第百三十四話「罪に濡れるふたり(その43)」




健吾にがっしりと掴まれた腕は、どんなに振り払っても離れてはくれなかった。

まるで、これからの私の人生が、掴まれた腕のようにがんじがらめにされているようで、私はとても怖くなった。


「いや!離して!私は、あなた達の思うようにはならないんだから!」


激しい雨に負けないように、私は全身に力を込めて叫んだ。

しかし、私の叫び声に健吾は全くと言っていいほど反応しなかった。

その代わり、健吾に掴まれた腕には更に力が込められ、痛みで悲鳴をあげそうなくらいだった。


「もう…離して、…離してよ!」


健吾から掴まれた腕の痛みで、私の頬に涙が滲んだ。

打ち付けられる雨で、すぐに流されてしまったが、悔しいことに叫ぶ私の声は、既に涙声だった。

私は、健吾の前では泣きたくなかった。

今、泣いてしまったら、健吾達に負けを認めてしまうような気がしたからだった。

それでも、涙は止まらなかった…

負けを認めた訳じゃないけれど、涙は止まってくれなかった。

悔しさでギュッと噛み締めた唇から、微かに血の味が口内に広がっていく。

やっぱり、私は諦めきれない…

力ずくで思い通りにしようとする健吾から逃げ出すことを、私は諦めきれなかった。



健吾から強引に引きずられ、戻っていく道の途中で、ほんの一瞬、健吾の掴んだ手から力が抜けた瞬間があった。

私は、その瞬間を見逃すことなく、健吾の腕から逃れることが出来たのだった。

諦めなくて良かったと思った時、私の目に正臣の姿が映った。


「…正…臣…」


健吾の腕から力が抜けた瞬間は、正臣を目に捉えた瞬間だったのだ。

ようやく健吾の手から逃れられたと思っていた私は、正臣の姿を目にして愕然となった。


「姉さんは…絶対に渡さないよ」


別荘からいなくなった私を、正臣は懸命に探したのだろう…

健吾を睨んで言い放った正臣の肩は、大きく揺れていて、肩で呼吸をするのがやっとの状態だった。


「まさか、お前までここにいるなんてな…」


正臣の姿を見た健吾の声が、驚くくらいに震えた。

思いもよらない人物に出くわしたことへの驚きに加え、目の上のたんこぶである正臣を見て、思わず武者震いしたようだった。


「正臣、逃げて!お願いだから…逃げて!」


私は咄嗟(とっさ)にそう叫んでいた。

正臣を見つめる健吾の後ろ姿に、殺気だったものを感じたからだった。


「…目障り…なんだよ。正種伯父さんが、お前を鷹司家に連れてきた時から、ずっと…お前の存在が疎ましかったんだよ」


「…健吾…兄さん」


「やめろ!!お前に…お前に兄さんなんて呼ばれたくないんだよ!」


健吾はそう叫んだかと思うと、目の前の正臣に掴みかかろうとした。


「ダメ!」


殺気だった健吾の背中に、私は無心で飛び掛っていた。

その衝撃で、健吾の身体はバランスを崩し、正臣に届かないまま地面に倒れた。


「正臣…逃げて!…お願いだから!」


私は地面に倒れた健吾を横目に、佇む正臣に必死で懇願する。


「姉さんも…行こう。一緒に…」


私の懇願が通じたのか、一旦は背中を向けた正臣だったが、直ぐ様振り返って、私に手を伸ばしたのだった。


「早く!」


今度は正臣に促され、私は慌てて正臣の差し出した手を握り締めた。

しかし、私達が触れ合えたのはそこまでだった…

地面に倒れた健吾が、泥まみれのまま、私の背中にのしかかってきた。

しっかりと握り締め合った筈の正臣と私の手は、健吾がのしかかった衝撃と激しく振り続ける雨も手伝って、離れてしまったのだった。

怒りに震えた健吾が私の身体を力任せに地面に叩きつける。

倒れ込んだ私を確認した健吾は、改めて正臣の佇む方へと向き直った。


「本当に目障りな奴だな…お願いだからさ、俺の前から消えてくれよ」


健吾がそう言葉を発した途端、目の前で二人の距離が一気に縮まり、揉み合う姿が私の目に映った。

正臣より一回り以上は身体の大きな健吾が、正臣を殴りつけ追い詰めていく。


「健吾さん、やめて!正臣は…本当は…」


「姉さん!!」


「あなたの…本当の弟なのに!」


私は正臣の制止する声を聞かないままに叫ぶと、残された力を振り絞って揉み合う二人に体当たりした。



激しい雨が私の全身を痛いくらいに打ち付けている…

地面に倒れた正臣の姿だけが、私の目に映った。

健吾の姿は私の視界にはなかった…

眼下に広がっている筈の海は、真っ暗で何も見えない。

健吾はその暗闇の中に吸い込まれて行ったのだった――





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第百三十三話 「罪に濡れるふたり(その42)」







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