第五話「弟(その4)」




正臣が鷹司(たかつかさ)家に引き取られて9歳の誕生日を迎えた。

正臣と出逢って3年の月日が流れようとしていた。

私と正臣は、表面上はごく普通の姉弟だったが、私達の距離がそれ以上、縮まることはなかった。

父や妙(たえ)に言われる通りに、正臣とは一緒に遊んだり、本を読んだり、字を書く練習をして時間を共に過ごしてきたが、やはり、どんなに月日が経っても、私が正臣の冷たい手に触れることはなかった。

正臣と一緒にいればいるほど、私には持ち合わせていないものを持っていることに気づかされ、複雑な気持ちになった。

そのうち、正臣には「先生」と呼ばれる教育係のような者が付き、父の命令で鷹司家独自の教育がなされるようになった。

それは、女である私が受けることのない教育で、そういったことも正臣との距離を縮めれない要因になっていることを私自身が感じていた。



そんなある日。

正臣が父の書斎に呼ばれ、暫く話をした後、嬉しそうな顔で私の部屋へとやって来た。


「菜々子姉さん!僕ね、秋から菜々子姉さんと一緒に学校に通ってもいいって。今、お父様からお許しが出たんだ」


正臣はよほど嬉しかったのか、いつになく興奮していた。

顔を赤らめ、いつも以上に笑顔を振りまいていた。


「そう、良かったじゃない」


私の抑揚のない返事にも、「うん」と嬉しそうな声をあげて、惜しみない笑顔を私に向けた。


「あまり興奮し過ぎたり、必要以上にニコニコ笑っていると、お友達が出来ないわよ」


私は正臣の嬉しそうな笑顔を制すように釘をさした。

それは、未だにそんな笑顔が作れない、私の嫉妬からくる行動だった。


「そうだね。鷹司家の男子たるもの、どんな場所でも冷静でなくちゃならない…だったね」


鷹司家独自の教育の中での教えだろうか。

正臣は独り言のように呟くと、「ありがとう、姉さん」と言葉を付け加えた。


「…読みたい本があるの。少し、一人にしてくれる?」


「あ、ごめんなさい。気が利かなくて…」


私の言葉で正臣が部屋を出た後、一人になった私は胸の中のモヤモヤを吐き出すかのように、深い溜め息を吐いた。

この3年の間で、私はまだ、心の底から正臣を受け入れることが出来ていなかった。

それは、母も同様で、なるべく触れないようにしているのが、私の目から見ても明らかだった。

それだけではない。

使用人達の間でも、正臣の存在を認める者とそうでない者がいることも、雰囲気で感じ取れた。

妙(たえ)のように正臣に接したいと思う一方で、蝶よ花よと愛(め)でられた頃の自分が消せない…

父の愛が正臣に与えられる愛で、半分になってしまったようなそんな気持ちが、私を意地悪な行動へと駆り立ててしまう。


「あぁ、もう!」


結局、正臣に掛けた言葉で更にモヤモヤが募った私は、心を落ち着かせる為に父の書斎へと向かった。

父の言葉だったら、どんな言葉でも素直に聞ける気がして、嫌な自分を消し去ることが出来そうな気がしたからだった。

父の書斎の前に辿り着くと、少しだけ開いたドアの向こうから、今まで聞いたことのないような怒号が廊下にいる私の耳にまで届いた。

私は何事かとドアの前に慌てて近づくと、書斎には父と母の姿があった。


「正臣を学校に行かせるなんて、とんでもないわ!あなたは私をどれだけ苦しめたら気が済むの!」


私はその時、大人しい母が感情を剥き出しにする姿を初めて目にしたのだった――





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「凍える手 / 辛島美登里」