの受け渡しが見事です。というか、楽しいです。
 レイ・ブラウンとは、けっして饒舌ではなく、出しゃばらす、低音域を黙々と動き回るベース奏者でることを強く自己主張した作品です。

ディス・イズ・レイ・ブラウン/ポリドール

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2016-05-04 06:43:41

Sal Mosca & Warne Marsh『Quartet volume 1』

テーマ:1980-1984
 正式なタイトルは『Sal Mosca ・ Warne Marsh Quartet volume 1』。つまり、サル・モスカとウォーン・マーシュの双頭バンドのセッションを2枚のCDにしたうちの最初の1枚ということです。録音は1981年、ビレッジ・バンガードでのライブ録音です。発売は、1992年(多分この年が最初の発売)なので、プライベート録音に近い音源なのかなと、最低限、作品としてなにがしかのタイトルを付けて演奏の記録を発売する予定はなかったものだと思います。
 この二人の共演はかなり多いようです。有名なところでは、『リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ』でピアノを演奏しています。トリスターノ派の音楽理論が染みついている二人なので、そのような演奏になっています。どこがどうのと kumac が書けないのは、イマイチ、トリスターノ派の音楽が理解できていないからです。でも、こうやって結構、飽きずに聴いているのは、好きだからです。どういうとこがと、聞かれたら、「よくわからないところ、と、でも、妙に(気持ちに)引っかかってくるところがあるから」という感じの答えになるのかなと思います。
 やる気度でいえば、サル・モスカが断然、ここではやる気を出しています。この日のギグは、もしかして、サル・モスカの名前でクレジットされていたのかもしれません。ウォーン・マーシュの出番は、それ相応にありますが、さして気持ちが入った演奏でもなく、要はいつものウォーン・マーシュらしさ満開で、果敢に何かに挑戦する気配は皆無です。それにくらべ、サル・モスカは師、トリスターノの演奏をさらに進化させようとする気迫が演奏に感じられます。具体的に言えば、リズムのずらしを次への推進力に変えている、ということでしょうか。ピアノは、メロディアンスな打楽器なので、リズムにメリハリを加えずに、一定にしてメロディーだけで音楽を家具(サティとは違うのですが)や筆記用具のようにさりげなく使う、仕舞う。そいういう生活様式に対して、本棚を道具箱のように使うとか、椅子を逆さに天井から吊し、部屋のディスプレイにするとか、なんかそんな気持ちを感じます。
 そういう風に考えてゆくと、5曲目「Dig - Doll」ののっけから畳み掛けてくるウォーン・マーシュのテナーのグネグネ感が最高に緊張感をもたらしてくれます。しかし、興が乗ったところで、何故かこの演奏はウォーン・マーシュのソロの途中でフェードカットされています。この後、続くマーシュのソロがなにか破綻をもたらしたのでしょうか。6曲目「Under - Bach」でも、マーシュの独壇場となっています。いいですね。ここでの演奏は、最高です。やる気を出しているな。前言撤回です。

mosca&marsh_1


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