直野章子『「原爆の絵」と出会う:込められた想いに耳を澄まして』 | 泰然自若@ソウル

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 ピカソの書いた「ゲルニカ」はとても有名ですが、あまり知られていないけど「朝鮮の虐殺Masacre en Corea」という絵もあります。これは1951年の作品で、ピカソが朝鮮戦争中、朝鮮民主主義人民共和国の黄海道信川郡で行われた集団虐殺にインスピレーションを得て描いた作品と言われています。ちなみに近年まで韓国では反米的だとして公開が禁止されていたそうです。

 現在その信川には信川博物館があり、そこには米軍による虐殺の姿を描いた多数の反米プロパガンダ芸術とも言える絵が展示されています。それらの絵については「のりまき・ふとまき」さんのHPから見ることが出来るので、是非ご覧下さい。この虐殺事件自体については、作家黄晢暎が『客人』の中で書いたように実は米軍の仕業ではなくキリスト教系の反共青年団の仕業であった、つまり住民同士の殺し合いであったとの見方もあります。何度かこの博物館に行った事があるのですが、同行した学生の虐殺に使われたして展示されてた銃がソ連製であったとの指摘は、これを裏付けるものかも知れません。けれども歴史的な考察をするのが本旨ではないので絵の話に戻ります。

 直野章子著『「原爆の絵」と出会う:込められた想いに耳を澄まして』に収録されている原爆被害者の方々の絵を見た時に、この信川博物館との絵のあまりのギャップが思い起こされました。もちろんプロパガンダ芸術の性格を持つ絵と、証言として書かれた絵は違ってあたり前なのですが。しかしその一方で、もしこの本に収録された、原爆死没者30回忌にあたる1974年と1975年にNHK広島放送局が呼びかけて集められた「市民が描いた原爆の絵」が、これが「ヒロシマの悲劇です」といったような形でのみ展示されるのであれば、それは信川博物館に掲げられた絵と何も変わらないのではと思います。原爆の被害、被爆者の苦しみは、そう「確定」出来たり、「出会った」り、「理解する」事が出来るものなのでしょうか。

 直野さんは本の中で、実際に「原爆の絵」を書いた被爆者の方々を尋ね、お話を聞く中で被爆者の方々が絵に込めた想い、そして被爆に対しての証言を聞いています。中でも印象深かったのは、せめて絵の中ではと表紙にもある川を青く描いたり、こどもの死体に毛布をかけてあげたりとする被爆者の方々の想いであり、「原爆の画というけれど絵人間です。軽やかにいわないでほしい」「祈りも、哀しみも、怒りも、虚しさも、あの絵の中にあるんじゃけえ」との言葉です。「原爆の絵」と、被爆体験の証言者と、それを聞き取る直野さんの三者なかで紡がれていく新たな関係性がこの本には描かれていて、それに伴う断絶、痛み、涙、目を背けたくなる辛さにより、なかなか頁をめくることが出来ない本だと思います。

 ではどのようにその断絶を乗り越えれるのか、もしくは乗り越えれないのか。他者の痛みを自分の痛みとしてわかる事などできるのだろうか。「遭うたもんにしかわからん」という被爆者の方から発せられる言葉。遭うたものにもわからないかも知れない体験の、理解不可能性を認めるとともに、その「証言」が、まさに関係性の中でこそ発せられているのだと言うところに、共振する可能性があるのかも知れません。その為には、過去を確定するのでなく、絶えず想いに耳を澄まして、冥福を祈らず(金時鐘)、関係性を紡ぎ続ける事こそが大事だと思います。

※阪大で行なわれた集中講義とシンポジウムを基にした、大阪大学日本学報27号も参考にしています。
※集められた絵は広島平和記念資料館のホームページからも見れますが、上の日本学報の中で張紋絹さんが批判されているように、その展示方法に問題がある思います。
 
「原爆の絵」と出会う―込められた想いに耳を澄まして (岩波ブックレット)/直野 章子

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