第百三十五話「戻れないふたり」
どうやって別荘に戻って来たのか…
私のその時の記憶は、定かではなかった。
気がつけば、別荘の居間にあるテーブルの椅子に、私は座っていた。
正臣が私の後ろ手に立って、大きめのタオルを頭から掛ける。
激しい雨で、ずぶ濡れになった私の髪を乾かそうとしてくれていたのだった。
「…正臣…」
「何?姉さん」
私の呼びかけに、いつもの調子で正臣が答えた。
「…私…どうして、ここに…?」
さっきまで打ち付けられていた激しい雨で、私の頭の中は何だか靄(もや)が掛かったようにぼんやりとしていた。
「ずぶ濡れになって、ちょっと意識がなくなったんだよ…」
正臣はそう言いながら、私の長い髪から丁寧に雫を拭き取っていく。
重たかった髪が、ほんの少し軽くなった気がした途端、私の身体が何かの感触を思い出して、カタカタと震えだした。
「…姉さん…?」
「ねぇ…正臣、健吾さん…は?」
私の頼りない言葉に、髪の毛を拭いていた正臣の手が止まった。
私は上半身だけを動かして、後ろにいる正臣を振り返る。
「…ねぇ、健吾さんは…戻ってないの?」
恐る恐る聞いた言葉に、正臣は何も言わないまま小さく頷いた。
その瞬間、私の頭の中に掛かっていた靄(もや)が、信じられない速度でパッと晴れていったのだった。
「…いや―――っ!」
一気に甦る記憶に、身体に残った感触に…私は凄まじいほどの金切り声をあげた。
自分の耳を両手で塞いで、私はそのままテーブルに顔を突っ伏した。
心臓がとてつもない速さでドクドクと脈打ち始め、今度は私の身体を大きな震えが襲った。
「…私…私…」
次々と私の脳裏に、激しい雨の中での健吾とのやり取りが、切り取られた絵のように描き出され、私の身体からスーっと血の気が引いていく…
「私…健吾さんを…」
私の口からその言葉が零れた途端、正臣の身体が私を背中から強く抱きしめた。
「…姉さんは悪くない。姉さんは悪くないんだから…」
「でも…私…健吾さんを突き飛ばして…それで…」
「姉さん、それは違う!…健吾兄さんは、足を滑らせて…それで、落ちて行ったんだ。真っ暗な海に…」
「正臣、違うでしょ…あなた、何を言って…」
「違わない!健吾兄さんは自ら足を滑らせて、海に落ちたんだ。…これは、事故だったんだよ。だから、姉さんは何も悪くない!…悪くないんだよ…」
私の耳元で震える正臣の声が聞こえる…
私の甦る記憶を留めるかのように、正臣は私の背中で泣きながら呟いた。
「…だから、姉さん…ここには、健吾兄さんは来なかった…」
「正臣…」
「俺たちはこの別荘で、四条先生が来るのを待ってた。ただ、ひたすらに…待ってたんだ」
正臣はそう言うと、椅子ごと私を自分の方に向け、真剣な顔を見せた。
混乱する私は正臣の言葉に、さっき起こった出来事は夢だったかのような錯覚を覚え始めていた。
「じゃあ、姉さん、服を着替えて。髪もいつもの姉さんみたいに、綺麗に梳(と)かして…ね」
私は正臣の優しい口調に促されるまま、服を着替え、まだ濡れたままの髪を櫛(くし)で梳かした。
「姉さん…一緒に帰ろう…姉さんをここに一人にはしておけない。帰ったら必ず、毎晩、姉さんに会いに行くから…俺が…いるから…」
「…約束…よ、正臣…」
「うん、…絶対。約束だ…」
私は正臣の腕に包まれながら、そっと目を閉じた…
さっき起きた忌々(いまいま)しい出来事が、夢であって欲しいと願いながら、私は正臣の胸に深く顔を埋めたのだった――
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第百三十四話 「罪に濡れるふたり(その43)」
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