アナウンサー歴30年(元テレビ東京)。スポーツ実況中心に活動してきました。アナウンサーのこと、スポーツのこと、テレビのこと、その他諸々。気になることを書き散らしたいと思います。
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2009-11-07 16:45:06

マニフェスト考

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民主党のマニフェストについて、最近メディアを通じて、あるいはメディア自体から、あるベクトルの論評が頻繁に発せられている。様々な表現ではあるが、共通している論旨は、「マニフェストは大切だが、マニフェストにとらわれるのはいかがなものか。実行するのに困難がともなうなら、ある程度は反故にしてもかまわない。それは国民も判っている。」というものである。

つい先日の土曜日、朝の情報系番組を見ていたら、防衛の専門家である某大学教授が、『マニフェストは選挙の時だけの公約なのだから、ウンヌン…。』と宣っていたのだが、これってどうなんだろう。おかしくないですか。まだ政権が誕生して2カ月しか経たないこの時期に、すでにマニフェストはどうでもいい的発言は、私は賛成しかねます。

マニフェストは政権公約である。自民党時代の選挙公約とは訳が違う。国民との約束であり、実行を担保するものなのである。『公約なんて大したことではない!』と国会でほざくような総理大臣を生まないためにも、マニフェストを、どんなに少なくとも1年はきっちり実行する姿勢を見せてもらいたいですね。もうすでに民主党は、かなりいろんなところでグラつきかけているのだから。

上記の論評の中で、マニフェストに優先順位をつけるという点に関しては、同意見である。年金・インフルエンザ・景気浮揚・失業者対策など、急を要する事項はある程度強引に進めても文句は出まい。逆に、ダム・JAL・普天間・高速道路・地方分権等はある程度時間をかけてもいいのでは…。要はメリハリだと思います。

今夏の選挙はマニフェスト選挙と呼ばれた。しかし投票した国民のうち、何%がマニフェストに賛成して民主党にいれたのだろうか。”明治以来の官僚体制の打破”や”コンクリートから人へ”といったキャッチフレーズが、マニフェストの細目より魅力的だったと感じたのは、私だけではないはずだ。それを承知で、でも【マニフェストが大切】と敢えて声高に唱えるのは、政治と大衆を最も端的に結びつけるものが選挙であり、マニフェスト選挙は具体的で判りやすく、ある意味成果を可視化できる(数値化)からなんですね。

さきほどグラついているといったが、日本郵政社長に元大蔵次官の斎藤氏を起用した一件は、あれは大失敗でしょう。もし鳩山内閣が途中で頓挫したら、間違いなく主因である。まあ、マニフェストを堂々と破ってくれたものだ。斡旋と選任は違うと言ってみたところで、言い訳以外の何物でもない、『やっちまったなぁ~!』である。こっちもあげた拳を下ろさざるをえなくなる。

所詮民主党自由民主党と根っこが同じということなのか…と考えてしまいますね。自由が取れた分、ひょっとしたら始末に悪いかもしれない。初めて政権の座についたというエクスキューズは、年内一杯でしょう。小選挙区はドラスティック。そのことは民主党が一番よくわかっているとは思うが…。

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2009-11-03 11:15:33

五代目三遊亭圓楽

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三遊亭圓楽師匠が亡くなった。享年76。ここ数年は病との闘いだったようだ。07年に引退し、名跡を弟子の楽太郎に譲ったあとは、テレビで見かけることはほとんどなかった。

故三遊亭圓生の一番弟子として、昭和30年に落語の世界の門を叩いた。前座名は全生。圓楽が世間に知られるようになったきっかけは、ご存じあの『笑点』である。”星の王子様”と自らを称し、一躍人気者になった。当時談志・志ん朝・円鏡(現圓蔵)そして円楽で、落語界の四天王といわれたこともあったが、この4人の中では、入門は2番目・年齢は一番上であった。なかでも談志とは一番気の合う仲だったようである。

彼は噺家としては体が大きく、風貌はいかつい。声は低音でドスが利いている。師・圓生ゆずりの人情話を得意としていたが、艶っぽい女性が登場する噺だと、あの声と容姿がどうもネックなっていたように思う。武ばったシーンではいいのだが、男女の微妙な会話のシーンなど、少し違和感というか物足りなさというか、マイナスな印象を感じていた。つまり、噺家としての素質には、恵まれてはいなかった。

桂歌丸があるテレビ番組で、圓楽の功績は落語を日本全国に広く知らしめたことであると話していた。師・圓生が落語協会を脱退し、”落語三遊協会”を立ち上げたのが切っ掛けで、圓生亡き後も、協会には戻らず、”大日本落語すみれ会”を起こして師匠の意思を継いだ。寄席には出られないので、自ら”若竹”を創りそこを拠点とし、同時に活動の場を全国とくに落語が浸透していない地方に見出した。この過程は、”立川流”にも共通している。影響力は、立川流の方が大きかったのではないだろうか。いずれにしろ談志・圓楽の二人は、落語の啓蒙に一役・二役買ったのは間違いない。

