第七十一話「罰(その4)」




妙(たえ)から母の様子を聞いた私達も、拓人の後を追うようにして、母のいる部屋へと向かった。

部屋が近付くにつれ、廊下にまで叫び声が聞こえてきて、私達は逸る気持ちを抑えながら母の部屋に向かう足を速めた。

少し開いたドアから、泣き叫びながら周囲のものを床に散らかす母の姿が見える。

その傍(かたわ)らで、拓人が母の姿を見守るように立っている。

私は部屋の中に足を踏み入れると、髪を振り乱して泣き叫ぶ母の元へ、迷うことなく近付いていった。


「菜々子ちゃん!」


母の様子を見守っていた拓人が、無防備な私を心配したのか、声をあげて私の動きを制止させようとした。

しかし、荒れた母の姿を目にした途端、拓人の声も耳に入らず、私は居ても立っても居られないまま母へと近付いたのだった。


「お母様!」


私の声に母は一瞬、動きを止めた。

そして、「菜々子」と私の名前をか細い声で呼んで、私の姿を確かめる。

「お母様、しっかりして!」


私は母の両腕をしっかり掴むと、母を正気に戻そうと必死で体を揺すったのだった。

私に体を揺さぶられた母は、暫くされるがままになっていたが、突然、正気に戻ったのか…

糸が切れた人形のように床に崩れ落ちた。


「…お母様!」


母の体を支えることが出来ずに、一緒に床へと崩れ落ちた私は、力なく呆然と座り込んだ母の体を覆うように、ギュッと抱きしめていた。


「…どうしたら…いいのかしら…」


「…お母様?」


「菜々子…どうしたら…いいの?…あの人が居なくなったら…私…どうしたら…」


私の腕の中で、母の途切れとぎれの言葉が切なく響いた…

父にすべてを任せ、父を頼りきっていた母には、父の死は受け入れ難いものに違いなかった。

父の存在を失った今、母はその事実を拒もうとする気持ちと、受け入れざるを得ない現実に苛(さいな)まれているのだろう…


「あの人が…居なくなったら…私も生きて…いけない」


「お母様…何てこと言うの…私達がいるじゃない。私と正臣が…ここにいるじゃない」


現実から逃避しようとする母を奮い立たせようと、私は抱きしめた母の体に一層、力を込める…

しかし、抱きしめた母の体には、私を抱きしめ返す力は湧き上がってこなかった。


「お母様…しっかりして…」


そう呟く私の声は、虚しくも母の耳には届いてはいなかった…



その日の夕方…

慌ただしく旅の支度をした正臣が、母の部屋を訪れた。

生気を失った母は、拓人の調合した薬によって、深い眠りの中にいた。


「…正臣…もう、行くの?」


「うん…もう、出ないと夜の船に間に合わないって…」


正臣は母を起こさないように気を遣っているのか、小さな声でそっと呟いた。


「菜々子ちゃん…ここは、いいよ。僕がお母さんを看てるから…」


「先生…」


「正臣くんを見送っておいで…さぁ…」


拓人の言葉に背中を押されて、母の眠るベッドからようやく腰を上げると、私は母の部屋を後にした。


「姉さん…大丈夫?」


部屋を出て玄関へと向かう途中、先を歩く私の背中に、正臣の心配そうな声が投げ掛けられた。


「ごめん…姉さん。俺、どうしても…お父様をこの手で迎えに行きたいんだ…だから」


「うん…分かってる。私は…大丈夫よ。お母様と一緒に、お父様がお戻りになるの…待ってるから…」


正臣の声に足を止めた私は、振り向かないまま、正臣にそう告げた。

正臣が少しの間とは言え、この家を離れてしまうことが、私には不安で堪らなかった。

でも、正臣の願いを叶える為には、そんな素振りは見せる訳にはいかなかった。


「お父様を連れて帰って来るまで…お母様のこと、姉さんに頼んだよ」


正臣の発した言葉と同時に、私の背中が温かくなる…

後ろから抱きしめられた私は、正臣の手を取りギュッと握り返して、涙を堪(こら)えたのだった――





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第七十話 「罰(その3)」







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