第三話「弟(その2)」




「正臣、お前のお姉さんの菜々子だ」


「…菜々子姉さん…」


父にそう言われ、正臣は恥ずかしそうに顔を赤らめたまま私の名前を小さな声で呟く。

一人娘だった私は、「お嬢様」と呼ばれることはあっても、「姉さん」と呼ばれたことはなく、何だか気恥ずかしい気分だったが、弟が出来たことが私の心をウキウキさせていた。


「私に弟がいたなんて!お父様、どうして今まで隠してたの?お母様も内緒にしてたなんてずるいわ」


まだ、8歳の私は弟が出来た喜びを隠すことが出来ずに、父と母に向かって嬉しそうな顔でそう言ってしまった。


「お母様、正臣をいつ産んでたの?ねぇ、教えて…」


喜びの声は止まることを知らず、私はソファーの端っこに座る母に近付いていく。


「菜々子お嬢様!」


妙の慌てた声が大広間に響き渡り、私の耳にも届いたが、妙が何故ここで私を制止しようとしているのか分からなかった。


「菜々子、ごめんなさい。ちょっと気分が…」


私が母の傍に駆け寄る前に、母はソファーから立ち上がるとそそくさと大広間から出て行ってしまった。

はしゃいでいる私とは対照的に、大広間に残された者は複雑な表情をしている。

私はようやくその異様な雰囲気に気付き、不安な顔で父の方を見た。


「私、お母様を怒らせちゃったの?」


「お前は何も悪くないよ。お母様も疲れているんだろう。そっとしておいてあげなさい」


「でも…」


「いいかい?菜々子。お前と正臣は姉弟だが、お母様が違うんだ。それは、追々(おいおい)菜々子にも分かるように話していくから。今日は、お母様をそっとしておいてあげて欲しいんだ」


私の中に疑問は残ったが、いつにも増して優しい口調の父に、「はい」と言わざるを得なかった。


「それよりも菜々子、少し正臣の相手をしてやってくれないか?正臣はこういう場所には慣れていないから、お前なりに教えてやってくれると助かるんだが…」


父の提案は、まだ幼い私の興味を上手くすり替えた。

父の言葉に私の頭の中から、さっきの疑問は消え、父の隣に立つ正臣へと好奇心を募ら
せていく。


「正臣…私の部屋に来る?」


私に返事をする前に、正臣は様子を窺(うかが)うように、父の顔を見上げた。


「姉さんがそう言ってるんだ。行ってきなさい」


「はい!」


父の言葉に安心したのか、正臣はこの家に来て、初めて元気な声をあげた。

大広間に集まった者たちも、固唾(かたず)を飲んで見守っていたが、幼い私達の打ち解けようとする様子を見てホッとしたのか、安堵したような空気が広がっていった。


「正臣!早く、早く!!」


軽やかな足取りで一番に大広間を出て、自分の部屋に向かう私の後ろを、はぐれまいと必死で着いて来る正臣の姿があった。

私達が大広間を出てすぐ、父も書斎へと戻ったようだった。


「…まさか、あの旦那様が余所で子供を作ってらっしゃったなんて…奥様が可哀想です!」


「あんなに仲が良くてらっしゃったのに…」


「しかし、奥様からはもう、後継(あとつぎ)を産むことは望めないからなぁ…」


「これからどうなっていくんだろうな…」


不安を感じていたのは、まだ幼い私だけではなかった。

大広間に残された使用人達も、今後の鷹司家を案じて、複雑な思いを抱いていたのだった――




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「凍える手 / 辛島美登里」