テレビ報道などでは、「昭和の名人逝く。」という表現がされているが、名人の域に達していたとはお世辞にもいえいないと思う。圓生や小さんとの差は明らかだ。その代わり、落語と現代との接点に位置し、廃れつつある落語に辛うじて鮮度を与えていた存在として、談志ともども貢献度は大である。またもう一つ、弟子の育成にも定評があった。

圓楽の噺で印象に残っている演目は、残念ながら思い浮かばない。というか、私はほとんど彼の落語を聴いた事がない。偉そうに言えば、私の方で噺家を選っていた。しかしいざ亡くなったという事実を前にすると、懐かしさや寂しさ・喪失感が去来する。私が落語を好きになって、趣味が昂じていくのと同じグラフで、圓楽の人気・存在感が高まっていった。そう、私の青春の一部分は、圓楽のそれと重なり合っていたのだ。彼の死は、私と昭和との距離をまた一つ引き離すことになった。確実に時代は変わってゆく、その事実を残酷なほど淡々と圓楽の死は伝えている。(敬称略)

2009-10-28 09:15:28

就職先

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菊池雄星君が泣いていた。就職先を国内に絞ったという決意の記者会見での1シーン。大の大人がよってたかっていたいけな高校生を苛めていると取るか、大人の階段を登る第一歩でこれも社会の仕組み、成長のための1ステップと取るか…人それぞれであろう。

菊池雄星は、言わずと知れた高校球界のスターである。その左腕から繰り出される150kmを優に超す速球は、国内のみならずメジャーのスカウトにとっても垂涎の的!紛れもない”金の卵”なのである。金の卵は金の成る木でもあるんですね。そこで大人が群がってくる。

自分の進路は自分で(強いて言えば家族まで)決めるのが筋だと思うが、四方八方から様々なプレッシャーが菊池雄星に降りかかってくる。本人はメジャーリーグでプレーすることが、子供のころからの夢だっととのこと。本人の意思を第一に考えれば、結論は明らかだろうに、そうはいかないから滂沱の涙ということでしょう。

以前田沢投手をブログで取り上げたときも、同じことを感じたが、この手を問題はこれからも出てくることは間違いない。田沢は社会人だったから自己判断・自己責任の部分もあるだろう。でも菊池雄星はまだ未成年である。野球界は早くルールを作ってあげる必要があると思うけどなぁ…。

これがサッカーだと、こうした事態は起こらない。まずドラフトがない。スタープレーヤーには代理人が介在するだろうから、選手個人が表面に出る必要がない。欧州と国内の、リーグのクラブの規模が違いすぎるので、競争相手になりにくい。サッカー協会やJリーグが海外挑戦に寛容な姿勢を持っている。つまり日本のサッカーの方が、日本の野球よりグローバル化が進んでいるです。

アスリートなら、最高の舞台でプレーをしたいと考えるのは至極当然のこと。報酬でも待遇でも施設でも、そして注目度でも、あらゆる面で最高のレベルで、自分の力を試したいと思うのが当たり前である。野球に関して言えば、メジャーリーグがまさにそれです。でも日本はWBCを連覇したし、実力・伝統も十分にある。ハナからメジャーに負けてないという自負をお持ちなんです。だから難しい。

マーケットは大きければ大きいほど、人・モノ・金が集中する。プロ野球も、いかにマーケットを拡大するかに精力を注ぎ込むことが肝心だろう。それは量と同時に質の大きさでもある。メジャーとの協力・共存を視野に入れる時代に、なりつつあることも事実である。ドメスティックからグローバルへ、野球は変わらざるを得ないのだと思う。菊池君の涙は、いろんな意味で惜別の涙なのかと、感じたりもする。


2009-10-22 16:22:47

次はW杯招致?

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2016年の五輪招致に東京都が失敗した。個人的感想は、正直良かったほっとした、というところです。五輪に莫大な費用をかけるなら、もっと実生活に付随したことに使って欲しいし、五輪のお祭騒ぎは、おそらく度を越した喧騒と混乱を日本の中心に齎すこと想像に難くないからである。

ただそれ以上に、メディアの特にテレビの狂乱ぶりが目に浮かぶんですネェ。朝から晩まで五輪・五輪、しかもタレントキャスターと女子アナが訳もわからず幅を利かせて、我が物顔で能書きを垂れる。情けないのは、それが番組の中心に据えられてしまうものだから、ゆっくりとスポーツを楽しむことができやしない。リオなら時間帯が真反対なので、多少はそれらを見ないでも済むというもんでしょう。

五輪に関しては、スポーツ関係者が是非招致したかったという気持ちは想像できる。なんといっても、五輪による競技の強化と宣伝効果は大変なもので、競技人口の増加、その結果として競技団体の歳入増が目に見えているのだから。一人のヒーロー・ヒロインの誕生が、劇的にスポーツシーンを変える例は、卓球の福原愛ちゃんが証明しています。

