第50本 『新明解国語辞典 第4版』 山田忠雄 (三省堂) | 一遊一夜〜語るに足らぬ私について語るときに私があえて語ること〜

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遊戯三昧の書評。
本の批判はここではナシよ。

                     『新明解国語辞典 第4版』
                       金田一京助 (三省堂)


 今回で、取り上げた本も50冊に届いた。
 私が目標とする地点の1/20に届いた記念に、今回は辞書だ。
 ほんとに読んだのかって?
 2/3まで読んだ。
 ワイルドだろう?
 


 さて、新明解国語辞典は、
三省堂が発行する国語辞典の一つである。版元による正式な略称は「新明国(しんめいこく)」だが、ファンには「新解(しんかい)さん」の愛称で親しまれている。語釈や用例に独特の表現を用いており、ファンが多い。項目数は77,500(第7版)
 何が面白いって、主幹の山田忠雄先生の個性が色濃く反映されているところだろう。1996年、赤瀬川原平著『新解さんの謎』でその個性が取り上げられベストセラーになったほどである。


 数例あげてみようと思う。
「動物園」
・・・生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀なくし、飼い殺しにする、人間中心の施設。

 「恋愛」・・・
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。

 「公僕」・・・
権力を行使するのではなく国民に奉仕する者としての公務員の称。実情は、理想とは程遠い。

 「凡人」・・・
自らを高める努力を怠り、功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。マイホーム主義から脱することのできない大多数の庶民の意にも用いられる。

 「洒落」・・・
その場の思いつきとして類音の語に引っかけて、ちょっとした冗談や機知によってその場の雰囲気を和らげたり、盛り上げたりする言語遊戯。例、富田(とんだ)という男がなにか失敗して、みんなが気まずい思いをしている時に「とんだ事になったな」などと言って、しらけた空気を紛らわすなど。

 「応接」・・・やって来るものを迎えて、いちいち相手をすること

 「ところてん」・・・さらして煮たテングサから作る、透き通ったぷりんぷりんの食品。(たしか新しい版では「ぷりんぷりん」ではなく「べろべろ」となっている)

 「マンション」・・・スラムの感じが比較的少ないように作った、鉄筋のアパート式高層住宅。


 こんな具合だ。これは笑える。
 ここで問題。「右」「左」を新明解はどのように定義しているか。

 答え。
 「右」・・・アナログ式時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致。

 「左」・・・
アナログ式時計の文字盤に向かった時に、七時から十一時までの表示のある側「明」という漢字の「日」が書かれている側と一致


 お見事。感覚に訴えるほかないと見え、新明解は自身の名前にも使われている「明」の字を用いてまで説明している。再び、お見事。辞書によっては北を向いたときに、東の方向に当たるのが右、西が左、のような定義にしているものもある。

 しかし、ここで不思議に思わないか。言葉で言葉を定義するとは、一体どういうことか。先ほどの例では、アナログ時計を使って定義がされていたが、私たちが一般的に思いつく答えとしては・・・
 「右」・・・左の反対
 「左」・・・右の反対

 こうではないか。
 しかし、するとどうだ。堂々巡りの完成になる。
 こういう事態を避けんとすべく、辞書製作者は苦心する。もともと言葉が言葉を定義する仕組みなのだから、多少の無理が生ずるのはお分かりいただけるだろう。自己言及は、無限ループへの入口であるであるから。

 私・・・「すべての出版物を記載した本を作りました」
 可愛い女・・・「それって、その本自身はその本の中に記載されているの?」
 私・・・「はい。勿論。すべての本を記載した本ですから」
 美人な女・・・「でも、そしたら『すべての出版物を記載した本』という名前でまた新たに一冊の本ができるわよね? そしたら網羅できないじゃない。網羅するなら『
すべての出版物を記載した本を記載した本』でも『すべての出版物を記載した本を記載した本を記載した本を記載した本を記載した本』でも無理よ。」・・・(※)
 私・・・「じゃ、載せるのやめます」
 聡明な女・・・「そしたら、すべての出版物を記載した本にはならないでしょ。だって、その本が記載されないから」
 女3人で一斉に皮肉の喝采・・・「パラドックス!」

 かくして、自己言及は(※)の時点で無限ループにおちいっていくのである。


 さて、己自身を辞書はどのように定義しているか。
 大して面白くなかったから、気になるなら各人でひいて呉れ。

 
 新明解は主幹の山田先生の主観がいっぱいの本であった。
 おっと、ここで、最後に、この言葉を定義しなくては。

 「ダジャレ」・・・
少しも感心出来ない、つまらないしゃれ 
 
 この書評自体、ひとつの織物をなしている壮大な駄洒落である。そう、あなたの人生と同様に。