五輪招致に関しては、広島・長崎が共催を名乗り出て、東京も再度の招致を検討しているとのことだが、、実はもう一つ『W杯開催を、また日本で』という動きについて、今日は取り上げます。2002年のW杯は、運営的には成功裏に終わった。収支の面からも成功だったようである。でも私にとって、2002年W杯は、1970年からW杯を見てきた中で、最もつまらなかった大会でもあった。

W杯は、その時代の最高のプレーヤーがその時の最高のプレーを見せる場であり、その時代を象徴する戦術・システムを目の当たりにできる舞台である…というのが私の考え・思いなんです。過去にW杯で1勝もできないチームや、数十年ぶりに本大会に出場してきたチームが、いきなりベスト4に入ることなんてあってはならないことなのである。

それが現実に起こったということは、大会そのものに何らかの原因がある。欧州・南米からは遠く離れた極東の地。高温多湿の慣れない環境でのプレー。激しい国内リーグやチャンピオンズリーグを戦いぬいてきた選手たちのコンディション不良。そしてあからさまなホームタウンディシジョン。”最高の大会”は、その規模と経費の面だけでのみ”最高”と呼ぶことができるというのが本当のところでしょう。

2002年のW杯は、あらゆる部分が権利で雁字搦めになってしまって、自由にW杯を盛り上げる事が出来なかった。会場や練習施設の警備が厳しすぎて、せっかく世界のスターが集っても、ファンはもちろんマスメディアにいる人間も接点をほとんど持てずに終わってしまった。つまり、場所だけW杯に貸しただけなのである。

あれは少なくとも私の理想とするW杯からは程遠い代物でした。外国に行かない分、費用の面では助かったということと、眠い目をこすって徹夜しないで済んだというだけのこと…である。意外かもしれないが、私はサッカー発展途上国では、W杯をやらないでほしいと思っている。もし日本で開催するなら、日本が常にランキングで20位以内にいるような実力をつけてからにしてもらいたい。ファンもメディアももっと熟成してから、ゆっくりとW杯を楽しもう。まあ、それまで生きていればの話だが。

2009-10-16 16:54:41

リポート嫌い

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アナウンサーの仕事は、大きく分けて5つある。原稿読み、司会(MC)、実況、インタビュー、リポートの5つで、私は実況を本職にしている。人により、得手不得手・好き嫌いのジャンルはあるが、基本はすべて一通り経験するのがベストでしょう。

と振っておいて、実は私はリポートが大嫌いという話なんです。嫌いになるのには当然理由があって、昔リポートで大チョンボして、それがトラウマになっている、というのが第一の理由。大チョンボの内容は、恐縮ですが伏せます。思い出したくもない。それ以来私のアナウンス人生は、リポートなんて仕事をしないために頑張ってきたといっても過言ではない。

二つ目は、リポートと言えるかどうかわからないが、プロ野球のビール掛けに行かされて、服と靴が台無しになったこと。あの”ビール掛け”って、ホントに見たいのだろうか?くだらないしつまらないでしょう。選手と関係者が内輪で楽しく盛り上がれば、それでいいと思うのだが、なんで公共の電波で、アレを流さなければならないのか。一種の約束事のようになっていて、パターン化しているのも、嫌いな理由である。

リポートが、テレビ・ラジオでは必要な仕事というのは分かっている。特に報道の分野では、現地から取材した事柄を伝えることは、状況分析や検証に役立てる重要な要素になる。文を読むより、画で見て音で聴く方がはるかにインパクトがあり、より事実に近づけるというのも間違いないと思う。

でもそこまでしてやらなければいけないのか、という例もある。台風中継ってヤツです。風が強く、立っているのも覚束ないような状況で、顔面に横殴りの雨を浴びながら、怒鳴るようにリポートする必要って、一体どれほどあるのだろう?満足にリポートできる状態じゃないところを見せることで、台風の威力を表現しようということなのか。何を言っているのか分からないのだから、リポートの内容ではなく、そこに立っている事実だけが必要なのである。

どうも、リポーターを馬鹿にした話です。スタジオでは、「気をつけて取材してください。」とかなんとか言ってはみるが、危険を冒してまでリポートする意義が判らない。画先行なら、カメラだけでいいだろうし、もしどうしてもリポートするのなら、安全なところ(屋内等)に移動して、取材した内容を、冷静に伝えればいい。

テレビは画が主で音が従、と言われている。視覚に訴えることは、テレビの特性である。そこがラジオとの決定的な差であるし、情報量の多さでもある。ただ報道のバラエティー化が進むにつれ、リポートに求められることが、以前とは変わりつつある。リポートの中身より、リポートしている姿を映して、そのリアクションを楽しむといった具合に。人の生死にかかわる問題でも、ひとつの素材として扱われる。私が、リポートが嫌いな理由が、お分かり戴けたでしょうか。

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